崇徳上皇ご遺跡 一日巡り
この記事では、上皇が讃岐配流時に住まわれた処など、上皇に直接関連すると本書が分析した場所を文章と写真で紹介します(「崇徳上皇讃岐配流地の真相」の見解であり、明治以降に作られた「通説」とは一部違いがあります)。
上皇が御遷幸等された順番に、①綾川下流河道内の「長命寺新開」近接地(讃岐到着直後の仮住い「綾の館」があったと思われる)、②御供所「真光寺屋敷跡」(「讃岐のさとの海士庄」の御所跡)、③天皇神社(上皇御微行の場所)、④「崇徳天皇社」(白峰宮と天皇寺)、衛士坊の坂、野澤井、⑤柳田碑(暗殺の地)、⑥高家神社、⑦青海神社、⑧白峯の陵、頓証寺殿、を紹介します。それぞれの場所に関して本文やブログなどから整理して再掲しました。
この①から⑧の場所を訪ねる旅は車だと概ね1日弱で訪問と散策・滞在することができるでしょう。
①長命寺新開付近の綾川河道
讃岐配流の時、最初に到着した港には諸説ありますが、古代には「松山の津」と呼ばれた坂出港内の、林田・江尻・西庄・御供所などのいずれかの港でしょう。最初のお住いの場所は、急遽の配流のため未だ御所が造営されてなかったので、当面の仮住いとして林田郷大夫とされる綾高遠の屋敷に住まわれました。その場所は綾川の流れが変わる程の氾濫によって今は綾川の河道内になっていて、小字名「長命寺新開」付近にあったと考えます。長命寺は、本寺「摩尼珠院」が開基された1224年以降に上皇お住いのあった場所(綾の館跡)を祀るために建立され、江戸時代初期の大きな氾濫によって流失したと考えられます。
そこは県道16号新雲井橋西岸の堤防道路を上流側へ約300m余り先の、小字長命寺新開付近から見える河道内に当たると分析しています。上皇は、御所が完成するまでの数カ月間、そこに仮住いされました。
②御供所「真光寺屋敷跡」
保元の乱後、朝廷は上皇の讃岐でのお住まいについて「讃岐のさとの海士庄に造内裏の公事あたりける」と命じたことが記録されています。海士庄とは港湾と漁業の機能を併せ持ち、上皇御所の言い伝えが残り、上皇を慕って都から来た「侍人」の歴史事実が残る「おんともどころ」から転じて御供所 (ごぶしょ)の名前になった平山浦と呼ばれていた村です。保元の乱で敵方となった美福門院の親族が讃岐国司だったこと、仁和寺末寺の真光寺がここにあったことが配流御所の場所として選ばれた理由だった可能性が高いと考えています。

真光寺屋敷跡(現:荒神社と民家)
上の写真:手前の荒神社が真光寺跡、奥の民家を石垣で囲んだところが御所跡と伝わりますが、民家のため立ち入りや近づいた写真は撮影できませんのでご注意。
この後さらに「鼓岳」に幽閉されることとなる2年数カ月ほどの間お住まいになられました。この間は監視もそれほど厳しくはなく、京から来た「侍人」達に見守られる中で、川津郷の荘園領主の館に度々訪れたと伝わり、その場所が「天皇神社」として祀られています。
④崇徳天皇社(白峰宮、天皇寺高照院)
讃岐配流からおよそ3年を経て、上皇は「鼓岳」(現:白峰宮と天皇寺高照院がある場所)に遷されて厳しく幽閉されました。(反乱を警戒する情勢があると朝廷が判断したのだと思われます)
当時、「田畑もなければ土民の家とてなし」「海づら近き処なれば海洋煙波の眺望に」と、隔離され、かつ海に近い地での幽閉を示しています。この条件を満たすのは森林地であり海も近かったこの場所を除いては該当する処は見当たりません。このことは上皇配所を訪れた寂然が船で都へ帰る際にこの地を遠望しながら詠んだ「君がすむ そなたの山」という歌からも幽閉場所は海が近い山腹にあったと伝えていることが分かります。
江戸末期まで神仏習合の場所で、今もその面影を残しています。
〇衛士坊の坂
幽閉した上皇を監視するために「衛士」が海岸沿いの道(砂浜)からここに上がった「衛士坊の坂」と名が付く坂道が天皇寺の塀沿いに残っています。天皇寺の場所が衛士詰所の「坊」の跡だと伝承されています。
〇野澤井(八十場の泉)
「通説」では上皇崩御後、野澤井に御柩を浸して都からの使者を待ったことになっていますが、柩を白峯に運ぶ途中に柩から血が滴った伝説は、柩を20日間も泉に浸した後では血液の溶血や凝固性から考えて絶対に起こり得ないので、ご遺体の柩を野澤井の水に浸したのではないことがわかります。後日、御住まいだった場所で行われた法要の明りが空の棺が置かれた野澤井から見て「神光」伝説になり、これにより御所の場所が「明の宮」として祀られるようになったと考えられます。
④柳田碑(上皇崩御の地) (県道33号 JA香川府中支店前道路の反対側)


上皇が「鼓岳」に幽閉されていた時期、京から一緒に讃岐へ来た女房兵衛佐局は、上皇とは離れて国府庁近くの「鼓岡」に住まわれていたのではないかと推測しています。そこで奏でた鼓の音がこの丘の名前の由来ではないでしょうか。
地元には、上皇は「国府における鼓の宴にご案内申し上げると招かれ八十場の幽閉場所から向かった。その夜の帰り暗殺者に刀で切られた」と伝わります。暗殺は京から来た刺客によって実行され、直ちに柩は白峯に向かい、途中、柩からの血が鈍染したと伝わります。
上皇が凶刃に倒れた場所は京では「しど」と伝わりましたが、この辺りに「しど」地名は何処にもなく、暗殺場所の地名「しで」が京に伝わって音変化したと考えられます。「しで」の場所とは正に柳田碑がある処の地名だったことが城山神社に残る「雨請天満宮」の碑文と「全讃史」から読み取れるので、ここが崩御の地で間違いないでしょう。
⑤高家神社
「しで」(柳田)で暗殺された上皇御遺体は予め準備された柩で直ちに白峯に向かいました。途中、高屋阿気に差し掛かった時、豪雨に遭い一晩留まったところ、柩を置いた石に血が「鈍染」したと伝わります。そして次の日に白峯山上に到着してその夜から荼毘に付されました。


「御棺臺石」
⑥青海神社
翌朝には荼毘の煙が谷あいに広がったことから「煙の宮」伝説になりましたが、低地に煙が広がったのは、前日の寒冷前線が通過した際の豪雨に続く放射冷却現象により引き起こされたと考えられます。
神社の横には上皇崩御後3~4年後に弔いのため訪れた西行法師が御陵まで登った道を近代的に再現した「西行法師の道」があります。
⑦白峯御陵
上皇御遺体が荼毘に付された場所がそのまま墓所になったと考えられ、のちに御陵として整備されます。九条兼実の日記「玉葉」には、上皇崩御の27年後に後白河院が、崇徳院の御陵辺りに仏寺を置く宣下を行うか検討しましたが、既に「堂舎」が置かれて供養されていることが判明しました。この時の「堂舎」とは、白峯寺縁起に記すように、鼓岳(白峰宮と天皇寺のある金山)山麓にあった上皇御所を「近衆者阿舎利章実」が上皇崩御後速やかに白峯に遷して祀っていた建物(「頓証寺」)だということになります。このことからも、上皇が幽閉されていた御所は今の白峰宮と天皇寺の処にあったことになります。
高屋から白峯寺に向かう道路の途中、稚児ケ滝を正面に見て右ヘアピンカーブする処から、西行法師の道を残り1km体験することができます。(手前に車を置ける広い路肩が反対車線側にあります。車ではあと4kmです)

最後の急階段は息が上がります



