崇敬の歴史からわかること  (上皇ゆかりの地は祀られた)

第八章

第1節 上皇ゆかりの地 崇敬の歴史

白峯御陵、崇徳天皇社(「明の宮」)、鼓岡神社がどのように崇敬されてきたか(御陵と天皇社は明治初年まで)を記載する(脚注49)。

白峯御陵、白峯寺への崇敬
・白峯寺縁起「國府の御所を近習者なりし遠江阿闍梨章実当寺にて頓証寺を建立し て御菩提をとぶらい奉る・・」
・建久二年(1191)後白河上皇宣下決定までの経過
 崇徳院並びに安徳天皇崩御の処に一堂を建てるべき  (宣下の発案
白峯御陵辺りにはすでに仏寺、御影堂が建立されていた(評定により判明)
崇徳院御影堂に官符を給うべし、又長門国一堂を  (決定された宣下の内容 ) 
 建つべき由、宣下すべしといえり        

崇徳院御陵辺りには既に「一堂」はあったので、宣下には一堂を建てる旨は含まれなかった。
つまり、『白峯寺縁起』に記されているとおり、上皇最期のお住まいとなった御所は上皇崩御後速やかに白峯に遷されて頓証寺となり、弔われる歴史を重ねていた。

・建永2年 (1207) 法然上人松山巡る 
・治承年間(1177-1180)高倉天皇 青海・河内村を寺領として寄進
・寿永3年 (1184) 後白河法皇 青海・河内の庄を寄進
・元歴2年 (1185) 源頼朝 備中妹尾郷を寄進
・文治2年 (1186) 後鳥羽院 丹波国粟村庄、豊前福岡庄を寄進、
         源頼朝 讃岐国北山本庄を寄進
・文地4年 (1188) 後鳥羽院 崇徳院25回忌を奉修 頼朝:備前福岡庄を寄進
・建久2年 (1191) 後白河法皇 仏堂建立を裁下
・寛喜3年 (1231) 土御門院 法華経を奉納
・建長4年 (1252) 後嵯峨院 法華経を奉納
・建長5年 (1253) 後嵯峨院 松山郷を寄進
・建長6年 (1254) 後嵯峨院 西山本新庄(阿野郡山本郷)、津郷、新名郷寄進 
・康元元年(1265) 後嵯峨院 北山本新庄(阿野郡山本郷)を寄進
・文永4年 (1267) 頓証寺灯篭を建立
・應永13年(1406) 旧記に基づき、清少納言入道常窓の草稿を世尊寺行俊卿が
         綾(白峯寺)縁起を清書して納める
・應永21年(1414) 後小松帝 御真筆「頓証寺」の扁額を勅納
・長禄3年 (1459) 後花園院 崇徳院御領神役を定める
・天正15年(1587) 生駒雅楽頭近規 白峯寺へ寺領50石寄進
・慶長4年 (1599) 生駒近規公 本堂再建
・寛永8年 (1631) 生駒高俊公 白峯寺の真宝目録を作成
・寛永12年(1643) 松平頼重公 頓証寺殿を復興
・万治4年 (1661) 松平頼重公 阿弥陀堂に供養料
・寛文3年 (1663) 崇徳天皇500回忌 
・延宝8年 (1680) 松平頼重公 頓証寺殿、勅額門の再建、客殿の移転改築
・元禄2年 (1689) 松平頼重公 石灯籠2基を頓証寺殿に奉献
・宝暦13年(1763) 崇徳天皇600回忌
・安永8年 (1779) 松平頼真公 白峯寺行者堂を再建
・文化8年 (1811) 松平頼儀公 大師堂を再建
・文久3年 (1863) 崇徳天皇700回忌 
・慶應2年(1865) 松平頼聰公 石灯篭2基御廟前に奉献
      
崇徳天皇社(別当寺摩尼珠院)への崇敬
・二条天皇宣下により、祠が建てられる。
・高倉天皇、「崇徳院」と追諡し(1177年)、西山本郷、福江、御供所を御料地として寄  進稲税千束に二反五畝を充てた。
・源頼朝、稲税を収める(1190年)
・土御門天皇勅額書と以降毎年下向使の儀
・後嵯峨天皇、1244年崇徳天皇社再建、摩尼珠院を別当職に任じる。御真筆の願文に御 手形の御珠院を添え荘園(西庄)寄進
・生駒正親公、天正年間に四石五斗年を西庄村と摩尼珠院に寄進。京から神官、僧侶を 招請し学問、文学、芸能、医薬を施行
・松平頼重公「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべし」と して京都から中興寺宥詮阿闍梨を召した。
・松平頼重公、摩尼珠院へ四石五斗寄進(1642年)
・松平頼常公、摩尼珠院へ四石五斗寄進(1701年)
・孝明天皇、御撫物を供え(1865年)
・明治天皇、御撫物を供え
・明治初年まで、毎年襟裡御所より祭祀料として白銀5枚を下賜

「鼓岡」「長命寺」への崇敬
・「鼓岡」に対する朝廷、武家等からの寄進や慰霊儀式等の記録はない。
・「長命寺」は、一部の説では方四町の巨刹とされているが、寺の建立や維持に必要と思われる寄進などの記録は何もなく「巨刹」としての存在は疑われる。実際に存在した長命寺は時代や場所、寺の規模が異なると見られる。

「崇徳天皇御鎮座所」を巡る諸記録
崇徳天皇社が上皇行在所だと認識されていたことを示す以下の資料がある。

①「崇徳天皇社・摩尼珠院」納経。
ⅰ 正徳元年(1710年7月)、老法師空性の納経には「摩尼珠院本社 崇徳
天皇御本地」と書かれている。(『資料集「宝永~正徳年間の納経帳』)
ⅱ 江戸時代天保年間の、四国霊場摩尼珠院の納経印に「崇徳天皇御鎮座所」

「版木押しで「奉納経」「本尊十一面観世音」「崇徳天皇御鎮座所」「讃岐国金花山」「摩尼珠院」「行者丈」 左:天保10(1840)年 右:天保11年」
(上記はwebサイト「古今御朱印研究室」 https://goshuin.net/より:転載許可済)

「摩尼珠院由来」に、藩主「松平英公「頼重」の時代に京都滝本坊住職の中興寺有詮阿闍梨を召し給い、当山は旧地と云い、且つ、天皇御鎮座所なれば敬い住職たるべしと命ぜられる」の一文がある。
 このように、高松藩が「鼓岡」を顕彰していない理由や「御鎮座所」の諸記録から、西庄八十場の天皇社が実際の行在所であったことが広く一般に認識されていたことを示している。

『府中村史』によると、明治12年に当時所管の愛媛県権令に提出した鼓岡神社由緒には、上皇が「勅命により同八月二十三日当国阿野郡林田村野大夫が館に御幸着遊され、其の後摩尼珠院へ行幸行在あらせ給い、(中略)鼓岡にて崩御ならせ給ふ」と記している(脚注50)。この「行幸行在」という記述は、金山中腹に空海が開いた摩尼珠院に上皇が往来、滞在されたと説明しているが引用元や根拠となるものがなく、御嵯峨天皇によって天皇社の別当寺となった摩尼珠院と鼓岡とは関りがあると主張する目的で、摩尼珠院に「行幸行在」されたとする創作と思われる。
 

崇徳天皇社「明の宮」 白峰宮

上皇を祀る崇徳天皇社、「明りの宮」(白峰宮)・「血の宮」(高家神社)・「煙の宮」(青海神社)にはいずれも上皇の御霊を祀ることを現す「崇徳天皇」の扁額が掲げられ、上皇とかかわりの深い歴史事実を伝える地として祀られている。

崇徳天皇社「血の宮」 高家神社   崇徳天皇社「煙の宮」青海神社


 

第2節 「鼓岡」は「天皇社」ではなかった

明治以降の「通説」を導いていると思われるものには、主に平家異本に書かれた「鼓岡」、それを引用した『綾北問尋鈔』『全讃史』など江戸時代中期以降に讃岐で作られた旧跡等解説書の「鼓岡」、『白峯山古図』に書かれた「鼓岡」、これらが同じ文字で共通していことに依っていると考えられる。
そして、明治以降この説に合うように周辺の話が整理されるのと同時に、この説に適合しない歴史事実や伝説に対しては適切な評価を意図的に行わない事態になってしまったと考えられる。
「鼓岡」については、本書第七章「配流地「鼓岡」と「鼓岡」の第4節に命名に至る経過を推測したが、ここでは「鼓岡神社」について考えてみたい。

江戸初期に書かれた『白峯山古図』には、「血の宮」高家神社、「煙の宮」青海神社には「崇徳天皇」と描かれているが、明治以降の「通説」で上皇が最期にお住まいになったとしている「鼓岡」の場所には「崇徳天皇」の表示はない。(この絵図は「鼓岡」までの描画のため、さらに西にある「明の宮」は描かれていない。)。
明治以降の「通説」では「鼓岡」には上皇が5年余り住まれた「御所」があったとしているのに白峰宮のような上皇御霊を祀る古くからの祭礼の歴史もないため上皇御霊が祀られてきた場所とするには疑問が残る。
「明の宮」「血の宮」「煙の宮」に掲げられた「崇徳天皇」の扁額が、そこが御霊を祀る場所であることを示しているのとは異なっている。

『全讃史』は江戸末期(文政11(1828)年)の編纂で、讃岐の土地、神祠、寺社、名所等を網羅しているが、神祠として「崇徳天皇祠(西庄村)」、「高屋宮」、「煙宮」の記載はあるが「鼓岡」の記載はない。ここからも江戸末期まで「鼓岡」の場所は祀られていなかったことが判明する江戸中期の『三代物語』増補本(脚注51)には、そこ(鼓岡)には「今、草庵がある」と書かれているが、この時点で上皇崩御から江戸中期までの約六百年後まで、「鼓岡」は上皇お住まいの場所として祀られていない。5年余に亘り崩御の時までの上皇行在場所であるならば、「草庵」でしかないとは考え難い。
京を中心にして書かれた軍記物語は讃岐でも相当に流布し、その影響を受けて「鼓岡」を行在場所とする書物が讃岐でも書かれた。しかし、本当の行在場所であったならば「鼓岡」において祀られ崇敬された歴史が形成されてきたはずのところ、明治時代が始まるまで上皇行在所とは認識していなかったことを崇敬の歴史事実が示している。

鼓岡神社の顕彰運動(脚注52)
・明治10年社格を願い出、12年愛媛県権令より村社に示達される。
・明治21年境内禁止の制札を建設 (車馬乗入れ、魚鳥捕うる、竹木を伐るこ との禁止)
・明治31年鳥居建立(扁額:「鼓岡神社」)
・明治32年森林696坪を境内に編入
・明治36年鼓岡行宮旧址碑を建立
・明治42年府中村長、鼓岡聖蹟顕彰会を設ける
(大正2年の上皇750年御忌に向けて)
・大正2年擬古堂建設、750年御忌祭
・大正3年神苑、参道修築
・大正5年擬古堂標石建設、杜鵑塚標石建立
・大正9年社務所建築           
大正11年玉垣建設
             
上記のとおり「鼓岡神社」に上皇をお祀りし始めた時期は新しい。これは、明治の宗教政策の影響を受けていると考えられるのでその経緯を考察していきたい。

王政復古による明治元年の神仏判然令と寺社領上知令により、崇徳天皇御陵の守護寺白峯寺、崇徳天皇社別当寺の摩尼珠院とも寺を維持する経済基盤を失い寺の権威と発言力は大きく失われることになった。
一方、軍記物語やその影響を受けた『全讃史』等に名前が書かれていた「鼓岡」は、明治政府の新しい宗教政策によって、従来の価値観や見解の見直しが行われる中で、明治以降の府中村において「鼓岡神社」を祀る運動となって上皇行在所の場所として社、鳥居などが整えられていった。府中村は讃岐国府があった由緒ある歴史の地なので、加えて「崇徳さん」が住まわれていたとなれば恐れ多くも有難いことだと、地元政治が先導した。

明治後年になると顕彰運動がさらに盛んになり、大正2年の上皇年忌祭は近隣市町村長、高松藩士子孫などが集まった盛大なものになった。こうした流れを受けて、江戸末期まで行在所だと認識されていたはずの西庄八十場の崇徳天皇社から入れ替わって「鼓岡」が行在所として広まっていったようである。『平家物語』異本などに「鼓岡」に遷られたとしているため、これと同じ名前の「鼓岡は神社崇敬を進める政策と合致したのである。こうして「鼓岡」顕彰に有力者も行政も賛同して各方面へ強い影響を与え、地域振興と相まって「鼓岡」行在所説が広まったと考えられる。

このような時代潮流の中では旧来の行在所伝説を言うことは憚られたと考えられ、既に祀られていた「明の宮」は「殯」の地として、言わば住み分けが行われた。明治以降の「鼓岡」の通説化によって江戸末期まで広く認識されていた「明の宮」天皇社行在所の記憶が徐々に薄れていくことになった。

明治末~大正・昭和初期には、特に神社や王政復古にまつわるものが盛んに顕彰されていて、「名蹟名勝天然紀念物保存法」(大正8年)を受けて、八十場の泉の横には県社白峰宮碑(大正8年)、参道入り口の白峰宮殯殿遺蹟碑(大正9年)、野澤井の崇徳天皇御殯殮御遺跡碑(昭和4年)があり(これらは「鼓岡行在所説設」”住み分け”るために八十場を殯地に留める狙いがあったように思える)、高家神社には御棺基石碑(大正9年)などが建立されている。
また大正11年には昭和天皇が摂政の時代に讃岐を訪問され、白峯陵をご参拝されている。政府の宗教政策や時代を背景に崇敬や顕彰の動きが大々的になされた時期だったのである。

     鼓岡神社