脚注

1水原一「崇徳院説話の考察」・駒澤大学『駒澤國文』7,1-15,1969-06 の2p
駒澤大学学術機関リポジトリrepo.komazawa-u.ac.jp/ (最終検索日2019年2月1日)
2塙保己一『群書類従』巻第二百五十六 和歌部百十一『清輔朝臣集』
 国立国会図書館デジタルコレクション(目次第324-326 中コマ番号109/173)
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559165?tocOpened=1 (最終検索日2019年2月1日)
3三木豊樹「真説 崇徳院と木の丸殿 綾北探訪記前編」(香川時報社:昭和39年6月1日発行)は、香川県立図書館、坂出市立大橋図書館、丸亀市立中央図書館に蔵書。(内容の数か所に誤記等。本書と見解の異なる箇所あり)
4『全讃史』には、崇徳院が遷られたときに御所として在庁野太夫の屋敷に6年過ごされたというのは実は長命寺であるとしている。「6年」については第三章第2節で検証。
5三木豊樹 前掲書 4p~11p
6京都大学貴重資料デジタルアーカイブ『白峯寺縁起』寛文10年書写本(京都大学附属図書館所蔵)により確認できる。https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/(最終検索日2019年2月1日)  『白峯寺縁起』原本は白峯寺に所蔵。
7平安時代中期に作られた辞書、承平年間(931年 - 938年)の編纂。京都大学文学部国語学國文研究室偏『諸本集成 和名類聚抄』に、当時、讃岐の阿野郡には、新居、山田、羽床、甲知、鴨部、氏部、山本、林田、松山の9郷とある。また、鎌倉以降江戸初期の頃までは、南条郡、北条郡に分かれたようである(『増補三代物語』中、阿野郡南之部、北之部に「中葉曰南条北条」)。貞享元年(1684年)には阿野北郡、阿野南郡となり、この時には西庄郷は阿野北郡に、府中郷は阿野南郡に属している。全讃史(1828年)では西庄は林田郷に、府中は甲知郷に属している。開発による地勢発展などによって、郷名や郷内村落の構成の変更に繋がっていると考えられる。
8高松藩主が上皇行在所を顕彰し「雲井ノ御所ノ碑」を建てた。上皇は柱に三つの歌を書か れたがそのうち一首に「ここもまたあらぬ雲井となりにけり」と読まれたことから「雲井御所」と呼ばれるようになったとしている。
9綾・松山史編纂委員会『綾・松山史』62~63p
『坂出港の「みなと文化」』92-1p 中山博道著・一般財団10法人みなと総合研究財団www.wave.or.jp/minatobunka/archives/report/092.pdf(最終検索日2019年2月1日)
11木下晴一『さかいでの地形とくらし』19p ~20p 
12増田休意『翁嫗夜話』巻之八 「上楫下楫 在林田 崇徳帝自直島徒於鼓岡其舟所至之海濱也」とある。(香川県立図書館蔵) 
13合田 学『讃岐に於ける新田開発』から引用。
14『山陵志』蒲生君平書作。幕末の尊王論の根拠になったと評される。
15『全讃史』1828年 中山城山作。
16『綾北問尋鈔』宝暦5年(1755年) 作者名は「綾北西庄隠士 離島軒本條薄流鈔焉」と記す。長命寺3年・鼓岡6年とする説。『坂出市史資料』掲載分から内容を確認。記載内容は、現存地名等に神話的説明を付して歴史経緯として表している。
17三木豊樹 前掲書52p
18三木豊樹 前掲書48p
19福家惣衛「新香川」昭和38年11月号『崇徳天皇八百年式年祭並大遠忌』(その十) 当時の香川県文化財専門委員
20『綾北問尋鈔』に「在庁野太夫高遠請取奉りて、凡家の塵埃を憚り、先此寺の堂に移し奉る。三年を送らせ玉ふ。」とある。『坂出市史資料』371pより。
21岡田唯吉『崇徳院と讃岐』11p
22香川県埋蔵文化財センター『讃岐国府跡探索事業調査報告平成23・24年度』9~10p図4
23『全讃史』の作者中山城山は、讃岐の儒学者で高松藩家老との繋がりがあった。後に高松藩に招かれ、讃岐の郷土史として全讃史をまとめ藩に献上した。こうした関係性の中で作成されたのが全讃史であるから、一定の範囲で内容は尊重されたと考えられる。 
24三木豊樹 前掲書 6p ただし「府中郷に近い海士庄」は、配流当時の郷名が「甲知郷」であると考えられるため、本書本文ではその部分を削除して後段のみ記載した。
25福家惣衛 前掲文中には「海士庄とは、今日の坂出市府中町辺りのその当時の地名であったものと思われる」「私のいう所は海士庄は府中町のこと」と結論を優先して根拠や検証なしに記しているが、府中町には海を生業の場とした記録や事実は見られず地理的な視点からも誤っていると考えられる。
26三木豊樹 前掲書 25~28p
27三木豊樹 前掲書 10p
28増田休意 『翁嫗夜話』(原本) 巻之一 歴代国司等在任者の記録中、「阿野矢大夫高任 保元中阿野郡林田田令」とある。「保元中」は林田郷の「田令」の役職であるから上皇讃岐配流後2年10ヶ月の間はこの職にあったことになり、上皇が「鼓岳」に遷られた頃と高遠の役職が替わった時期は近い。「田令」は奈良時代には屯倉を管理し貢税を行う職だとされているから、この時代の高遠は林田郷の責任者だったと思われ、配流当初から林田のこの高遠屋敷に仮住いさせる方針だったと考えられる。(香川県立図書館蔵)
29三木豊樹 前掲書 18pにも同趣旨の見解がある。
30三木豊樹 前掲書 18pには「僅に一週間位、名もない衛士が駐在した為に、建てられた衛士坊とその衛士が通ったと云うだけで、衛士坊の坂の地名が、八百年後の今日残ったなどという話は、およそ常識的にも考えられないし、合理性のない話である」としている。通説の説明は、明治期の「鼓岡」説肯定に合うよう考え出されたものと捉えられる。
31三木豊樹 前掲書 17p
32『三代物語』は、江戸時代の郷土史家、菊地武信、増田正宅、増田休意の直系三代にかけて讃岐の国を歩き、見聞きしたことをまとめたという。先ず、『三代物語』が作られ、これを改編し『翁媼夜話』とし、藩主に献上したところ『讃州府志』の名が付けられたという。明和5年(1768年)増田休意が完成した旨序文を記している。坂口友太郎氏が平成4年10月にこれらの旧本を校正し「増補三代物語」として復刻されている。
33増田休意『翁嫗夜話』を根本に梶原竹軒による増補をしたのが『讃州府志全』 542p 
『讃州府志全』は、『翁嫗夜話』(1745年作成)を根本として『全讃史』その他の諸書により、大正4年までの出来事により補記した旨、郡記以下は殆ど全文を改竄し漢文を仮名交り文に改めたこと等が「出版例言」に記されている。また、『翁嫗夜話』原文には記載のない「長命寺」「雲井ノ御所」が記されているのは『全讃史』から取り入れたと考えられる。また、長命寺行在年数が『三代物語』では6年、『讃州府志全』では3年になっている。後の『讃州府志全』で修正されていることになる。
34三木豊樹 前掲書 23~24p
35淳仁天皇は、第47代天皇(在位758~764年) 恵美押勝の乱により淡路に追放され廃帝とされた。
36 水原一「崇徳院説話の考察」中、「配所の事は后や皇子などに伝わる筋はあったろうけれども、保元物語にも平家物語にもその形跡が反映しているとは言えない」より。
37 讃岐のため池誌編さん委員会『讃岐のため池誌』 834~835p
38戸川芳郎「全訳漢辞海」436,437p
39栃木孝惟・日下力・益田宗・久保田淳校注『保元物語 平治物語 承久記』120p
底本半井本
40三木豊樹 前掲書53pでは「1368年の和名抄改定後」の同じ府中郷に属していたとしているが、本書は同じ郷所属という分析を取り入れ、保元期の郷名、甲知郷として説明した。
41清原良賢 南北朝期の儒学者。少納言,大外記に任じられ明経博士となり,内昇殿を許され,
後光厳・後円融・後小松天皇の歴代侍読として家学を興し,応永4(1397)年剃髪。法名常宗。古注を根幹とし新注を加味して儒典を講じ,『古文尚書』と『毛詩』の講釈を得意とし,趙註孟子の篇叙を初めて講誦した。(朝日日本歴史人物事典から抜粋)
42『白峯山古図』(『白峯寺古図』) 白峯寺所蔵。江戸時代初期の制作とされる。
43「鼓岡」は、「不確かだが前方後円墳の取り残された円丘部分にあたる」とも言われているが、文化庁編集「全国遺蹟地図」には掲載がない。また、「日本武尊の武殻王(讃留霊王)の墳墓」で子孫が留まって国造となって王愛用の鼓を埋めたので「鼓岡」と称す」と旧記にあると記しているものがあるが、鼓は奈良時代に大陸から伝わったと言われており、旧記の証拠性がない。他方、この岡の地は立地条件が良く、古代から身分の高い人物の屋敷地として利用された可能性がある。従って、何々館(屋敷)と呼ばれていたかもしれないが、その名が失われるほど「鼓岡」の名は個性が強く、大きな出来事か身分の高い人に因んだ名前であることが想像できる。また、『府中村史』によると、この岡から落ちてる小さな滝の音が鼓の音に似ていたので「鼓ケ滝」と命名され、滝の名前から「鼓岡」と称したとしている。現地調査によると、江戸時代中頃に築造された「四手池(しでいけ)」の水路からの水が集まり高さ1m程から下の水路に落ちるところが「鼓ケ滝」の処だったと思われた。上皇配流時にはなかった水路だから、滝の音が由来という話は江戸時代の四手池水路完成後に、「鼓岡」の名にふさわしいように滝の音が聞こえるという話から転化したと考えられる。また、城山東側斜面には幾筋か地滑りや土石流面が見えるとともに、城山から繋がる小山が東斜面下の平野部にいくつか見られる。鼓岡は城山からやや距離はあるが、土石流の先端部の土砂が堆積して小山形状になった可能性もある。
44香川県教育委員会 前掲書 図版6p、本文5~6pにて確認(原本は白峯寺所蔵)
45『兵範記』に、「上皇讃岐遷幸に供奉ス、後、帰京シテ落飾シ、勸修寺辺ニ住ス」。
46三木豊樹氏は、土地の古老からご神体は鼓であるという話しを聞き「佐の局が愛用していた鼓を国司庁の丘に祀った」のが始まりで「最初は鼓の宮と呼んでいた」と推理している(前掲書55~56p)が、本書では鼓岡の呼称の起源と都へ伝わった経緯、軍記読み物への採用経緯の推論を行った結果から、「鼓の宮」の名を肯定し採用した。
47『四国八十八ヶ所霊場第八十一番札所白峯寺調査報告書』第2分冊260p 写真331で確認
48香川歴史博物館(現香川県立ミュージアム)『海に開かれた都市』27p
49綾・松山史編纂委員会 前掲書785~795p、三木豊樹氏 前掲書36~37、42~43p、54~55pを整理して纏めた。
50栗林三郎『府中村史』 370p
51坂口友太郎『増補三代物語』 230p(香川県立図書館蔵)
52栗林三郎『府中村史』 370~386pより纏め、昭和49年石碑建立は現地石碑にて確認
53「崇徳院神霊、香川から京都へ還る」(H24.5.26) 瀬戸内海歴史民俗資料館講座より。
54山田雄司『直島における崇徳院伝承』 三重大学人文学部考古学・日本史・東洋史研究室
2010年3月 19~20p   https://mie-u.repo.nii.ac.jp/ (最終検索日2019年2月1日)
55直島町史編纂委員会『直島町史』153~155p
56増田休意『翁嫗夜話』巻之八(明和年間書写の写真版:香川新報社)では、「高屋城」を「綾高任之所居也」としているが、同書をさらに『全讃史』等を加えて補記した『讃州府志全』にはこのことが記されていないのは、高屋城の築城が1362年であるから年代が合わないためだと考えられる。なお、『翁嫗夜話』では、上皇配流経緯を、林田の高遠の屋敷→直島 →鼓岡とし、保元物語のうち金刀本と同じ経過を採用している。
57山田雄司『讃岐配流中の崇徳院の実像』(上田正昭編「古代の日本と渡来の文化」中)467p。また、『讃州府志全』564pにも「讃岐御遷幸後ハ佛行ノ人トナラレ」「院ガ大乗経ヲ魔道ニ廻向サレタトカ天狗ニナラレタトカ云フハ一種ノ傳説ニ過キスト云フ」とある。

*「参考図書」は省略。