「御供所」と崇徳上皇 (「讃岐のさとの海士庄」の真光寺屋敷)

第四章

第1節 「讃岐のさとの海士庄」

保元の乱当時に書かれた藤原清輔日記(『清輔朝臣集』)中の「讃岐のさとの海士庄に、造内裏の公事あたりける」の記載から、上皇配流先検証のためには「讃岐のさとの海士庄」を分析する必要がある。「造内裏の公事あたりける」は、「上皇お住まいを新たに造営せよ」という勅命であるから、内裏完成までは仮住いの場所として既存の建物屋敷に入られたという関係になる。藤原清輔の日記は、出来事と同時並行で書かれた信頼性の高い一次資料であり、京で上皇に歌集を贈ったり歌会に招かれるなど上皇と極めて近い人物であることからも、この記載は最も信頼性が高く事実に違いないと評価できる。従って、崇徳上皇を追いやった信西、美福門院側に立つ讃岐国司は命令に従って「讃岐のさとの海士庄」に出来るだけ速やかに速やかに造営したはずである。

三木豊樹氏は、海士庄とは「漁業や航海を業とする者の住んでいる港、津、浦」で、「海士庄は御供所以外にはない」(脚注24) としている。綾川付近の「讃岐のさとの海士庄」が御供所だけかどうかはともかく、少なくとも国府庁のあるところは漁村や航海を営む村としての記録は見当たらず、海岸から4km以上離れていて海士庄とは言えない (脚注25)ので、新たに造営せよという命令を遵守して「内裏」を建てる場所ではなく、また、勅命を速やかに実行する責任を負うから、国府庁横の「鼓岡」説にあるような質素な「木の丸殿」造営に3年もかかることはないはずである。「海士庄」以外の場所に御所を造る命令違反もこの時代にはあり得ない。こうしたことからすると当然のことながら内裏造営は、特定の「海士庄」の地を指定したうえでの命令だったと裏付けられる。

すなわち、「内裏」造営の地「讃岐のさとの海士庄」には平山(御供所)説と現在の通説になっている「鼓岡」説があるが、海から4km以上離れた「鼓岡」辺りが海士庄であったとは考えられないから、港湾と漁業の機能を持っていたと思われる海岸沿いの漁村、すなわち平山(御供所)こそが朝廷が内裏の建設を命じた海士庄の場所であり、そこに新たに建てたお住まいに遷られたという結論が導かれる。また、上皇一行がお住まいになる内裏は新しく造営されたのだから、完成までの一定期間の滞在場所としては、この時代には存在していない長命寺でなく綾高遠の屋敷に滞在されたと理解される。

『保元物語』半井本に見える「地ヨリ押渡事二町計也」は直島のこととして書かれているが、海士庄の「内裏」の位置を表しているとするならば、港から200m程というのは第4節で説明する御供所真光寺屋敷の位置関係とほぼ合致している。また、上皇上陸地について、三木氏が地元の言い伝えを基にして平山浦(現:御供所)としている点については、「内裏」は未造営だったから、当初仮住いされた「一宇の堂」(綾高遠の屋敷)に近い港が上陸地ではないかと考えられる。

第2節 「御供所」の地名   

真光寺があったとされる現在の坂出市御供所(ごぶしょ)町の名前の由来には、次の二つが伝わっている。 
一つは、景行天皇の勅命による武殻王の「悪漁退治」の時、悪漁の毒にやられた兵士たちに地元の人たちが酒を供え、ふるまって蘇らせた。そこでこの地を「おそなえ(御供え)」所とし、これから「御供所」になった説。一つは、崇徳上皇讃岐配流の折、上皇を慕って讃岐に着き、この地に住まいを設けて上皇のお世話や見守りを行った侍人達が住んだ「おんともどころ」から 「御供所」となった説。
景行天皇御代の悪漁退治の話は、大和政権の統一国家づくりの過程で瀬戸内海の海賊と戦った実話が転じたものと推測される。景行天皇の皇紀を西暦にすると紀元71年から130年とされるが、国家統一に向かう4~5世紀頃としてもこの漢字の名がその頃から使われている記録はないようである。そうすると第二説が正しく、崇徳上皇の讃岐配流に関連して名付けられたと考えられ、第一説はさらにその後に、悪漁退治の伝説に御供所の名を適用したものということになる。

このことから、上皇をお護りするために京からやってきた侍人達が御供所に住まいをなした歴史事実が存在していることと、それに基づく地名とが合致する。それ以前からこの地は「平山」と呼ばれていたが、上皇がさらに住まいを遷された後も侍人達は住み続け、上皇崩御の後も侍人達が残ったという歴史事実によって、この地が「御供所」と呼ばれるようになった説が裏付けられる。

第3節 御供所の侍人

崇徳上皇の讃岐配流を追うように京から上皇をお慕いして讃岐に来て、今の坂出西部の平山(御供所)浦に住み上皇をお支えしお護りしたという侍人の話は、郷土史研究家三木豊樹氏が詳細に調査している。氏の著書から引用(脚注26)して記す(ⅰ~ⅴ)。

「国司は、平山の海浜の山裾に一宇を建てて、そこへ上皇をお遷しになった」「幼少のころから、御供所の古老から、崇徳天皇は御供所に着いたんだ、真光寺に居たんだということを何 回か聞かされていた。」
「現在、丸亀市の御供所町に住んでいる、むかし崇徳上皇に従って京から讃岐にお供してきた侍人の末裔の人達は、「我々の先祖は崇徳上皇にお供をして京都から御供所へ来た」と先祖から伝えられている。」と皆一様に言う。」 
「侍人は、崇徳院の御所御在任中、宮中の側近者として仕えていた正四位から五位の官人の末裔である。」
「『摩尼珠院由来』その他古記の中に「侍人、当郡において三十有余人在有之、祭礼の時、白衣、烏帽子、踏を履いて供をす、終身死火を避く、此れ皆天皇遷幸の時従し奉り本邦に来る者の末裔なり。」
「『讃岐絵図旧跡勝地記』には、侍人は保元の乱後、崇徳上皇讃岐に遷し奉る時の御供人の末裔とて名門なり。後年白峰宮の祭典に神輿を担ぐはこれ等の家に限られた。侍人は本村福江、丸亀の御供所に各数戸あり、明治維新までは、赤鞘の大小を差す事を許されて」いた。(江戸初期、生駒藩命により丸亀御供所に移転している)
「影ながら上皇のお身の上をお護りしていたが、上皇死去の後も都に帰らず、上皇の御影堂、頓証寺、崇徳天皇社、摩尼珠院の社人となってこの地に止まった。」「その子孫は何時しか海士の業をおぼえて船人となり、百姓となって」
「後世、時の機運に乗じ地頭となったり、領主の家臣となった者も」

 

第4節 御供所「真光寺屋敷」への御遷幸

上皇は、「松山の津」に着かれ内裏完成までの間高遠の屋敷に仮住いした後、「内裏」に遷られた。「内裏」が「海士庄」ではない「鼓岡」に造られるはずはなく、御遷幸説が残っている「海士庄」は坂出御供所であり、「真光寺屋敷」だけである。こうして、古書に記述された「一宇の堂」とは林田郷内にあった綾高遠の屋敷のことで、「海士庄」の「内裏」は御供所の真光寺敷地内に造営されたということが、現実的な姿になって見えてくることになる。
上皇が滞在された真光寺は京都仁和寺の系列真言宗御室派であり、「末寺」(三木豊樹氏)である。仁和寺は皇室とゆかりが深いから、上皇が仁和寺末寺にお入りになることを前提にして配流場所として平山(御供所)浦が指定された可能性がある。遠流とは言えその地の役職者の屋敷に上皇が長らく住まわれるよりも、、仁和寺末寺内に内裏が完成すると速やかにお遷りになられたのではないかと思われる。このことから推し測ると、「長命寺」御遷幸説が生まれた背景には、上皇行在所となるべき場所は仁和寺末寺が相応しいという考えや心情が見て取れるのである。

 三木豊樹氏によれば、「坂出市の御供所の山麓、庚神社の処(現、荒神社とその北の民家の敷地)を昔から御供所では「真光寺屋敷跡」と呼んでいる 」(脚注27)(()内は筆者補足)とし、上皇行在所の言い伝えが残っているとのことである。



   坂出御供所「真光寺屋敷跡」

ここは、上皇が次の(崩御の時の)配流先である「鼓岳の御堂」(『白峯寺縁起』)に遷るまで住まわれた、朝廷が造営を命じた「内裏」、『保元物語』に言う未造営であった「御所」が建てられた場所ということになる。『白峯寺縁起』に、御堂の柱に書かれた御詠歌『こゝもまたあらぬ雲井となりにけり空行月のかげにまかせて』が「いまにのこりてこれあり」というのは、『全讃史』等では洪水で流されたと言うが、この時代にはなかった長命寺の柱ではないから、最初に入られた仮住いの高遠屋敷又は御供所に造営され実在した「内裏」真光寺屋敷のいずれかのことである。さらに、「三ヵ年を送り給ふ」た御堂の柱に書かれていたのだから仮住いの高遠屋敷ではなく、3年が経過する頃まで住まわれていた「内裏」で詠まれたことになる。従って、「雲井御所」というのは高遠屋敷ではなく、御供所の「内裏」真光寺屋敷のことであると理解できる。上皇が「鼓岳の御堂」に遷られた以後は立ち入らないよう保護され、小さくともしっかりした建物だったことが想像されるから、侍人達の保存努力によって『白峯寺縁起』に記されるまでの200年以上その柱が残っていた可能性は十分に考えられるところである。

真光寺はその後、生駒藩が坂出の御供所から丸亀城の鬼門に当たる地に住民を移住させた時、丸亀城の守護寺とするため真光寺も移転して、そこに地名も引き継いだ。城の守護寺にふさわしい由緒ある寺であったということである。現在、丸亀市御供所町にある真光寺は「さぬき三十三観音霊場」の一つになっている。そして、この寺には崇徳上皇行在所の言い伝えが残っているが、このことは丸亀に移る以前からこの言い伝えがあり、丸亀に移ってからもずっと伝え続けられたことを意味している。

寺の由緒には「崇徳上皇が讃岐に流された時、雲井御所が出来るまで、一時当寺に住まわれたという」と記しているが、前述のように、『白峯寺縁起』から解釈すると「雲井御所」とは「鼓岳の御堂」に遷る前に「三ヵ年を送り給ふ」た、造営された「内裏」を指すと考えられる。当時、長命寺は未開基であり、高遠屋敷は仮住いされた既存の建物であるから、新たに造営され住まわれた内裏は、御供所の真光寺屋敷説以外に該当するものはない。寺の由緒が、長命寺や高遠屋敷などを「雲井御所」とする『全讃史』等の見解に合せざるを得なかったとすれば、高松藩が江戸末期に「雲井御所」碑を建立した影響なのかも知れない。詳細は不明であるが、いずれにしても「雲井御所が出来るまで、一時当寺(真光寺)に住まわれた」のではなく、真光寺こそ内裏「雲井御所」に当たるのと捉えることが出来る。

ここまでの御遷幸を整理すると、「松山の一宇の堂」は林田にあって急遽の御遷幸であったため仮住いされた綾高遠の屋敷、その後に、勅命に従って造営された海士庄(御供所)の「真光寺」敷地内の「内裏」に遷られた。そうすると、『白峯寺縁起』に記す最後のお住いの地へ遷る前に「三ヵ年を送り給ふ」た「高遠が御堂」というのは、高遠屋敷での仮住いと真光寺「内裏」でのお住まいの期間を合せて表していると考えられる。

現在丸亀市にある真光寺(碑、右上に「崇徳上皇遺跡」とある)
  
讃岐一国を治めていた生駒藩が丸亀に支城を造った時に藩の命令(1601年)により住民共々真光寺が移転したが1640年に生駒は改易となり、1641年山崎氏の丸亀藩入封(丸亀以西を領地とする)、1642年松平家の高松入城(宇多津・坂出以東を領有)と支配関係が変遷した。そして、この間約40年に亘って御供所は無住地になっている。こうした経緯が、後に坂出御供所を領地とした高松藩には、崇徳上皇が住まわれて以降500年近く経過していた御供所真光寺の歴史記憶が引き継がれず、これが「内裏」の場所を見失うことになった原因だと考えられる。
そして、真光寺の丸亀移転から150年後に『綾北問尋抄』が、220年後には『全讃史』が「一宇の堂」を長命寺だとして林田の地に設定し、さらに「内裏」については平家異本に書かれているのと同じ表記の「鼓岡」説を記載したのである。こうして、失われた「真光寺」の歴史を埋め合わせ、後の時代の林田に開基しその後洪水の影響で廃寺となっていた摩尼珠院の末寺長命寺を上皇配流の時にあった寺として、併せて「方四町」の巨刹だったとしたのではないかと推測される。
 
ここまでの検証結果から、讃岐本地の最初のお住まいから長命寺伝説に至る流れについて、次の【仮説】を提案できる。

【仮説】 上皇配流当初は高遠の屋敷に住まわれたことと、高遠の役職や小字「長命寺新開」の存在事実を繋げて推測すると、
『高遠屋敷は職務上の必要から林田の、当時の綾川右(東)岸沿いにあった。上皇と女房は高遠の屋敷「一宇の堂」に仮住いされ、新たに「内裏」が御供所真光寺の敷地内に完成すると遷られた。高遠は「保元」時代の間は林田郷「田令」職を勤めた(脚注28)後、上皇崩御の時には役職が異動していた。その数十年後、後嵯峨天皇が摩尼珠院を崇徳天皇社別当寺に任じ、その後、上皇が仮住まいされた綾高遠屋敷の地を祀るため、その場所に末寺長命寺が開基された。』
 このように考えれば、『綾北問尋鈔』『全讃史』が採用したように、長命寺が行在所であるとする話に転化した可能性が現れ、長命寺が林田の地に摩尼珠院末寺として開基された理由にも繋がることになる。真光寺屋敷や高遠屋敷と長命寺の間の伝承にはこうした経緯があったのかも知れない。

長命寺:上皇配流当時は未開基。綾川東岸沿いの、元高遠屋敷(上皇仮住い)の地、現小字「長命寺新開」とその東の現本川となった場所に摩尼珠院末寺として建立された後、江戸前期の洪水により機能を失う。 

そして、「内裏」真光寺屋敷にお住まいになられていたところ、配流からおよそ3年後に想定外の事態が生じて、京からの命令で最後のお住いの場所となる「鼓岳」(『白峯寺縁起』)に遷られることになったのである。