真光寺屋敷跡と御供所八幡宮

讃岐配流後の崇徳上皇の御住居については「讃岐のさとの海士庄」の場所に造営するよう勅命があったことが一次資料、保元の乱当時の公家藤原清輔日記に書かれています。讃岐国府庁に近くて、海運や漁業の盛んな「海士庄」は現在の坂出市御供所がこれに当たり、「真光寺屋敷跡」と呼ばれていた場所こそ御所が造営され上皇が住まわれた場所ではないかと、三木豊樹氏著書中「御供所と崇徳上皇」の章で紹介されています。この説は保元物語などの軍記読み物の中で創作され流布した「鼓岡」御所説とは異なり、信頼できる一次資料とその後の歴史事実を検証したうえでのものだと受け止められます。
同氏は、著書の中で、「崇徳天皇は真光寺に居たと古老から何回か聞かされていた」「庚神社の処を昔から真光寺屋敷跡と呼んでいる」「寛永年間、伏見宮貞清親王殿下は、丸亀御供所の真光寺、西庄崇徳天皇社に参詣して色紙を遺している(注:丸亀真光寺は、江戸時代初期に丸亀城の鬼門の守りのため藩命により坂出御供所から移転)」「丸亀真光寺には、崇徳上皇に関する古文書等が多く遺っていたが文久年間の火災で惜しくも焼失してしまった」「明治二十年頃までは、石で周囲を囲ってあって、不浄の者立ち入る可からずと立札があった」「村では真光寺屋敷跡を、御供所八幡神社の世話をよくしてくれた仁右衛門氏の屋敷に提供した」と地元に伝わる話を記しています。また、上皇を慕って京から御供所に遷った宮中官人の末裔の言い伝えなどから歴史を探求しています(下映像You Tubeで真光寺跡を紹介)。

このように伝わる歴史から、現在、丸亀の真光寺入口の寺名石には「崇徳上皇遺跡」と記されています。

続けて、映像では御供所八幡宮を紹介しています。南北朝時代に細川頼之が南朝方の高屋城を攻めるべく「平山」(御供所を含む聖通寺山全体)に陣を張り、武運を祈って建てたのがこの八幡宮です。平山城(聖通寺城)は、足利管領職に出世した頼之の臣下から生駒親正まで200年以上に亘り讃岐支配の居城でした。

御供所の港は水深が深く古くから海運や漁業で栄えた「海士庄」。御供所は、中近世には武運をもたらす八幡宮と讃岐支配の居城や奉行所のある所として知られ、古代の悪漁(海賊)退治伝説も残る歴史のある土地です。また、御供所村は、阿野北郡を構成する西庄郷に含まれていた時代もあることから、ここから京の崇徳御影堂へ寄進を行った関係も考えられることになります(西庄郷:「西庄」とは綾川から西の、京の崇徳院御影堂に寄進する荘園を指していました)。

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2020年08月30日