御朱印(白峰宮と青海神社)

崇徳上皇が崩御された時の出来事には、行在地に隣接する泉での「もがり」、葬列が荼毘に向かう途中に起きた豪雨と棺からの血の「鈍染」、荼毘のとき谷底へ広がった「煙」の言い伝えがあります。それぞれの場所の社で祀られて、現在に至ります。
写真(下)は、伝説が残る「明の宮」(白峰宮)、「煙の宮」(青海神社)の現在の「御朱印」です。*「血の宮」(高家神社)には御朱印ありません。

「明の宮」崇徳天皇社は、上皇が崩御されたときの天皇、二条天皇の宣下により社殿が造営されたのが始まりです。上皇が行在(幽閉)されたお住まい(「木の丸殿」)は、西行が上皇崩御の3年後にお住まいの場所を訪れた時には跡形もなかったことが記されています。
このことから、お住まいは弔いのため解体されて白峰の墓所前に移築されて弔われと考えられます(現在の「頓証寺殿」)。また、崩御の時まで長年住まわれていた土地(「明の宮」の場所)にも勅命により社殿が造営されました。こうして、崩御の時、お住まいだった土地と建物は、墓所(御陵)の御霊とともに弔われた歴史がわかります。
二条天皇の勅命によりを創建された社殿は、後嵯峨天皇が崇徳天皇社として再建し850年以上に亘って上皇をお祀りして現在の「白峰宮」に至っています。

「明の宮」の「神光」について
「明の宮」の伝説は、上皇御遺体を野澤井に安置した「もがり」の夜ごとに、林の中に「神光」が見えたのでその場所に二条天皇宣下により社殿を造営したという伝説です。その時の上皇「もがり」から何が導かれるでしょうか。
それは、火葬するまでの「もがり」の行事として、「神光」伝説の元になった火が焚かれていたということです。何もない場所で光が発することはないので、「神光」の光源となったのは人為的に焚かれた火であったということは納得性が高いと考えられます。古来から『「もがり」では火を用いることが知られる(『書記』仲哀)』*ことから、野澤井から見えた光は「もがり」儀礼として使った灯明・松明の火のことで、これが「神光」伝説に転化したと考えられるのです。

その「もがり」儀礼として火が焚かれた場所に後に社殿が建てられたことからすると、その場所で儀礼が行なわれた理由として考えられることは、そこには上皇御霊に関わる施設(建物)があったからではないかということです。当時、未開の場所であったこの場所の斜面と山林を切り取って建てられていた施設とは上皇行在(幽閉)所であると考えられ、「もがり」儀礼の火がここで炊かれ、それが「神光」伝説に転じたと考えられるのです。
 注*参考:「王朝貴族の葬送儀礼と仏事」(上野勝幸:(株)臨川書店)

「煙の宮」崇徳天皇社は、この辺り一帯に荼毘の煙が漂ったことにより、地元の春日神社祠官がここに社殿を造営し、崇徳天皇、待賢門院を祀りました。

「血の宮」崇徳天皇社(高家神社)では、上皇御柩から「血が鈍染」した石を、地域の祖神を祀っていたこの神社に移して、崇徳天皇と待賢門院を祀りました。

 *「明」「血」「煙」の伝説に関連して、本サイトの「「明の宮」崇徳天皇社」、ブログ「崇徳上皇の葬列と荼毘」に記載しています。

2021年09月09日