御朱印(白峰宮と青海神社)

崇徳上皇が崩御された後の出来事は、上皇柩が白峰に向かう途中に起きた豪雨によって柩からの血が「鈍染」し、荼毘の「煙」が谷あいに広がり、御所と野澤井では殯儀式が行われました。これらの伝説の場所はいずれも社殿が祀られ現在に至ります。
下の写真は、伝説が残る「明の宮」(白峰宮)と「煙の宮」(青海神社)の現在の「御朱印」です。
 *「血の宮」(高家神社)に御朱印はありませんでした。

「明の宮」崇徳天皇社は、上皇が崩御されたときの天皇、二条天皇により祠が建てられたのが始まりと伝わります。上皇が幽閉されたお住まい(「木の丸殿」)は、西行が上皇崩御の3、4年後にその場所を訪れた時には跡形もなかったことが記されています。
このことから、お住まいは弔いのため白峯の墓所前に移築され、「頓証寺殿」と呼ばれて弔われと考えられます。また、崩御の時まで長年住まわれていた土地(「明の宮」の場所)も崩御直後に祠が祀られ、後に崇徳天皇社として再建されています。このように、崩御の時、お住まいだった土地と建物は、墓所(御陵)の御霊とともに、崩御直後から速やかに弔われてきた歴史を歩んだことがわかります。
二条天皇の勅命によりを創建され後嵯峨天皇が崇徳天皇社として再建以来、上皇御霊をお祀りして現在の「白峰宮」に至っています。

「神光」について
「明の宮」の伝説は、野澤井で殯儀式を行った夜ごとに、林の中に「神光」が見えたのでその場所に二条天皇宣下により社殿を造営したという伝説です。「神光」伝説の元になった火は上皇がお住まいだった御所で現実に焚かれた法要のための篝火、灯明だったのです。古来、『殯では火を用いることが知られる』(『書記』仲哀)ことから、野澤井から見えた光は殯儀礼として使った火、明りのことで、これが「神光」伝説に転化したと考えられます。天皇社が「明(あかり)の宮」呼ばれるのはこの伝説に基づきます。

 殯儀礼として明りが灯された場所に後に社殿が建てられた理由は、そこには上皇御霊に関わる施設(建物)、即ち御所があったからということになります。
*参考:「王朝貴族の葬送儀礼と仏事」(上野勝幸:(株)臨川書店)

「煙の宮」崇徳天皇社(青海神社)は、白峰山の谷あいに荼毘の煙が漂い数日間留まったことにより、地元の春日神社祠官がここに社殿を造営し、崇徳天皇と待賢門院を祀りました。
「血の宮」崇徳天皇社(高家神社)は、上皇御柩から「血が鈍染」した石を、地域の祖神を祀っていたこの神社に移して、崇徳天皇と待賢門院を祀りました。

2021年09月09日