「松山」と海岸線  (中世の海岸線)

出典:国土地理院地図「全国ランドサットモザイク画像」の坂出市周辺部に、関係地を表示する加工をして作成  「データソース:Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像(courtesy of the U.S Geological Survey), 海底地形(GEBCO)」         


第二章

第1節 「松山」の範囲

上皇配流先のうち最初の頃のお住まいとして、軍記物語や『全讃史』等には「直島」、「綾高遠の松山の堂」、「長命寺」説 (脚注4)があり、地元伝承には三木豊樹氏が前掲書で紹介している坂出御供所の「真光寺屋敷」説(脚注5)がある。また、崩御のときに住まわれていた場所としては、軍記物語に見える「志度」、平家異本や『全讃史』等で行在所とされ明治以降「通説」となる「鼓岡」、『白峯寺縁起』の「鼓岳」(脚注6)、崇徳天皇社が置かれた八十場の山林地説が挙げられる。

『保元物語』諸本では、上皇は讃岐に着いた後、最初は「高遠の松山の堂」に居られ、後に直島に造られた「御所」へ遷られたとしているものが多い。平家異本では順番が入れ替わり直島→高遠の堂となっているものが多数である。讃岐本地の到着港は「松山の津」であるとされ、平安時代中期の承平年間(931~938年)成立の『和名類聚抄』(脚注7)に「松山郷」の名があり、「綾松山」(白峰山のこと)の地に「松山」の名が残ることから、青海、松山、高屋、神谷で構成された「松山郷」内にあった津に着船されたということになっている。

一方、「松山」という地名表現は古書や上皇の御製(歌)などに現れているが、それを「松山」の文字どおりに松山郷内の場所を指していると解釈しているものが多い。しかし、当時実際に(京から)理解されていた「松山」の範囲は松山郷内には限定されず、到着直前の船上から見渡せる港湾に接する陸地範囲が「松山」と理解されていたとする方が状況に当てはまる。

上皇の御製(歌)
  浜千鳥 あとは都にかよふとも 身は松山に音をのみそ鳴く

この歌は、上皇が配流先のお住まいで詠まれたものである。則ち、「通説」の綾高遠の屋敷(「雲井御所碑」 (脚注8)の付近)、長命寺、鼓岡はいずれも松山郷には属さないし、「通説」以外にもお住まいを松山郷内とするものはないが、この歌を詠まれた上皇の地理認識ではその場所は「松山」の範囲内だと理解されている。

西行の「讃岐にまうでて松山の津と申す所に院おはしましけん御跡尋ね」の歌は上皇が最期にお住まいだった場所のことを指している。ところが、“この歌の「松山」は松山郷内を指しているはずだから、松山郷内にある白峯陵のことだ”と「松山」の字に拘泥する解釈もあるが、「おはしましけん御跡」は御陵ではなく崩御されるまで住まわれていた所を指しているのは明らかである。これらから当時の歌や古書の「松山」が松山郷そのものを指していると限定する(脚注9)のは正しくないことが解

「松山郷」よりも広い範囲を「松山」とする認識が生まれた経緯は、次のような地理理解によると考えられる。
本州側から讃岐の「松山」に向かう船に乗って直島を経由してから先、瀬戸内海に突き出た国分台沖は潮流の早い難所という意味でひとつの関(所)であるが、そこから先、白峰山(「綾松山」)のある乃生岬を越えて行く。すると数キロ先の平山(御供所)の岬まで見通せる綾川両岸の景色の中に大きく陸地側に入り込んだ海浜が見えてくる。
こうして、「綾松山」を越えた海浜内にあったから「松山の津」と名が付いた。こうして、到着目的に応じて海浜内の津を利用することになるので、個別の津の名前や、湾内の津を総称する「松山の津」が呼称として使われたと考えられる。
このように、この地に近づいたときに視界に入ってくる地形状況から「松山」が理解されたと考えられ、その認知が言葉や歌に表されるのは自然な地理認知機能の働きである。『坂出港の「みなと文化」』(脚注10)に「古代坂出の港は、松山の津と呼ばれるところである。松山の津は福江、江尻、西庄、林田地区など、坂出の綾川河口域にできた港の総称である」と書いているのは、こうした「松山」への理解から来ている。

こうして「松山」を、白峰山を越えた所の山と海で囲まれた海浜に近い地域だと捉え直せば、軍記物語や上皇、西行が詠まれた歌に出てくる「松山」の範囲に収まり、松山郷内に解釈を押し込める歪みが修正される。このことは、「松山」が「平安中期以降は讃岐の代表的歌枕であった」(『香川県の地名』日本歴史地名体系)とされているように、「松山」は松山郷に限定する表現とは言えない形で現れる。

以上のように、行政区域としての線引きとは違って、当時の「松山」は「松山郷」に限定されない、自然状況を基にして理解されていたと考えられる

第2節 中世海岸線の推定(金山~林田~松山)

『白峯寺縁起』に記す御詠歌「ここもまたあらぬ雲井となりにけり・・」から転じて呼ばれた上皇のお住まい「雲井御所」があったと推測した場所に、江戸末期に「雲井御所碑」が建てられた。そこは坂出市林田町中川原の北方、新雲井橋東の県道から60~70mほど北側になる。この「雲井御所碑」の場所について中世の海岸線との関係を検証しておきたい。

中世のこの地域の海岸線を推定する手段として、現在の標高図を利用することができる。その方法は、奈良時代の海岸線として漁具等の発掘により証拠上確定している(脚注11) 現在の坂出市街地の角山~県立坂出高校~笠山に至る海岸線が、南方から最初に現れる標高「1m以上~3m未満」の出現ラインと重なっている(下の(図1)左下のオレンジ線)。このことを根拠にして、同じ条件を綾川両岸にも適用すると、古代から中世の綾北平野における海岸線を推定することができる。

(推定海岸線の参考となる「標高1m以上~3m未満」出現ライン:オレンジ線、雲井御所碑位置:赤)出典:国土地理院デジタル標高地形図「高松市周辺」の一部を切取り加工表示(図1)

新田開発が行われた遠浅の海では、埋め立てが海岸や堤防に近づく所で土を高く入れる場合を除いて、海を締め切ったのち海側へ下りながら埋立地に同程度の厚さの土を重ねていくので、埋め立て前の海底が埋め立て後の標高に反映されることになる。このことから、同じ地域(角山~笠山)の確定海岸線の情報と現代の標高を使うと古代~中世の海岸線が見えてくることになる。
その結果が(図1)中央から右に示すオレンジ線になる。
現在、高屋町から平山(御供所)の岬までは坂出市を構成する主な平野になっているが、そのうち奈良時代の海岸線として証拠上確定しているのが角山の山裾から笠山の南麓を結ぶラインが開発前の海岸線を表し、これと同じ「1m以上~3m未満」の標高ラインは、笠山から金山(かなやま)東麓にある西庄へ回り、新雲井橋辺りまで北東へ向かい、綾川を東に渡って白峰の西麓に至る。これが(山に繋がる一部の傾斜面を除いて)ほぼ当時の海岸線を表していることになる。
また、綾川河口域には数次の洪水跡が見られる状況からすると砂の生産量が多かったことや、陸地に入り込んだ湾内だったことから海流の影響が少なく、砂州や干潟が広がっていたことが推測される。

この結果から判定すると「雲井御所碑」の場所は、概ね海岸線に近い海~砂地の範囲にあると想定される。陸地に近いとしても干潟地~砂地の地盤の悪い場所にあたり、高遠の屋敷や方四町もの巨刹・長命寺を建てる環境にはなかったと言える。従って、お住まいの場所がこの石碑に近い場所にあったとするのは推定海岸線の状況からは難しく、松山の津に到着してから内裏が完成するまでの上皇仮住まいの場所は、この地よりも内陸側ではなかったかと考えられる。

*補足:「金山」や「松山」(現松山小学校の北((図1)右上、双子の山の東側)周辺等、山に近い場所の推定海岸線については、比較的急勾配となる自然傾斜の影響を受けるため、山のより近くへ海岸線が入り込むなど、緩やかな平野部の基準とは異なる海岸線([1m未満」の出現ライン等)が見込まれる。
 
「東梶(ひがしかん)」、「西梶(にしかん)」地名の由来
林田にある現代地名、東梶、西梶は、綾川の東岸「雲井御所碑」の場所に繋がる少し北東(海側)にある。東梶、西梶の来歴は概ね次のように伝わっている。
〇「神功皇后」遠征の折(古代伝説であるが何らかの事実が反映又は転化されたと思われる)船を留め置くため碇を繋いだのは、この場所に海から突き出た形の二つの岩礁だったという言い伝えがある。この話の基になる形が何もないところに伝説は生まれないから、古代においてここは海中であった。元は「上楫下楫」の名が付いていたとされ、『翁嫗夜話』(脚注12) では、「崇徳帝が直島から鼓岡に来た舟が到着した海浜」だとしている。

条里開発に繋がる土地
綾北平野は、古代から条里制によって開発された地域である。条里は、綾北平野東側の白峰山・五夜嶽側の麓から西に向かい、南からは今のJR鴨川駅辺りから北へ向かって開発が進んだとされている。従って、今の綾川本川の近くや、綾川を西に越えた西庄地区までの条里整備は東側からの条里に繋げる形で時代とともに段階的に開発されていったと考えられる。

鎌倉時代の開発
坂出市史編さん委員会編集の『さかいでの地形とくらし』によると、「潮入り荒野」などと呼ばれたこの地域の干潟は徐々に開発され、京都八坂神社に残された書類のなかに弘安元年(1278年)林田郷に開いた耕地が寄付された記録が残っていると記している。そして「用水を配る単位や八坂神社の祭礼に山車を出す自治会の範囲などから」推定したとする区域を地図で示しており、綾川東岸の中川原の北から「新開」地名の手前までが鎌倉時代に開発されたとことを表している(同冊子15~16P)。

このことについて、当時の平野側から海へ至る状況を現在の標高で表すと、「雲井御所碑」は概ね標高3m未満が出現するライン上にあるから、海岸線前後の海~干潟~砂地の範囲内と思われる。そこに続く北側の標高3m未満は海中だったと考えられる。その北には標高3m以上が現れるので、そこが海に囲まれた小高い堆砂地又は干潟地と考えられ、さらに北の標高3m未満の地は再び海中になっていたと考えられる(「(図1)」参照)。

これらを『さかいでの地形とくらし』の研究結果に当てはめると、小高い堆砂地を中心にして海に囲まれていた土地が、八坂神社に寄付された主要域になっていることがわかる。つまり、南の平野側から最初に現れる標高3m未満のラインが概ね海岸線で、その北側の海に続いて現れる標高3m以上の丸い形の小高い場所が開発後に八坂神社に寄付された中心地域に当たることが分かる。このことからすると、推定海岸線下にある「雲井御所碑」のある場所は碑建立から五百数十年前の鎌倉時代中期までに海浜地から耕地へ造成、開発された場所だと考えられる。(下(図2)参照)

「雲井御所」碑  [地理院地図(電子国土web)に〇印をつけて加工作成] (図2)

(図2)「雲居御所碑」の北、「東梶」「西梶」に囲まれた楕円形の住宅密集地が鎌倉時代に八坂神社に寄付された中心地域。(図1)と比較すれば、中世には海に囲まれた小高い堆砂地だった標高関係がよくわかる。これにより、本書の中世海岸線推定の方法が概ね正しいことを裏付けている。


生駒家による林田開発
江戸初期に讃岐に入封した生駒家は僅か54年で改易になったが、その間の讃岐における土木工事や新田開発の功績は顕著であり讃岐発展の礎になったと称えられている。450年間壊れたままの満濃池の修築を家来西島八兵衛が行った話は有名だが、西島は10箇所以上に池を作り新田開発を進めて農業発展に多大な貢献をした。
讃岐の新田開発について、生駒家入封直後の慶長3年(1598年)と40年後の寛永16年(1639年)の間の新田石高の記録(脚注13) によると、この40年間で讃岐の総石高は倍増している。池の修築や造営、新田開発が盛んに行われたことがわかる。

その内訳をみると、北条郡に属していた林田、青海、高屋、西之庄、乃生、加茂、江尻、坂出御供所、氏部の各村のうち、寛永16年の石高は、多い順に林田1486石余、西之庄985石余、氏部874石余、加茂866石余、高屋835石余、青海652石余、江尻443石余、乃生235石余、御供所49石余で、綾川流域が豊かな耕作地域だったことがよくわかる。林田の石高は断然多いが、そのうち生駒家の給人(領地を持つ武士)が自分用の新田とした石高が、林田92.5石、青海68石、高屋55石、西乃庄19石余、乃生17石余、加茂15石、江尻4.5石、御供所と氏部にはない。つまり、生駒家時代の北条郡では綾川河口東岸に開発可能な広い場所を持つ林田が最も開発が進んだ地域だったことが分かる。

以上、見てきたように現在の標高から推定される海岸線の状況から見ても、条里に続く鎌倉時代以降の新田開発の状況から見ても、最も海側に砂地が伸びていたところでも、概ね新雲井橋辺りから北は、鎌倉時代に開発される前は砂地~干潟地~海に繋がる場所だった。(図1参照)