衛士坊・上皇幽閉の時の根拠

摩尼珠院寺譜(由来)には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり、因て命く」とあります。崇徳天皇社の地元では、昔から衛士住居地に至る坂を「衛士坊の坂」と呼んでおり、坂の上の高照院、昔の摩尼珠院の処が衛士坊の跡だと古くから伝承されていて、由来と地元伝承の内容が一致しています。衛士坊と衛士坊の坂の地名が摩尼珠院の由緒と共に後世に伝承されたことは、上皇のお住まいと深い関りがあることを物語る確かな証拠とされています。この地名の起こりこそ崇徳上皇の行在所を五年余に亘って監視した衛士坊があったことを立証するものだとしています。

これに対して「神仏判然令」が発出された明治初期に摩尼珠院廃寺を受けて鼓岡を上皇幽閉場所だとする説を大々的に主張する運動が鼓岡で起こりました。その中で、本来は摩尼珠院寺譜にある上皇幽閉に当たってお住いを移したことを指す「遷幸」のことを、崩御後の殯(もがり)地への御遺体の移動のことだと解釈して、その時に柩の警護役の衛士が住居を構えたのを「衛士坊」だと説明しました。天皇社の地元に伝わる内容とは違った説明をして、これによって衛士坊を殯の間の一時的な施設として、「鼓岡」を数年間の幽閉場所として主張できるようにしたのです。


では「遷幸」の文字は寺譜でどのように位置づけられているのでしょうか。寺譜本文中には「讃岐國に遷幸あるべき」の記載があるほか、「神人(上皇を慕って都から讃岐に来た官人で、天皇社祭礼の時に神輿のお供を許された者)の項目に「此皆、天皇遷幸の御時、遁従し奉りて本邦に来る者の苗裔也」とあります。いずれも文字どおり上皇行在所の移転のことだと理解できます。他には「移し奉る」の表現がありますが、どれも生存中のお住いの移転のことを指しています。他方、殯の場所への御遺体の移動はご生存時のことではありませんからこれらの表現は使わずに「八十蘇の水に浸し奉る」としています。鼓岡説のように説明するなら「衛士坊 天皇殯の御時、供奉の衛士居住の地・・」となっていなければいけません。
従って、「衛士坊」由来の説明に見える「天皇遷幸の御時」とあるのは実際のお住まいの移転のことを示し、その時の監視役の衛士居住地を「衛士坊」と呼んでいるというのが文意に沿った解釈になります。

摩尼珠院寺譜は江戸時代中期に寺が上梓したとされ、その頃は軍記物語が広く流行していて、それらの文書に寺譜も強い影響を受けたことがわかります。それは、当時は讃岐国ではなかったのに「直嶋に皇居をうつし奉る」や、大乗経を「椎門の波底に沈め」など事実とは捉えられないことを軍記物語から取り入れているからです。そして「直嶋」に続く「府中鼓岡にうつし奉る」を妄信してしまえば前述のように殯の間だけ存在した衛士坊という解釈になってしまうのです。しかしながら、そもそも「鼓岡」には歴史事実の積み重ねや裏付けがないのですから「鼓岡」もまた軍記物語からそのまま取り入れていると考えられます。「寺譜」とは言っても流行本に寄った記述になっていることからすると、軍記物語からの影響がいかに大きかったか分かるとも言えるでしょう。

この寺譜は全体としては事実記録書というよりも随所に流行本を敏感に取り入れているので、真偽が混在していることは間違いありません。そのような中では、軍記物語から取り入れたものではない箇所に寺に独自に伝わる本当の歴史が残されているのではないかということになるでしょう。

以上を踏まえると、寺譜に書かれた「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住」の解釈は、この箇所は軍記物語に影響されたものではないという点や、記述の文理解釈からすると、摩尼珠院の地元に伝承されてきたように「衛士居住の地」というのは上皇幽閉期間中のことを指しているという理解が歴史的に符合していると考えられます。

2024年03月01日