京では怨霊、讃岐では慰霊

崇徳上皇御霊に関して京では、後白河院周辺の相次ぐ死亡、大火、大極殿炎上など災難の原因を上皇怨霊とした後、上皇を弔わなかった反省と怖れから「崇徳院」の諡号が贈られ菩提が弔われ御影堂への寄進なども行われるようになりました。それは怨霊を前提としたものであったことから、以後数百年に亘って御霊は「怨霊」とされ続けました。
他方、配流地の讃岐では「怨霊」への鎮魂ではなく、上皇御霊を敬い祀る「慰霊」が行われました。1755年に書かれた『綾北問尋鈔』には当時の地勢、名所とともにいくつもの伝説・伝承が書かれていますが、その中には上皇「慰霊」のためと思われるものがあります。同書の構成には①現存する事物や名所、②それに関わる言い伝えがあり、このうち②にはⅰ事実と思われるもの、ⅱ真偽の判定が難しいもの、ⅲ非科学的で創作であると考えられるものがあります。上皇慰霊のためと思われる話には上記ⅱとⅲが多いのですが、ここでは科学性、現実性、歴史経過の視点から創作ではないかと思われるものを以下に取り上げました。

『長命寺 號雲井御所。往古は境内方四町にして、仏閣建奏ひ、名高き霊場也』
一辺450mもの大寺院建立や寺院維持費用寄進の記録、霊場記録、残された礎石など証拠が何もなく、干拓前の干潟地を広範囲に含まなければ成立しないと思われます。ご苦難の地となった配流地で上皇が大寺院に住まわれるという恵まれた境遇もあったとするために、存立時期や規模等の異なる「長命寺」を、慰霊のためこの時代の巨大寺院として取り入れ、創作したのではないかと思われます。

『馬場・二天・射場 是等長命寺の境内也しと云。今は田畑と成て名のみ計り也。此君、武芸を好せ玉ひ、近隣の武士を集め、射芸を叡覧有し所と伝。射芸の跡近代まで有し』
長命寺の段でも述べたように、当時この場所に450m四方もの巨大寺院があった証拠は何もなく、面積的にも存立は疑わしいのです。従って、その境内に馬場や射場があったというのも創作ではないでしょうか。古地名「長命寺」から綾川をはさんだ東岸に(後の時代と思われる)馬場地名が残っていることを使って、長命寺境内に馬場があったと創作したのでしょうか。そのほか、この話への疑問点として、①都では歌を好み、保元の乱で敵の武門に敗れて出家された上皇が「武芸を楽しむ」お気持になられるでしょうか、②讃岐国司は美福門院の親族に当たることから監視について影響力があることが配流先になった大きな理由ではないかと考えられ、国司の立ち位置から考えると讃岐の武門勢力は上皇と敵対した信西・美福門院側に立つものであり、その武芸を楽しむという説には無理があるのではないでしょうか。また、③射芸場所の跡が近代まであったとしていますがいつの時代に射芸場所が作られたのか、江戸時代中期に至る500年以上も射芸場所の形態がそのままに、或いは耕作場所としても利用されずに存在し得たのでしょうか。後に厳しく幽閉された期間が長かった配流でしたが、配流当初には監視も緩やかで楽しみもあったことにしたい上皇慰霊のための創作ではないのだろうかと思われます。

『内裏泉 岳の麓に有り。この水を汲めば眼を疾ふ・・』
白峯寺縁起に書かれた「岳」を用いていますが、古来より「岳」と「岡」は異なる意味を持ち、事物を特定する機能を持つ漢字であり使い分けられてきました。保元物語に書かれた「鼓岡」でなく、白峯寺縁起に書かれた場所をここだとするための「岳の麓」を意図的に使ったのではないでしょうか。また、讃岐では上皇を怨霊とはしていないのに、怨霊説を取り入れたように眼の病を導いています。科学的には目を患うのは水に毒素が含まれる等の原因が必要になりますが、この辺りの水系にそのような歴史を聞いたことがありません。上皇が使ったことにした水源を護るために人を恐れさせる話ということになりますが、これは都から輸入された怨霊説を、慰霊の地讃岐で取り入れて創作したものではないでしょうか。

上皇関連遺跡は真偽が混在しているように見えます。顕彰時点の地形を見て配流当時のことにしたものや、慰霊への強い思いを表すために創作されたものも含まれていると思われます。

*追加
サイト内ブログ「崇徳院配流と慰霊の地 坂出」」も併せてお読み頂ければ幸いです。



2021年02月26日