「明の宮」崇徳天皇社 (「神光」が伝える意味と「衛士坊坂」)

第五章

第1節 柩を野澤井に浸した時の「神光」伝説の本当の意味
 

 野澤井と白峰宮の森(後方)

上皇御遺体は、京からの検視官を待つ間、損傷を防止するため八十場の泉(野澤井)に残暑の約20日間浸された。この時、八十場の泉から見た今の白峰宮の場所に毎夜神光が立ったので、その地に祠を立て「崇徳天皇社」となり、今の白峰宮に繋がったと伝えられている。この時の「御尊体を八十場の霊泉に浸して保存した。その間、付近の霊木に神光があった」ことを現実的又は宗教的視点から捉え直して考えると、「崇徳天皇社」の歴史理解について客観性を高めることができる。

古来の死生観からすれば、上皇が長年住まわれた場所には御霊が留まり、御霊は光になって存在を伝えると考えられていた。このことが「神光」の場所に祠を建てて祀る理由になったと考えられる。当時は「御霊」の存在を受け入れた社会であり、宗教的な間接理由に転化して行動の動機を説明するのは時代を超えて見られることである。
 八十場の泉から崇徳天皇社(現白峰宮)までは直線で150m程だが、斜面を登った後に少し下る地形になっていること、当時は未開地で今のような裏参道はないから森林木立のためにその場所から発する光源を直接には見通すことはできない。つまり、現実に「神光」が見えたのではなく心で見たのであり、心に見えた理由は、その場所に御霊が留まっていると認識するからであり、そう受け止めたのは上皇お住まいの場所だったからである。或いは、その光はそこに留まる御霊を供養する意味のお住まい前のかがり火の光が薄明るく空に広がった現実のものだったとすれば、この場合は本当に光を感じられたことになるが、何れにしても、「神光」には上皇お住まいの場所を示す意味が込められていた可能性が高い。

白峯御陵のほか綾北平野にある天皇社は、上皇もがりの際に神光があったという八十場の「白峰宮(明の宮)」、御遺体の柩から血が滴ったという「高家神社(血の宮)」、荼毘の煙が7日間留まったという「青海神社(煙の宮)」の3社である。
もがりの儀式とは、生と死の境目の時期に行うことであり、まだ生きている魂がこの世に彷徨うときと考えられていた。上皇が足掛け6年の長きに亘って住まわれた場所には魂が留まると考えるのが当時の死生観に基づく当然の認識であって(現代にも通じる意識が残っている)、誰もがそう思うことだったから、敢えて「神光」の場所がお住まいの地だったと言わなくても自明の理ということである。

「崇徳天皇社」とは上皇の御霊を祀るべき場所を意味しており、だからこそ天皇社としてお祀りしているのである。このように、上皇崩御後、江戸末期まで上皇の御霊に関わりのある所を祀らないことはあり得ないし、逆に言えば御霊に関わりのない所は天皇社として祀られないのも当然のことである。『白峯寺縁起』には、上皇のお住まい「國府の御所」を遷して菩提を弔ったとしており、上皇お住まいとして幽閉されていたこの地は、崩御間もない頃から祀られ弔われてきた長い歴史を重ねているのである。このように、事実から転換した伝承は歴史事実を後世に遺す有力な方法として古来から伝えられている。これに対して、こうした地元伝承や長い崇敬の歴史が遺されていない場所と比べると、「明の宮」における歴史の真実性が明らかになっていると考えることができる。
このように、最後のお住いが「明の宮」崇徳天皇社の場所だと伝えるのが「神光」であり、当時の人はそれを当然のように理解した。死生観からも歴史事実は見えてくると言える。

第2節 「衛士坊の坂」伝説を解く

 衛士坊坂(上方【天皇寺入口)から見る)

 

   衛士坊坂(下方から見る)

八十場にある天皇寺の東側土塀に沿って北へ下る「衛士坊の坂」(「えじぼう・の・さか」又は「衛士坊坂(えじぼうざか)」)と名前が残る坂がある。この坂は、崇徳上皇幽閉の監視人(衛士)が、国府庁からここ「崇徳天皇社」の場所にあった幽閉場所へ数年間通っていた坂道であり、今の天皇寺の辺りに衛士の詰所(坊)があったと地元に言い伝わっている。

「衛士坊の坂」は、現在の天皇寺入口前辺りから北の海側へ下る150m余りの坂を指して名づけられている。国府庁横の「鼓岡」を最後のお住いの場所だとする現在の通説関連資料によると、この坂は八十場の泉に御遺体を浸した約20日の間、見張り役が臨時に住むための小屋(坊)がこの斜面に建てられたので「衛士防」と名が付いたと説明している。しかし、この説明内容では上皇御柩警固の役割を見失っているし、「坂」の伝説なのに「坊」に言い替えて説明するなど正面から対応できていない。こうした現在の通説による説明の納得性・信頼性が低いところを整理すると次のとおりである。

第一に、この坂は「衛士坊」ではなく「衛士坊の坂」と名付けられ、「坊」ではなく「坂」の名前として言い伝わっている。ここは上皇監視の衛士が毎日通った坂の名前として地元に言い伝わっていて、坂の名前が付いていることの意味は、坂の上にある施設(上皇幽閉場所)に目的を持って、人が上り下りの往来をした道が形成されてた事実があったということである。「坊」の説明では「坂」の意味を(意図的に?)避けているのではないかと思える。

第二に、現地を見ればよく分かるが、この急な斜面に小屋をいくつか建てるとすれば、木立の間に小屋の底面部分だけを平たく削って建てることになる。わざわざそうしなくても、摩尼珠院道標のある十字路から西に向かう270mの間のもっと泉に近い場所か、警護対象である泉の直前に新たに小屋を建てる方が、警護目的と小屋の設置場所が合致する(脚注29)。森林中の斜面の小屋から泉は意味もなく遠く、突発的に発生した上皇の御柩を警固して誰も近づけないという大切な役割を目指した行動として説明にならない。生前、上皇監視に当たっていた既存の「坊」がこの坂の上にあれば、柩を泉に浸していた間はそこを拠点に、臨時の警護所を泉の前に設けるなどして柩の警備に当たったはずであるが、その臨時の施設には見張り場所を示す名前が付いたとは伝わっていない。また、僅か20日間の兵士の宿泊・待機場所と主張する場所にすら名前が残るくらいなら、上皇の柩を守る重要な役割を実行した監視場所の方が重要であり記録と記憶に残るはずである。つまり、「衛士坊」の名前が残っているのは20日間の出来事からではなく、上皇が住まわれた数年間という時間の積み重ねがあったからこそと考えられる。警護目的である泉から遠く、このような急坂では兵士宿営地としての目的からも相応しいものではない。「衛士坊の坂」は上皇崩御後の兵士の臨時宿営施設の場所を示す名前ではないと考えるのが相当である。

    衛士坊の坂から八十場の泉へは遠い

第三に、坂の下、田畑になっている辺りから現天皇寺入口辺りまでが衛士坊の坂と伝わっているが、この斜面の木立の間に衛士の臨時小屋が建っていたからと言ってこの長い斜面全体が衛士「坊」と名づけられたとすることとは整合しない。衛士の詰所との間を往復する目的がなければ、当時、森林地の中に人が通る坂が形成される理由はなく、現在見えているような人が通る坂でなかったならば、森林の中の急斜面に過ぎず、そんな木立の間が兵士の宿営地に選定されたうえに、建てられた小屋を「坊」と名付けたという説明は納得性が低い。

第四に、三木豊樹氏が指摘するように(脚注30)、上皇崩御後の20日間の短い期間だけ木立の間に衛士の仮住い小屋があったことが、そこに名前が付いて数百年も伝わるほど臨時小屋の場所が歴史に名を遺す意味、重要性はない。5年余の長きに亘って上皇を幽閉した歴史上の意味と、衛士が日に日に訪れる姿が遠望され強い印象となって蓄積したからこそ八百年以上も言い伝わる名前が残るのである。また、同氏は「摩尼珠院、由来に、衛士坊天皇遷幸の時、供奉の衛士居住の地なり、因って命々すとある(脚注31)」と調査結果を示している。これによって本来の衛士坊の役割が分かり、泉に御遺体を浸した約20日間の話とは全く意味が違うことが分かる。「供奉」は、一般的にはお供をすることであるが、ここでは衛士の役割である「監視」を示している。「衛士坊の坂」の名前が言い伝わっていることは、幽閉した上皇を監視する衛士の詰所(衛士坊)が坂を上った今の天皇寺辺りの場所にあったことを立証し、則ち上皇が幽閉されていた場所がその奥にあったことを示す有力な歴史証拠である。現在の通説は、ここに「坂」の名前がついて残っている歴史の事実と整合しない。

現在の案内板(「衛士坊の坂」石碑の再建か この坂の言い伝えを記す銘板設置が望まれる)

*この案内板の右下のお地蔵さんの場所には「衛士坊坂」と刻んだ高さ1mほど10cm角程度の石柱が建っていたと筆者は記憶しているが、失われた後、別の場所にあったと思われる古いお地蔵様が置かれ、後に一部割れたが白い接着剤で補修され現在に至ったと理解している。今のお地蔵さんが置かれている台座とのコンクリート接合面を見ると、この二つは違う時代に置かれたこのであることがわかる。上写真の「衛士坊の坂」と書かれた板の風化具合から見ても丁度その頃に作られたようである。この表示板のすぐ下の電柱に、この地蔵様は明治の頃か行き倒れになったお遍路の墓があった所が地蔵様になったと書かれた説明書きが取り付けられているが、元々あった「衛士坊坂」石柱が見えなくなってからこの「衛士坊の坂」の板書きが設置されているから、元の石柱は自動車等との衝突事故によって損傷したために喪失したのではないかと思われる。

元の石柱やそこに彫られた文字の様子からすると、「白峰宮殯殿遺跡碑」(大正9年)や「野澤井崇徳天皇御殯殮御遺跡碑」(昭和4年)と同じ頃に設置された石柱でないかと推測される。「衛士坊の坂」という名前とこの坂は、地元西庄や坂出市にとって850年以上も言い伝わった歴史財産である。この名前と本来の名付けの意味を伝える大切な役割を担う「衛士坊の坂」の名前が忘れ去られないようにして欲しい。今や地元の人にすら「衛士坊の坂」の記憶が少なくなってきたことからも「衛士坊坂」石碑の再建が望まれる。
 江戸中期頃以降にはお遍路さんがよく利用したこの坂には、平安時代に崇徳上皇を監視する衛士が通っていたという歴史事実を伝える貴重な名前が遺されているのである。(*H.P版にて追加)

 

「衛士坊の坂」:1853年の絵図に赤ラインで表示)

衛士坊の坂の奥、すなわち崇徳天皇社の所に上皇が幽閉されていたという伝説は、古書に書かれているように閉じ込められ監視されていたことを意味する記載とも合致し、監視が長期間に亘る出来事であったことを証明している。「衛士坊の坂」伝説は、やはり歴史事実だというのが客観的な評価である。

第3節 「天王」 の地名  (H.P版において追加)

阿野郡は、鎌倉時代以降江戸初期までの間、南条郡と北条郡に分かれていたが、貞享元年(1684年)に阿野北郡と阿野南郡に改められ(「翁媼夜話」)、そのうち阿野北郡を構成する四郷の中に「西庄郷」が含まれ、「西庄郷」を構成するする村に「天王」(てんのう)が含まれている。ここは、崇徳天皇社と別当寺「摩尼珠院」が置かれた村であり、江戸期までの文書や図には「天王」と記されている。つまり、白峰宮、天皇寺が所在する地は、古くから「てんのう」という名前を引き継いできたのである。(現在地名、西庄町「八十場(やそば)」は昭和10年代に字名「天皇」から変更した)
この地が「天王」の名前を戴いてきた理由を考えると、崇徳上皇が崩御前5年余の長きに亘ってお住まいになっていた歴史記憶の重要な場所だからと考えるのが妥当であり、20日余りのもがりの場所であったことよりも重要な歴史事実が継承されてきたことがこの名が付いた理由だと考えられる。上皇の御霊を祀る重要な場所になった理由と、「天王」と呼ばれるようになった理由は同じであり、上皇長年のお住まいの地を祀る土地であったことを示している。

他方、現在の通説で上皇お住まいという「鼓岡」は、そこに5年余も住まわれたとする上皇との直接のつながりを示す名前ではない。「鼓岡」では、上皇お住まいとの関係性の説明が成立しないから、「鼓岡」と名付けられた別の経緯があったことが推測される。上皇お住まいの地でありながら「鼓岡」と呼ばれているのならば、上皇お住まいよりも重要な「鼓岡」名付けの理由が別にあったことになるが、そのような重要な記録や記憶・伝承が地元に残っていないことからすると、上皇が「鼓岡」に住まわれた事実はなかったのではないかと考えられる。

つまり、崩御されるまでの5年余に亘って住まわれた上皇最後のお住いの地であるという極めて重要な場所を祀る土地であることが「天王」の地名が付いた理由であると考えられ、一方、「鼓岡」という名が上皇お住まいの場所を現したものになっていない理由は、その事実がなかったからであり、「鼓岡」という名前の由来には別の経緯があったものと推測される。