摩尼珠院寺譜
「摩尼珠院寺譜」は、「明(あかり)の宮」崇徳天皇社の別当職に任じられた「摩尼珠院」の由来として「江戸中期の頃、同寺によって上梓され1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」と改題・再刻され」たとしています(「香川叢書」第一部)。
崇徳上皇の行在所に関係する記述として、寺譜では崇徳天皇社(現白峰宮)の場所を「御鎮座所」としていますが、その意味には上皇お住いの場所だったことを直接的に示すほか、「天皇神霊の止り給う霊場」という表現から、殯(もがり)のときに現れた「神光」が上皇御霊のことであり、苦難の六年を過ごされたお住いの場所に留まっておられるという意味にも解されます。いずれにしてもここは上皇住が実際に住まわれた場所であることを「御鎮座所」の表現が明らかにしています。
また、行在所に関連する別の記載には「遷幸」がありますが、そのうち「讃岐国に遷幸」は、実際に御身を讃岐国に遷して生活されたことを意味します。他の「遷幸」記載では、衛士坊を「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地」と説明しています。上皇御自身が実際にこの場所で住まわれたことを「遷幸」として、上皇お住いに近接する場所には「供奉」する衛士が居住していたことを示しています。
寺譜では上皇配流地の変遷を、「高任の館」―「長命寺」―「直島」―「府中鼓岡」としています。軍記物語や江戸中期の讃岐の書物に同じ経過のものはありませんから、この御遷幸経緯はそれらを組み合わせて書かれていることが分かります。このうち事実でないことが明確なのは、当時「讃岐」国ではなかった「直島」。事実でない可能性が高いのは、摩尼珠院末寺ではあるが本寺の摩尼珠院が天皇社別当寺に任じられた以降に開基された末寺であり、配流当時はまだ存在していなかったと思われる「長命寺」。また、「鼓岡」は行在所としての歴史事実が見出せていません。その他にも、実際には仁和寺に保管された(『吉記』)五部大乗経が上皇の元に送り返されたので「大魔王となって恨み」の箇所や、「大乗経」を椎門(つちのと)の海底に沈めたというところも事実ではない事が証明されており、これらは軍記物語や江戸時代の書物の創作箇所から取り入れていることが分かります。軍記物語等の影響を受けて事実とは異なる内容が寺譜の一部になっているのです。
「寺譜」は本来、寺の歴史ということですが、寺がここに置かれた1244年以降の歴史記録並びにそれ以前の歴史で寺が聞き及んだことが書かれていますが、軍記物語の創作を寺譜がその一部に取り入れてしまったので、寺譜には事実と事実でないものが混在することになったのです。しかし、軍記物語以外の箇所は寺の言い伝えが残っていることになります。
〇軍記物語等から取り入れたため誤っているのは、
上皇の配所移転の経過、崩御地、大乗経の椎門沈め、
〇軍記物語等に書かれていない、寺に伝わる歴史が書かれているのは
殯の時の「神光」、崇徳天皇社造営と別当職任命、天皇御鎮座所であるこ と、藩主松平頼重公による京都からの住職招聘、八十場の水の謂れ、岩根 の桜、衛士坊、明星淵、俱舎谷、神人、氏子、末社、末寺
寺譜の配流地変遷の箇所については事実性を否定できる以上、寺譜の記載「府中鼓岡」を根拠にして配流地・崩御地を述べることは避けなければいけません。遥か京で作られた軍記物語を取り込んでいる上皇配流先の経緯は歴史事実としては信頼性を欠くものだからです。
こうした評価からすると、歴史事実の真偽の検証や判断は、軍記物語や読み物にだけに依存しないで、地元に残る伝説・伝承間との辻褄や「清輔朝臣集」等の一次資料を含めて考えなければいけないということになります。
その結果、本書では、最初は急遽の配流のため綾高遠の館に仮住まいし、次に勅命に従って速やか(数ヶ月後)に「海士庄」に完成した御所に遷り、配流からおよそ3年後に上皇幽閉の必要が生じたため、国府庁からは一定の距離にありながらも外部との接触を絶てる森林中の幽閉場所に遷られた可能性が最も高いということを、「真光寺」「衛士坊」「侍人」の歴史事実や「神光」の意味、天皇社への崇敬の歴史などから考察しています。 軍記物語とその影響を受けた書物の文字面だけからでは事実は導けないのです。
前述のように、寺譜には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり。因って命く。」と、幽閉と監視に関する記載があります。この場所に伝わる「衛士坊」「衛士坊の坂」の名前は、崇徳上皇幽閉の場所と監視役の衛士が居住する「衛士坊」が「明の宮」付近の場所にあって、そこに通う衛士が往来した坂が「衛士坊の坂」であることを伝えています。こうした軍記物語に記載がない項目のほか、江戸時代の讃岐の書物から無条件に取り入れたものではない箇所は、幸いにもそれらの影響を受けることなく、寺が引き継いできたことが残っていると考えられます。
この寺譜は、江戸末期1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」に改題されたとなっていますが、その理由や改訂・修正箇所等の経緯については不明となっています。また、摩尼珠院廃寺後、寺譜は明治時代には民間に流出していたようなので、上皇配流地の変遷など軍記物語等から取り入れているのはその間の改変だった可能性があります。
「摩尼珠院」石標 寛政12年(1800年)