摩尼珠院寺譜

摩尼珠院寺譜」は、「明りの宮」崇徳天皇社の別当寺に任じられた「摩尼珠院」の由来として「江戸中期の頃、同寺によって上梓され1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」と改題・再刻され」たとしています(「香川叢書」第一部)。


崇徳上皇の行在場所に関係する記述として、同書(寺譜)では崇徳天皇社(現白峰宮)の場所を「御鎮座」所と記載していますが、その意味には上皇が実際にその場所に住んでいたことを直接的に示すほか、「天皇神霊の止り給う霊場」という表現からすると上皇の御霊が今もここに留まっておられる(その理由は、この地に住まわれ崩御後も御霊が留まっておられる)という意味にも解されますが、いずれにしてもここが上皇行在が実際に留まられた場所であることを明らかにしています。
また、在所に関連する別の記載に「遷幸」がありますが、そのうち「讃岐国に遷幸」は、当然ながらこれは実際に身柄が讃岐国に遷られて生活されたことを意味します。他の箇所の「遷幸」記載では、衛士坊が「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地」と説明しています。つまり御身が実際にこの場所で住まわれたことを「遷幸」として、衛士が居住していた隣接地に上皇が生活されたことを示していているのであって、崩御後の御霊のことを表しているものではありません。従って、上皇は崇徳天皇社となった場所(のどこか)に居住されていたことを示すものと受け止められます。

ところが同書の上皇配流地の変遷の記載では、「高任の館」―「長命寺」―「直島」―「府中鼓岡」としていて、これは保元物語諸本の一部から取り入れた経緯になっているのですが、長命寺の存在性(干潟地に方四町もの巨大寺院が存在した関連証拠は全くない)や、直島は当時讃岐国でなかったことから、これらの御遷幸経緯の記載個所は事実ではなく憶測で書かれた軍記物語から取り入れた蓋然性が高いのです。従って、事実に符合したものとは言えず、流布していた保元物語の影響を強く受けて、書き換えられているとと評価するのが妥当だと考えられます。また、同書には「大乗経」を椎門(つちのと)の海底に沈めたと書かれていますが、これも事実ではない事が証明されており、同様に保元物語諸本の創作から取り入れたものであることがよく分かります。
つまり、「寺譜」の中には軍記物語から取り入れた箇所があって、配流場所に関して事実でない記載が含まれていると言えることになります。他方、外部(流布していた軍記物語等)からの影響を受けずに寺が継承することができた歴史事実についてはそのまま伝えられていると見ることができ、その結果「寺譜」には事実と事実ではないものが混在していることが明確にわかります。

このように、寺譜では事実の一部が修正されているのですが、寺譜が軍記物語の記載を受け入れた時期はいつなのでしょうか?。軍記物語等が隆盛した江戸中期の寺譜作成当初か、明治初期の摩尼珠院廃寺によって寺譜が民間に流出し「鼓岡」説を主張する運動が盛んになってからなのか不明です。いずれにしても寺譜の配流地変遷の箇所については事実性を否定できる以上、寺譜の記載「府中鼓岡」を根拠にして配流地を述べることは出来ないものと考えられます。
 
配流地の変遷について最も信頼すべき一次資料は、配流と同時に、上皇に極めて近い公家によって書かれた日記(清輔朝臣集)に記載された「讃岐のさとの海士庄」に新たに御所を造営せよという勅命があったという箇所であり、それに反して当時「讃岐」国ではなかった直島に移られたという記載や「海士庄」ではない讃岐国府中の鼓岡を行在所としている記物語等の影響を強く受けて事実内容が変更されていることが明らかなのです。また、1755年に地元史家が書いた「綾北問尋鈔」でも、実際には仁和寺に保管された(「吉記」)五部大乗経が上皇の元に送り返されたので「大魔王となって恨み」の箇所、これも軍記読み物の影響を強く受けて取り入れていることが分かります。いずれにしても、遥か京で作られた軍記物語を取り込んでいる上皇配流先経緯の記載には歴史事実としては大きな疑問があり、むしろ誤りであると言えるのではないでしょうか。

こうした評価からすると、歴史事実の真偽の検証や判断は、地元に残る伝説・伝承間の辻褄や一次資料「清輔朝臣集」を含めて考えていかなければいけないということになります。 その結果、本書では、最初は急遽の配流のため綾高遠の館に仮住いし、次に勅命に従って速やか(数ヶ月後)に「海士庄」に造営された御住居に遷り、およそ2年数か月後に上皇幽閉の必要性が生じたため、国府庁からは一定の距離にありながら外部との接触を絶てる森林中の幽閉場所に遷られた(国府庁の横という賑やかで国府庁内の動きを上から一望できる鼓岡ではない)可能性が最も高いということを、「真光寺」「衛士坊」「侍人」の歴史事実や「神光」の意味、上皇が住まわれた場所への崇敬の歴史や地元伝承を踏まえながら考察しています。 軍記物語とその影響を受けた書物の文字面だけからでは事実は導けないと考えられるのです。

先にも記述したように、寺譜には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり。因って命く。」と、幽閉と監視に関する記載があります。この場所に伝わる「衛士坊」「衛士坊の坂」の名前は、崇徳上皇幽閉の場所と監視役の衛士が居住する「坊」が「明りの宮」の場所にあって、ここに通う衛士が行き来した坂が「衛士坊の坂」であることを伝えています。この記載は軍記物語には関連した記載がないので、幸いにも軍記物語の影響を受けることなく、事実が修正されずに伝えられていると考えられます。

この寺譜は、江戸末期1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」に改題されたとなっていますが、その理由やその時の改訂・修正箇所等については不明となっています。

2020年08月23日