配流地「鼓岡」と「鼓岳」(保元物語等が誤って伝えた「鼓岡」)

第七章

第1節 真光寺屋敷から「國府甲知郷鼓岳」への御遷幸

崇徳上皇が讃岐でお住まい遷すのは京からの命令に依るはずなので、讃岐内の御遷幸先は配流当初から考えられていたか、朝廷が遷幸を命じる動機が新たに生じたということになる。配流当初に朝廷が命じた「海士庄の内裏」から「鼓岳」(『白峯寺縁起』)への御遷幸は、平治の乱に至る前の対立関係の激化か、保元の乱により伊豆に配流されていた源為朝勢力の反抗の動きが動機になったのか、或いは真光寺屋敷での生活に束縛が必要とされる状況が発生したのかも知れない。

いずれにしても、上皇の御身が何らかの「反乱」に利用されないよう「三年を送り給ふ」た「内裏」真光寺屋敷から急遽、上皇を厳しく幽閉監視できる場所へから遷したと考えられる。『白峯寺縁起』ではこの経過を「在廳野太夫高遠が御堂」から「國府甲知郷鼓岳の御堂」への御遷幸としているが、『白峯寺縁起』が記す「鼓岳」は、森林地を想起させる場所へ遷ったことを示しているので、この御遷幸は配流当初には予定されていなかったと思われる。

保元の乱は1156年、平治の乱は1160年(保元の乱の3年半後)であるが、上皇が「鼓岳」に幽閉されたのは讃岐配流から3年ほど経過した頃と考えると上皇最期の配流地での期間は、実質5年数か月、足掛け6年になるので古書に記す期間と一致する。従って、『白峯寺縁起』の「高遠が御堂にをきたてまつりて三ヵ年を送り給う」の3年間には、高遠屋敷での仮住い期間に加えて新たに造営された「内裏」(真光寺屋敷)でのお住まい期間が含まれていると考えられ、このうち仮住いの数か月間が「内裏」造営に充てられた期間になる。「鼓岡」を海士庄の内裏とする説だと質素なお住まいの造営に3年も掛かったことになるので、それに比べると真光寺屋敷説は納得性が高い。

古書には上皇の御身を遷した理由を書いていないが、『保元物語』(古活字本)には「この反乱(平治の乱)は讃岐院がまだご在世の間に、直接ご怨念が引き起こしたものと、人は申したものである」として、上皇の影響や関与を恐れたことが厳しい幽閉と監視に繋がった可能性を示している。

第2節 幽閉場所の様子

『保元物語』(半井本)では、上皇の讃岐御遷幸の際に後白河天皇が「讃岐院の讃岐での御所を国司が引き受けて作るように。場所は讃岐国の陸地の中ではなくて直島という所である」と、以下その場所の様子を、「陸から二町、住人少なく、そこには周囲一町に土塀を築いて、門をひきつを建てて」とあまりにも詳しく指示したように書いている(脚注39)。これは、当時の備前国直島(第九章参照)を讃岐国に属していると誤っているうえに、見たこともない幽閉場所の詳細まで天皇が話すはずはなく、後年『保元物語』の作者が得た上皇崩御の時まで幽閉されていた場所の情報をここに書いていると理解される。

諸本に記す配所の様子「田畑もなければ土民の家とてなし一町の四分の一より狭く、小山挟みたる懐に築土を築き中に屋一つ」、「海づら近き処なれば、海洋煙波の眺望にも慰ませ給ふべきに」、「屈強な武士が宮門を守り」は、幽閉場所の状況を伝え聞いた内容をそのまま記せばよい箇所だから誇張や事実の変更はないと見られる。
また、蓮如が讃岐の配所を訪ねたときの様子を「築垣を高くめぐらして総門の奥にひっそりと建っている。総門にはいかめしい警固の武士を添えて外からは固く鎖をさしかけ、ただ供御(お食事)を差し上げるほかは固く門を閉ざして開くこともない」と伝えているが、これらは『白峯寺縁起』が「鼓岳」と記す八十場の幽閉場所における状況を表していると思われる。なぜなら、幽閉され衛士が監視する配所の様子は八十場の「衛士坊の坂」伝説と同じであり、僻地における牢舎と監視所の存在が想起される。また、「海づら近き処なれば、海洋煙波の眺望にも慰め給うべきに、加様に閉籠せられ」(海が近い処なので海の眺望も慰めになるはずなのに、このように閉じ込められては)や「武士が宮門を守」るという、周囲の環境や幽閉と監視のすべてを満たすのは八十場の「崇徳天皇社」の場所以外に当てはまる行在所の伝説地はない。

 〇距離・眺望関係
地理状況について、「崇徳天皇社」から当時の海岸線まで2~300m程。天皇社の地は北斜面から海を斜め下に眺められる地形になっている。国府庁横の「鼓岡」は当時の海岸から4km以上離れており海の香りや眺望はない。なお、港からの距離は、松山郷の津からは「崇徳天皇社」へ2.5km、国府庁までは4km以上。御供所からは崇徳天皇社へ6km、国府庁までは10km程度であるが、これらを古書との間で検証できる記載はない。

 〇周辺環境関係
「田畑もなければ土民の家とてなし」という幽閉場所の周辺環境と「鼓岡」の場所を比較すると、国府庁勤務の多くの役人や住民がすぐ近くに住み、人々の声や国府の行事の様子も伝わり、府庁内を見下ろし動静を伺い知ることもできる位置関係にあることからすると「鼓岡」の様子ではない。
「鼓岡」幽閉説では、国府庁に近くて監視し易いからという理由を説明しているが、現実的見解はそれとは逆で、上皇と反乱計画者との接触を断つという幽閉の目的を果たすことが難しい環境である。その目的を達するには古書が記すように人の往来から離れた場所に閉じ込め、人が近づくのを監視、察知できる場所がふさわしいと考えて実行されたと見るのが妥当である。

第3節 「岡」と「岳」の意味

平家異本などで上皇がお遷りになったとする「鼓岡」に対して、『白峯寺縁起』では「其後國府甲知郷鼓岳の御堂にうつしたてまつり」とある。そこで「甲知郷」と「鼓岳」について分析する。

『白峯寺縁起』に記す遷幸先「國府甲知郷鼓岳の御堂」は、「国府庁があるのと同じ甲知郷内にある」こと、つまり国府庁は甲知郷にあって、それと同じ郷内の「鼓岳」と説明している。国府庁横にあると説明するなら「鼓岳」の文字や「甲知郷」という説明を加えるまでもないから、「國府甲知郷鼓岳」が国府庁横にある「鼓岡」のことだという解釈には繫がらない。また、その後にある「國府の御所」は、説明の繰り返しを避けるため「甲知郷」が省略されていて甲知郷に御所があることを伝えていのか、或いは御所のある場所は「國府」域の範囲内と認識し得る場所にあるということであって、国府庁のすぐ横にあるという意味ではない。

八十場の天皇社の地が甲知郷に属するかどうかについて、『和名類聚抄』によると平安時代、讃岐の阿野郡は新居、山田、羽床、甲知、鴨部、氏部、山本、林田、松山の9郷である。後に崇徳天皇社が置かれた処は当時未開地であり、城山に連なる地形に含まれるから国府と同じ郷(甲知郷)内であったと三木豊樹氏は指摘している (脚注40)。
郷の変遷や範囲は必ずしも明確ではないが、「崇徳天皇社」の地は山本、林田等の地勢とは異なるから、城山に連なる「甲知郷」に属していたとする考えは穏当なものである

貞享元年(1684年)に北条郡、南条郡は阿野北、阿野南に改められた。阿野北郡には西庄郷、阿野南郡には府中郷が属しているから、改定前にも北条郡に西庄郷、南条郡に府中郷があったと考えられる。また、『三代物語』によると、鎌倉時代から江戸初期生駒藩の頃までは南条、北条に分かれていたから、その始まりとなる鎌倉時代の崇徳天皇社再建の頃に西庄の山林地、山麓周辺が開発され、天皇社の周辺に形成された「天王」村が郷の再編によって甲知郷から分かれて新たに西庄郷に属したのではないかと考えられる。
このように、開発や地勢発展の状況などから郷や郷の範囲は何度か変更されているのに、後に府中郷が甲知郷のことだと云われた時代に府中郷を構成するのが「府中村」だったことをもって上皇配流時の甲知郷を府中村と同一範囲だと見ていることが、和名抄に書かれた甲知郷の範囲の固定的で誤った理解に繋がっているようである。
従って、「甲知郷鼓岳の御堂」の所在地が後の時代の府中郷(府中村)内に限定されることにはならない。これを反面的に捉えれば、上皇配流当寺、城山に連なる金山の「天皇社」の地が甲知郷に属していたという説明には一定の可能性と納得性があり、「甲知郷鼓岳の御堂」が八十場の天皇社の場所にあったお住まいを指しているという見解が否定される根拠はない

「鼓岡」の自然状況
平家異本等が採用している上皇配流地「鼓岡」。古代から漢字には、対象事物を特定する機能があって、それごとに正確な意味と対象を持っている。「岡」の字は、小高い山を表すときに用いる字であって「鼓岡」の状況を表している。

   鼓岡(手前は開法寺池) 標高32.6m  地盤19mからの高さは13.6m
  
「鼓岳」自然状況
『白峯寺縁起』では上皇は「高遠が御堂」から「鼓岳の御堂」に遷られたとしている。「岳」は高く大きい山を表すときに用いる漢字である。甲知郷の城山(きやま)に連なる金山は「岳」が表す状況を満たしている。「明の宮」天皇社となった場所は「岳」の中に佇んでいる。

崇徳天皇社「明の宮」のある金山 標高280m 野澤井(18m)からの高さ262m

『白峯寺縁起』には、清少納言入道常宗(従三位清原良賢卿)がこれを作って寺に寄贈したことが記されている。この作者は、三代の天皇に仕えて儒典を教授した大学者である(脚注41)。常宗は京に在住していたが、『白峯寺縁起』の内容からすると白峯寺における旧記録や伝聞内容と、京で記録されたもの及び流布していた『保元物語』などの軍記物語からも一部取り入れて書き纏めたと思われる。

縁起のうち、讃岐配流に関わる「松山津に御下着有」から近習者遠江阿闍梨が菩提を弔ったところまでの記載は、地元讃岐や白峯寺からの旧記や情報に基づいたと思われる具体的な事実記録になっていることが伺える。そして、西行の歌に「たびたび鳴動」した、「小指をくひきらせ」、五部大乗経を「椎途の海に」、「大魔王」などは軍記物語から取り入れた構成になっている。

軍記物語等に記載されている地名については、御陵の場所はすべて「白峯」で一致しているが、上皇崩御の地又は最期のお住まいについては、保元諸本では鼓岡、志度、志戸、国府に、平家異本では志度、鼓岡に、『白峯寺縁起』では鼓岳、と異なっている。縁起は天皇に仕えた需典・漢文の教授が書いた書物であるから、「岳」と「岡」の意味の違いを十分に吟味して漢字の意味とその対象とを違えないよう讃岐に残る記録を基にして書かれたはずである。従って、当時すでに流布していた軍記物語とは違う表記の「岳」としたことには重要な意味と目的が込められていると見なければならない。

古くから、「岡」(おか)と「岳」(たけ)は意味の異なる別の字であって、敢えて「岳」として幽閉地の様子を示した『白峯寺縁起』の「鼓岳」こそ、正しい配流場所を指していると考えられる。それは、上皇幽閉場所が「岡」よりも高くて大きい山の森林地にあったことを伝えており、「崇徳天皇社」のある金山に幽閉されていたことを明らかにしている。

 (下記「鼓岡」は、「岡」の古字。「四」の下に「正」

「鼓岡」:『保元物語』(京都大学附属図書館所蔵)下 翻刻 164/181pのうち該当部分のみ切取り赤丸囲みをして改変加工  出典 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/ 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

「鼓岳」:『白峯寺縁起』(京都大学附属図書館所蔵) 9/22 pのうち該当部分のみ切取り赤丸囲みをして改変加工 (寛文10(1670)年書写本) 
出典 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/ 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
        
様々な歴史事実に照らし合わせると、上皇最期の配流地は「明の宮」崇徳天皇社の場所であると考えられるが、明治以降に作られた「通説」では平家異本等が記す「鼓岡」と同じ表記をする国府庁横の小山であるとしている。鼓岡説は、平家異本やそれを取り入れた江戸中期の讃岐で書かれた書物にも書いてあるが、地元伝説の検証と併せて、『白峯寺縁起』が「岳」としていることの分析も必要になる。
この違いについては、「岡」が正しくて「岳」は誤りとか、両者は同じか似たようなものだからどちらでも同じだろうというのは誤りで、「鼓岡」と「鼓岳」はその形状、険しさ、指し示す場所が違うために意図して使い分けている意味とその目的が理解されなければいけない。

第4節 「鼓岡」の由来と上皇とのかかわり

なぜ、国府庁横の小山が「鼓岡」と呼ばれるようになったのか、いつ頃から「鼓岡」と呼ばれているのか。名前の由来を示す信頼できる書物はないようなので先ず、一般的に土地の名前がどのように付けられるのか確認しておくことにする。
 
自然地形の名前の付け方には、①土地や山の形から名付けられる、②その土地の位置や役割、利用形態から名付けられる、③その土地の歴史、出来事、伝説・伝承から名付けられる、④地位の高い人が名付ける、⑤人の名前や宗教的な言葉から転用して名付けられる、などから説明ができる。
「鼓岡」は、「鼓」と「岡」が重なった名前である。先ず、「岡」は言うまでもなくその地形から採用されている。「鼓」は、鼓という物又は音にまつわる出来事があったことから採用されたと考えられる。そこで「鼓」にまつわる出来事と名前が付いた経緯を推測していきたい。

明治以降の通説が上皇配流(幽閉)の場所だとしている「鼓岡」は、主に平家異本とこれを取り入れた『綾北問尋鈔』などの書物の文字と国府庁横の小山に共通する名前である。
そこで、「鼓岡」行在所説が根拠としている書物の「鼓岡」と小山の名前の一致経緯について考察しなければならないが、その方法は、この小山の名前がどのようにして付けられ、どのようにして軍記物語が書かれた京に伝わったかを、事実と事実の間をつなぐ推論を加えて行う方法によるしかない。小山の命名に至る理由や経緯を考察することが配流地検証に繋がると考えるからである。

平家異本等の「鼓岡」は国府庁横の「鼓岡」を指して書かれているので、鼓が日本に伝わったとされる奈良時代(8C)から12世紀中頃の崇徳上皇崩御までの間の鼓に関する特別な出来事からこの名前が付けられたことがわかる。また、江戸初期作成の『白峯山古図 』(脚注42)ではこの場所に「鼓岡」と表示しているから、崇徳上皇の御霊を祀る「天皇社」ではないものの、上皇と何らかの間接的な関りがある可能性を示している。このことを念頭に置きつつ、先ず、事実関係を確認する。

<事実関係>
① 平家異本と一部の保元物語には配流地「鼓岡」と書かれている。
② 「鼓岡」は、前方後円墳跡または古代讃岐王の子孫が住んだ跡であるとか、鼓の音がする滝から命名されたという話があるが、上皇配流以前に「鼓岡」と呼ばれていた事実記録や信頼すべき証拠はない(脚注43)。
③ 江戸初期に描かれた『白峯山古図』には、この場所に「鼓岡」の文字と小さな建物が描かれているが「天皇社」とは書かれていない。これは、上皇と何かしら間接的なゆかりのある可能性を伝えている。
西行は女房兵衛佐局へ歌を贈り、兵衛佐局が西行との間で上皇のお気持ちを汲まれた歌のやり取りをしている。(上皇の歌を兵衛佐局の歌とした)
上皇との関係を偲ばせる品物について、生駒高俊公が寛永8年(1631年)に白峯寺の真宝目録を作成させた記録が残っている。その『白峯寺相伝真宝之目録』中には、上皇が愛用され明治直前に御霊の依り代として京都に還る「笙」はあるが、「鼓」は含まれていない(脚注44)。
⑥ 鼓は、当時身分の高い人が使い、その音を知っている。 
⑦ 兵衛佐局は上皇崩御の後、都にお帰りになった(脚注45)。
⑧ 『今鏡』の「皇嘉門院よりも仁和寺の宮よりもしのびたる御とぶらひなどばかりやありけん」からすると兵衛佐局は熱心に上皇を弔い讃岐配所のことはお話しになられていない様子である(水原一氏『崇徳院説話の考察』中にも、「配所の事は后や皇子などに伝わる筋はあったろうけれども、保元物語にも平家物語にもその形跡が反映しているとは言えない」としている)。

これらの事実関係は、次の背景を伴っていると考えられる。

<事実関係から推し量った鼓を巡る出来事>
「鼓」は上皇との直接的な関係ではなく、この岡の名前に繋がったのは兵衛佐局が奏でていた鼓であったが、京に持ち帰られたのではないかと思われる(上皇御愛用の御持仏、鏡、木枕も持ち帰られた。『吉記』)。上記④からは、西行と兵衛佐局を経由した上皇との内密の歌のやり取りから、兵衛佐局と上皇は離れてお住まいになっていた可能性があり、そうだとすれば上皇が幽閉されていた期間に行われたやり取りと考えられる。(本サイト内「ブログ」の「崇徳院御製から解く配流場所」参照)

これまでに見た事実関係とその背景を踏まえ、「鼓岡」の名が付くまでの経緯を次のように推測する。
1.讃岐へ同行した兵衛佐局は、綾高遠の屋敷に仮住いの後、御供所の真光寺内「内裏」に上皇とともに住まわれた。お二人は歌を愛されよくお詠みになったほか、上皇は「笙」を、兵衛佐局は「鼓」を奏でられた。
2.京からの命により上皇が「鼓岳の御堂」へ遷された際には、厳しく監視す るため上皇お一人が幽閉された。「罪人」でない兵衛佐局は上皇と住まいを分かち、国府庁横の小山にある屋敷に入られた。
3.上皇は、文のやり取りを含めて外部との接触は禁止されたが、国庁目代は、朝廷の命令とは別に、独自に特別な配慮を行ったので兵衛佐局が時々上皇の元を訪れることや、監視付きながら幽閉所近くの外出が許されたこともあった。
4.兵衛佐局は住まいとなった小山の屋敷で、時折鼓を奏でた。その音を聴いた国府庁の役人や民はその小山を「鼓岡」と呼ぶようになり、国府庁でも鼓を奏でるようになった。
5.上皇崩御の後、兵衛佐局は京に帰られた。
6.兵衛佐局が住まわれ、上皇が亡くなられた「柳田」の場所が見えるこの小山は民によって静かに敬意が払われ、「鼓岡」の名が長く引き継がれていった。
7.兵衛佐局は京にお帰りになっても、上皇の讃岐における御様子はほとんど周囲に話さず、ひたすら菩提を厚く弔った。
8.兵衛佐局は、配所の出来事についてはお話しにならなかったが、自身のお住いについては、持ち帰った鼓のことと共に自身は国府庁辺りの小山にお住まいだったことは話された。
9.京で、保元の乱に関する物語が作られようとするとき、上皇崩御の場所は国府庁近くだと伝わっていたから、兵衛佐局が住まわれた「鼓岡」が上皇お住まいの場所として推測されることになった。
10.京で作られた物語に上皇は「鼓岡」に遷されたとするものが現れて、後の書物にも「鼓岡」が引用されて広まった。
こうして、「鼓岡」の名前は、上皇配流をきっかけに讃岐で名付けられ京に伝わって軍記物語に使われた。

上皇配流以降の事実関係をつないで、経緯として推測したのが上記である。
このように考えれば「鼓岡」は

 『 崇徳上皇ゆかりの地 女房兵衛佐局 鼓の宮跡 』 となる(脚注46)。

従来は「鼓岡」の名付けの経緯と軍記物語との関係が考察されていなかったために、平家異本が記した国府庁横の「鼓岡」を上皇配流地とするも『白峯寺縁起』の「鼓岳」と区別を付けられていなかったが、上記の考察によって「鼓岡」と「鼓岳」の文字上の意味の違いからの理解だけでなく、「鼓岡」の歴史経過を推測できたのではないかと思う。

第5節 『白峯寺縁起』が「岳」と記した経緯

崇徳上皇最期のお住まい(幽閉場所)を表して『白峯寺縁起』が意図的に「鼓岳」と記したと考えられるポイントは、「岳」の示す意味とその場所である。先に検証したように、使う漢字が違うということは指し示す場所が「岡」の様子とは明らかに違うことを示している。これが『白峯寺縁起』の明確な意図でではないかと考えられる。

なぜ平家異本と『白峯寺縁起』が示す配流場所が違うのか。それは平家異本の配流地「鼓岡」は上皇崩御地と近くの屋敷地を繋いで考え出されたものであって、縁起の「鼓岳」は白峯寺の住職、社人が知って言い伝えてきたものが反映されたからではないかと考えられる。
『白峯寺縁起』は、白峯寺が1382年に焼失したため1406年に旧来の記録や伝聞などから縁起を改めて書きまとめたとされているが、この時すでに軍記物語が流布しており、その中の配流先が白峯寺の伝承とは違った「鼓岡」や「志度」になっていることは強く意識されたはずである

つまり、『保元物語』などの読み物が京では既に多勢であったので、縁起の作者は、白峯寺が伝えてきた上皇幽閉場所との齟齬を埋めるために、上皇が幽閉されていた山は高く大きく、その山林中の地名もない場所に幽閉されていたことを示す必要から「岳」を使って、流布していた「鼓」の字と繋ぎ合わせたのではないかと推測される。つまり、「岳」は上皇配流場所の様子を表現するために意図して使われていると考える。 

今は「金山」と呼ばれている崇徳天皇社を麓に抱く山が、「鼓岳」と呼ばれた記録が他に見当たらないのは、崇徳上皇幽閉に関連した「鼓岡」に対する呼び名として特別に使われた経緯があったからではないかと考えられる。そうでなければ軍記物語の「岡」と全く意味の違う字を使う必要も動機も見当たらないからである。平家異本の「鼓岡」と『白峯寺縁起』の「鼓岳」が同じ意味で共存しているように見えるのは両者を区別できていないことからくる誤りであって、むしろこの両者には上皇行在所場所について見解が相違していると捉える必要がある。

『白峯山古図』を見ると・・・

『白峯山古図』の一部 「四国八十八カ所霊場第八十一番白峯寺調査報告書第二分冊」260pの部分写真331の該当部分を拡大 (「鼓岡」の描画)(平成25年3月31日香川県教育委員会発行)
原本は白峯寺所蔵原本、彩色。

江戸初期に描かれたとされる『白峯山古図』 には、白峯寺の諸堂、勅額門、御本社(頓証寺殿)、御陵など白峰山とその周辺が描かれ、明治以降の通説が上皇最期のお住まいとしている綾川を直下に見下ろす西岸の岡を示して、「鼓岡」と記されている(脚注47)。
この絵図は「火災で焼失する以前の姿を復元的に描いた図と見られる」(脚注48)とされているが、縁起が御遷幸先としている「鼓岳」ではなく軍記物語と同じ「鼓岡」と書かれている前述(第3節)のとおり、「岳」と「岡」が違う場所を示して特定する文字だから『白峯山古図』の「鼓岡」の場所と『白峯寺縁起』の遷幸先「鼓岳」とは違う場所だということになる。『白峯山古図』の「鼓岡」の場所とは異なる場所に上皇は遷られたことを明らかにしているのが白峯寺所蔵の二つの資料である、というのが本来の意味になる。

ところが、『白峯山古図』は江戸初期に相当の社会的立場を背景にして描かれて白峯寺に寄贈されたと思われるが制作者、制作場所などは明らかでないため、この古図の「鼓岡」は軍記物語の影響を受けて描かれた可能性もある。この仮定の下では、古図の「鼓岡」と軍記物語が書く「鼓岡」は同じということになる。しかし、、軍記物語の讃岐配流地名は「白峯」を除いて特定地名としての信頼性が低いことは本書(ブログ投稿記事を含む)を通じて明らかにしている。
従って、軍記物語の「鼓岡」と同じ名前が古図に描かれているとしても、それが上皇行在所の根拠になり得ないということである。
この結果、『白峯寺縁起』とは表記が異なる意味や、他の資料からも歴史事実を検証した結果を踏まえなければ、軍記物語と『白峯山古図』の「鼓岡」が同じということだけから行在所の場所が特定されたということにはならない。

第6節  高松藩が国府庁横「鼓岡」を崇敬しなかった理由

上皇最期の配流場所を明治以降誤らせた原因のひとつは、平家異本など軍記読み物の「鼓岡」と国府庁横の「鼓岡」の名が同じだったことである。しかし、同じ名前であっても江戸末期までは、軍記物語に書いていても、高松藩が決して鼓岡を顕彰しなかったように「鼓岡」は上皇行在所ではないと讃岐では認識されていたから、ここが「天皇社」になることはなかった。
ところが、明治になってから、上皇が遷され最期のお住まいになった場所として平家異本や『全讃史』等の鼓岡説が地元で採用されて顕彰運動へと展開した。
前述のように、『白峯寺縁起』では「鼓岳」と示しているのに、この時点でも「岡」と「岳」の違いが検証されなかったのである。

高松藩は、明治以降の通説では上皇が「松山の一宇の堂」から遷った配流地としている「鼓岡」には石碑を建てるなどの崇敬行為をしていない。上皇崩御の前、5年余の長きに亘ってお住まいになったとする場所ならば、「一宇の堂」よりも篤く崇敬、慰霊すべき重要な場所のはずである。これはなぜなのか、「鼓岡」を崇敬しなかった理由の説明が必要である。
この「なぜ」への答えは、「雲井御所」碑建立時に現れている考え方から明らかにすることができる。
高松藩主は代々、崇徳天皇社の場所が上皇行在所上皇行在所であることを確信して崇敬していたが、そこに遷られる前のお住まいの場所が不明になっていたため、上皇仮住まいの綾高遠屋敷の場所だとを定めて「雲井ノ御所ノ碑」を建てた。

「明の宮」天皇社はすでに祀られていたが、『全讃史』が「黒木の御殿」とする府中鼓岡は行在所ではないと知っていたからその必要はなかった。もし「鼓岡」を上皇お住まいの場所と考えていたなら、どんなに遅くともこの時までには「鼓岡」にも石碑や社を建立するなど上皇御霊を祀る事業をしていたはずである。しかし「鼓岡」を何ひとつ崇敬していないのは、歴史事実の証拠がないことから配流場所ではないと知っていたことが理由だということになる。
高松藩が「雲井ノ御所ノ碑」を建てたときの認識及び状況は、
①上皇は当初、綾高遠屋敷に住まわれた、
②長命寺は配流当時、存在していなかった、
③御供所真光寺の伝説は、真光寺が他国(丸亀藩)へ移転し、御供所が40年間無住地となり、この地の支配も生駒家から替わった影響で受け継がれなかった、
④上皇最期のお住まいは八十場の崇徳天皇社の場所であると認識していた、
であった。

こうして、藩と行在所地元によって八十場の天皇社が上皇お住いの場所だったことは歴史事実として語り継がれていった。 また、真光寺にまつわる歴史は丸亀に移った真光寺並びに侍人達とその子孫に継承されていった 。

第7節 「院、おはしましけん御跡」

西行は、崇徳上皇の配所跡と白峯御陵を訪ねている。最期のお住いとなった配所跡を訪れたとき、そこには御所の建物は跡形もなかった、つまり幽閉場所の建物は取り除かれていた。西行のこの訪問と歌に詠んだ状況は真実と考えられている。また、「上皇崩御の後、二条天皇の近侍であった阿闍梨章実がここに来て小祠を建て御霊を奉祀した。以降一般の崇敬厚く」祀られた。その場所が後に「崇徳天皇社」となり、現在は白峰宮になっている。
西行の歌にある「松山の津と申す所に院おはしましけん御跡」が表す「松山」の範囲は、松山郷や林田郷に限定されない、松山の津から見渡せる綾川両岸の海に近い処だと捉えられるから(第二章第1節参照)、八十場の崇徳天皇社の地は港から綾川の向こうの延長線上に見え、当時の海岸線から二、三百メートルにある金山の麓だから「松山」の認識に含まれる。

上皇崩御時のお住まいが「かたもなかりければ」となっているのを「綾川の氾濫で流されたから」とする解説があるが、この解説は崩御前の6年間住まわれたのが「長命寺」だという考えに基づくものである。しかし、干潟地に建つ「巨刹・長命寺」 は成立しない説であること、『白峯寺縁起』が「鼓岳」としていることからも最期のお住まいは「長命寺」ではない。西行がお住いの跡を訪れたのは上皇崩御の3~4年後と考えられており、その時点ですでに洪水で流されていたという主張になってしまうのが上記の解説である。『綾北問尋鈔』『全讃史』とも、長命寺が洪水で流されたのは万治(1658~1661)の頃としているので、そこからも上記の説は導けない

江戸中期以降に讃岐で作られた『三代物語』(『翁嫗夜話』『讃州府志』の原本とされる。一部改編あり)、『綾北問尋鈔』、『全讃史』は、人物、神祠、寺社、名所などの伝承話や謂れ等を記しているが、上皇説話については軍記物語から取り入れた話をこれらに混在させて構成している。保元期から600年以上経過しているから事実でない話を含むのはやむを得ないことであるが、現代よりも保元期に近いことが必ずしも事実に近い書き物になっているということではなく、むしろ、これらが書かれた時代は、庶民の間では軍記物語が全て事実だと受け止められたと思われるほど、現代よりも軍記物語の影響を強く受けていたことを考慮しなければいけない。
軍記物語の「鼓岡」行在所説は、裏付けとなる歴史事実はなくとも軍記物語の浸透に連れて地元でも少なからず広がっていたと考えられ、江戸中期の地元歴史家によって書かれた『三代物語』に軍記物語の話が取り入れられて『綾北問尋鈔』『全讃史』にも繋がっていった状況からもそのように受け止められる。

京において上皇配流場所が明確でないのは、貴族社会にも情報が断片的に僅かしか伝わらなかったことを示している。当時、京の貴族社会へ伝わったのは、海を渡って直島に到着したこと、讃岐の「松山」で高遠なる者の屋敷に入られたこと、海士庄の御所で住まわれたこと、海士庄の御所で住まわれたこと、「しで」(後に「しど」に音転換)の地で崩御されたこと、白峯で荼毘に付されたこと、配所を訪れた時の様子を京に持ち帰った人の情報、この程度であって、未開地にあって地名もなかった幽閉地の詳しい場所は殆ど伝わらなかった。
これらから考えると、真光寺屋敷造営後に侍人達が上皇を慕って御供所に来て住まいを為すことが出来たのは、「讃岐のさとの海士庄」とは平山(御供所)のことであると渡航前から知っていたから、思える。一方、朝廷側はその後の詳細な事実経過を承知していたが、その情報は出来るだけ秘密にした。

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