配流地「鼓岡」と「鼓岳」 (保元物語が誤って伝えた「鼓岡」)

第七章

第1節 真光寺屋敷から「國府甲知郷鼓岳」への御遷幸

崇徳上皇がお住まいを遷すことは京からの命令に依るはずだから、讃岐内の御遷幸先は配流当初に命じられていたか、後に朝廷が命じる動機が新たに生じた時、ということになる。配流当初に朝廷が命じた「海士庄」の「内裏」から「鼓岳」(『白峯寺縁起』)への御遷幸は、平治の乱に至る前の対立関係の激化か、保元の乱により伊豆に配流されていた源為朝勢力の反抗の動きが動機になったのか、或いは可能性は極めて低いが真光寺屋敷での生活に束縛が必要とされたのかも知れない。いずれにしろ上皇の御身が何らかの「反乱」に利用されないよう「三年を送り給ふ」た「内裏」真光寺屋敷から急遽、上皇を厳しく幽閉監視できる場所へ遷したと考えられる。後に作成された『白峯寺縁起』ではこの事実経過を順に追って、「鼓岳」に遷られる前のお住まいを「在廳野太夫高遠が御堂」と記し、その後の御遷幸先を「國府甲知郷鼓岳の御堂」と記している。『白峯寺縁起』が記す「鼓岳」は、配流当初に造営を命じた海士庄の場所を示すものではないのだから、この御遷幸は配流当初には予定されていなかったことが分かる。

保元の乱は1156年、平治の乱は1160年(保元の乱の3年半後)であるが、上皇が「鼓岳」に遷され幽閉されたのは讃岐配流から3年ほど経過した頃と考えると、上皇最後の配流地での期間は、実質5年数か月、足掛け6年になるので古書に記す期間と一致する。従って、『白峯寺縁起』の「高遠が御堂にをきたてまつりて三ヵ年を送り給う」の3年間には、高遠屋敷での仮住い期間と高遠が造営に関与したと思われる「内裏」(真光寺屋敷)でのお住まい期間が含まれていると考えられ、このうち数か月間が「内裏」造営に充てられた期間になり、「鼓岡」御遷幸説では質素なお住まいの造営に3年掛かったことになるのと比べると納得性が高い。
古書には上皇の御身を遷した理由を書いていないが、『保元物語』には「この反乱(平治の乱)は讃岐院がまだご在世の間に、直接ご怨念が引き起こしたものと、人は申したものである」として、上皇の影響や利用を恐れたことが厳しい幽閉と監視に繋がった可能性を示している。

第2節 幽閉場所の様子

『保元物語』(半井本)では、上皇の讃岐御遷幸の際に後白河天皇が「讃岐院の讃岐での御所を国司が引き受けて作るように。場所は讃岐国の陸地の中ではなくて直島という所である」と、以下その場所の様子を、「陸から二町、住人少なく、そこには周囲一町に土塀を築いて、門をひきつを建てて」とあまりにも詳しく指示したように書いている(脚注39)。これは、当時の備前国直島(第九章参照)を讃岐国に属していると誤っているうえに、見たこともない島の様子や幽閉場所の詳細まで天皇が話すとは思えず、後年『保元物語』の作者が得た配流当初に造営された「内裏」や上皇崩御の時まで幽閉されていた場所の情報を合せてここで書いているのだと理解される。また、諸本に記す配所の様子「田畑もなければ土民の家とてなし一町の四分の一より狭く、小山挟みたる懐に築土を築き中に屋一つ」、「海づら近き処なれば、海洋煙波の眺望にも慰ませ給ふべきに」、「屈強な武士が宮門を守り」は、この状況を伝え聞いた内容をそのまま記せばよい箇所であるから誇張や事実の変更はないと見られる。また、蓮如が讃岐の配所を訪ねたときの様子として、「築垣を高くめぐらして総門の奥にひっそりと建っている。総門にはいかめしい警固の武士を添えて外からは固く鎖をさしかけ、ただ供御(お食事)を差し上げるほかは固く門を閉ざして開くこともない」と幽閉場所の様子が記されているが、これらは『白峯寺縁起』が「鼓岳」と記す、八十場の幽閉場所における状況を表していると思われる。なぜなら、配所の様子(幽閉され、衛士が監視)が「衛士坊の坂」伝説のある八十場の「崇徳天皇社」と同じであり、僻地における牢舎と衛士坊の両方の存在が地元八十場に数百年伝わる内容と状況が一致しているほか、「海づら近き処なれば、海洋煙波の眺望にも慰め給うべきに、加様に閉籠せられ」(海が近い処なので海の眺望も慰めになるはずなのに、このように閉じ込められては)、「武士が宮門を守」るという、周囲の環境や幽閉と衛士の監視のすべてを満たすのは八十場の「崇徳天皇社」の場所しか該当しない。その場所こそ、白峯寺縁起が「鼓岳」と記す、古書が伝えている幽閉場所であると辿ることができる。

 〇距離・眺望関係
地理状況について、「崇徳天皇社」から当時の海岸まで3~400m程。天皇社の地は北斜面から海を斜め下に眺められる地形になっている。国府庁横の「鼓岡」は当時の海岸から4km以上離れており海の香りや眺望はない。なお、港からの距離は、「松山の津」推定地からは「崇徳天皇社」へ2.5km、国府庁までは5km。御供所からは「崇徳天皇社」までは6~7km、国府庁までは10~11kmであるが、これらを古書との間で検証できる記載はない。

 〇周辺環境関係
「田畑もなければ土民の家とてなし」という幽閉場所の周辺環境と「鼓岡」の場所を比較すると、国府庁勤務の多くの役人や住民がすぐ近くに住み、人々の声や国府の行事の様子も伝わり、府庁内を見下ろし動静を伺い知ることもできる位置関係にあることからすると「鼓岡」の様子ではない。
「鼓岡」幽閉説では、国府庁に近いから監視し易いからという理由を説明しているものの、現実的見解はそれとは反対で、上皇と反乱計画者との接触を断つという幽閉の目的を果たすことが難しい環境である。その目的を達するには古書が記すように人の往来から離れた場所に閉じ込め、人が近づくのを監視、察知できる場所がふさわしいと考えて実行されたと見るのが妥当である。

第3節 「岡」と「岳」の意味

平家異本を中心に上皇がお遷りになったと記す「鼓岡」に対して、『白峯寺縁起』には「其後國府甲知郷鼓岳の御堂にうつしたてまつり」とある。そこで「甲知郷」と「鼓岳」の関係について検証する。

 『白峯寺縁起』に記す遷幸先「國府甲知郷鼓岳の御堂」は、「国府庁があるのと同じ甲知郷内にある」こと、つまり国府庁は甲知郷というところにあって、その同じ郷内にある「鼓岳」と説明していると理解される。国府庁横にあると説明するなら「鼓岳」の文字や「甲知郷」という説明を加えるまでもないから、「國府甲知郷鼓岳」が国府庁横にある「鼓岡」のことだという解釈に直ちには繫がらない。また、その後の「國府の御所」は、説明の繰り返しを避けるため「甲知郷」が省略されていて、国府庁のすぐ横にあるという意味ではない。
八十場の天皇社の地が甲知郷に属するかどうかについて、『和名類聚抄』によると平安時代、讃岐の阿野郡は新居、山田、羽床、甲知、鴨部、氏部、山本、林田、松山の9郷である。後に八十場の崇徳天皇社となる所は当時未開地であり、城山に連なる地形に含まれるから国府と同じ郷(甲知郷)内であったと三木豊樹氏は指摘している (脚注40)。郷の変遷や範囲は必ずしも明確ではないが、「崇徳天皇社」の地は山本、林田等の地勢とは異なるから、城山に連なる「甲知郷」に属していたとする考えは穏当なものである。貞享元年(1684年)に北条郡、南条郡は阿野北、阿野南に改められた。阿野北郡には西庄郷、阿野南郡には府中郷が属しているから、改定前にも北条郡に西庄郷、南条郡に府中郷があったと考えられる。また、『三代物語』によると、鎌倉時代から江戸初期生駒藩の頃までは南条、北条に分かれていたから、その始まりとなる鎌倉時代の崇徳天皇社再建の頃に西庄の山林地、山麓周辺が開発され、天皇社の周辺に形成された「天王」村が郷の再編によって甲知郷から分かれて新たに西庄郷に属したのではないかと考えられる。いずれにしろ、開発や地勢発展の状況などから郷や郷の範囲は何度か変更されているのに、後に府中郷が甲知郷のことだとされた時代に府中郷を構成するのが「府中村」だったことをもって上皇配流時の甲知郷を府中村の範囲と同一視していることが、和名抄に書かれた甲知郷の範囲の誤った理解に繋がっているようである。従って、「甲知郷鼓岳の御堂」の所在地が後の時代の府中郷(府中村)内に限定されるということにはならないのである。これを反面的に捉えれば、上皇配流当寺、城山に連なる金山の「天皇社」の地が甲知郷に属していたという説明には一定の可能性と納得性があり、「甲知郷鼓岳の御堂」が八十場の天皇社の場所にあったお住まいを指しているという見解が否定される根拠はないと言える。

「鼓岡」が表す自然状況
平家異本等が採用している上皇配流地「鼓岡」。古代から漢字には、対象事物を特定する機能がある。字はそれごとに正確な意味と対象を持っている。「岡」の字は、小高い山を表すときに用いる字であって「鼓岡」の状況を表している。

   鼓岡(手前は開法寺池) 標高32m
  
「鼓岳」が表す自然状況
『白峯寺縁起』では「高遠が御堂」から「鼓岳」へ遷られたとしている。「岳」は高く大きい山を表すときに用いる漢字である。甲知郷の城山(きやま)に連なる金山は「岳」が表す状況を満たしている。「明の宮」崇徳天皇社となった場所は「岳」中に佇んでいる。

崇徳天皇社「明の宮」のある金山(かなやま) 標高280m 

『白峯寺縁起』には、清少納言入道常宗(従三位清原良賢卿)がこれを作って寺に寄贈したことが記されている。この作者は、三代の天皇に仕えて儒典を教授した大学者である(脚注41)。常宗は京に在住していたが、『白峯寺縁起』の内容からすると白峯寺における旧記録や伝聞内容と、京で記録されたもの及び流布していた『保元物語』などの軍記物語からも一部取り入れて書き纏めたと思われる。
縁起のうち、讃岐配流に関わる「松山津に御下着有」から近習者遠江阿闍梨が菩提を弔ったところまでの記載は、地元讃岐や白峯寺からの旧記や情報に基づいたと思われる具体的な事実記録になっていることが伺える。そして、西行の歌に「たびたび鳴動」した、「小指をくひきらせ」、五部大乗経を「椎途の海に」、「大魔王」などは軍記物語から取り入れた構成になっている。軍記物語等に記載されている地名については、御陵の場所はすべて「白峯」で一致しているが、上皇崩御の地又は最後のお住まいについては、保元諸本では鼓岡、志度、国府に、平家異本では志度、鼓岡に、『白峯寺縁起』では「鼓岳」と異なっている。縁起は天皇に仕えた需典・漢文の教授が書いた書物であるから、「岳」と「岡」の意味の違いを十分に吟味して漢字の意味とその対象とを違えないよう讃岐に残る記録を基にして書かれたはずである。従って、当時すでに流布していた軍記物語とは違う表記の鼓「岳」としたことには重要な意味と目的が込められていると見ることができる。

古来から、「岡」(おか)と「岳」(たけ)は意味の異なる別の字であって、上皇幽閉地の様子を反映している『白峯寺縁起』の「鼓岳」こそ、正しい配流場所を指していると考えられるのである。それは、上皇幽閉場所が高く大きい山の森林中にあったことを明確に伝えており、「崇徳天皇社」のある金山に幽閉されていたことを示している。

 (下記「鼓岡」は、「岡」の古字。「四」の下に「正」

「鼓岡」:『保元物語』(京都大学附属図書館所蔵)下 翻刻 164/181pのうち該当部分のみ切取り赤丸囲みをして改変加工  出典 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/ 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

「鼓岳」:『白峯寺縁起』(京都大学附属図書館所蔵) 9/22 pのうち該当部分のみ切取り赤丸囲みをして改変加工 (寛文10(1670)年書写本) 
出典 https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/ 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
        
様々な歴史事実に照らし合わせると、上皇最後の配流地は「明の宮」崇徳天皇社の場所であると考えられるが、現在の通説では平家異本等が記す「鼓岡」と同じ表記をする国府庁横の小山であるとしている。「鼓岡」説は、平家異本やそれを取り入れた江戸中期の讃岐で書かれた書物にも書いてあるが、現地や地元伝説の検証と併せて、『白峯寺縁起』が「岳」としていることの検証も必要であって、「岡」が正しくて「岳」は誤りとか、両者は似たようなものではないかということではないのである。

第4節 「鼓岡」の由来と上皇とのかかわり

なぜ、国府庁横の小山が「鼓岡」と呼ばれるようになったのか、いつ頃から「鼓岡」と呼ばれているのか。名前の由来を示す信頼できる書物はないようである。そこで先ず、一般的に土地の名前がどのように付けられるのか確認しておくことにする。 
自然地形の名前の付け方には、①土地や山の形から名付けられる、②その土地の位置や役割、利用形態から名付けられる、③その土地で起きた歴史や事実の伝承から名付けられる、④地位の高い人が名付ける、⑤人の名前や宗教的な言葉から転用して名付けられる、などから説明ができる。
「鼓岡」は、「鼓」と「岡」が重なった名前である。先ず、「岡」は言うまでもなくその地形から採用されている。「鼓」は、鼓という物又は音にまつわる出来事があったことから採用されたと考えられる。そこで「鼓」にまつわる出来事と名前が付いた経緯を検討、推論していきたい。

現在の通説が上皇配流(幽閉)の場所だとしている「鼓岡」は、主に平家異本とこれを取り入れた『綾北問尋鈔』などの書物の文字と国府庁横の小山に共通する名前である。
そこで、「鼓岡」行在所説が根拠としている書物の「鼓岡」と小山の名前の一致経緯について考察しなければならない。その方法は、この小山の名前がどのようにして付けられ、どのようにして軍記物語が書かれた京に伝わったかを、事実と事実の間を埋める推論を加えて行う方法によるしかない。小山の命名に至る理由や経緯を考察することが配流地検証に繋がると考えるからである。

平家異本等の「鼓岡」は国府庁横の「鼓岡」のことを指して書かれていると考えられるので、鼓が日本に伝わった奈良時代以降13世紀中頃までの鼓に関する出来事からこの名前が付けられたことがわかる。また、江戸初期作成の『白峯山古図 』(脚注42)ではこの場所を「鼓岡」と表示しているから、崇徳上皇の御霊を祀る「天皇社」ではないものの、上皇と何らかの関りのある場所であることを示している。このことを念頭に置きつつ、この推論に当たって考慮した事実関係は次のとおりである。

① 平家異本と一部の保元物語には配流地「鼓岡」と書かれている。
② 「鼓岡」は、前方後円墳跡または古代讃岐王の子孫が住んだ跡であるとか、鼓の音がする滝から命名されたという伝説があるが、上皇配流以前に「鼓岡」と呼ばれていた事実記録や信頼すべき証拠はない(脚注43)。
③ 江戸初期に描かれた『白峯山古図』には、この場所に「鼓岡」の文字と小さな建物が描かれているが「天皇社」とは書かれていない。これは、上皇と何かしらのゆかりのある場所であることを伝えている。
④ 西行は女房兵衛佐局へ歌を贈り、兵衛佐局が西行との間で上皇のお気持ちを汲まれた歌のやり取りをしている。
⑤ 上皇との関係を偲ばせる品物について、生駒高俊公が寛永8年(1631年)に白峯寺の真宝目録を作成させた記録が残っている。その『白峯寺相伝真宝之目録』中には、上皇が愛用され明治直前に御霊の依り代として京都に還る「笙」はあるが、「鼓」は含まれていない(脚注44)。
⑥ 鼓は、当時身分の高い人が使い、その音を知っているものである。 
⑦ 兵衛佐局は上皇崩御の後、都にお帰りになった(脚注45)。
⑧ 『今鏡』の「皇嘉門院よりも仁和寺の宮よりもしのびたる御とぶらひなどばかりやありけん」からすると兵衛佐局は熱心に上皇を弔い讃岐配所のことはお話 になられていない様子である(水原一氏『崇徳院説話の考察』中に、「配所の事は后や皇子などに伝わる筋はあったろうけれども、保元物語にも平家物語にもその形跡が反映しているとは言えない」としている)。

これらの事実関係は、次の背景を伴っていると考えられる。
上記①~③、⑤~⑧からは、上皇とゆかりのある「鼓岡」とは、女房兵衛佐局との関係を示唆している。「鼓」は上皇との直接的な関係ではなく、この岡の名前に繋がったのは兵衛佐局が奏でていた鼓であったが、京に持ち帰られたと思われる(上皇御愛用の御持仏、鏡、木枕も持ち帰られた。『吉記』)。④からは、西行と兵衛佐局の直接、数次の歌のやり取りから、兵衛佐局と上皇は離れてお住まいになっていた可能性があり、そうだとすれば上皇が幽閉されていた期間に行われたやり取りと考えられる。(本サイト内「ブログ」の「崇徳院御製から解く配流場所」参照)

以上、これまでに見た事実関係とその背景を踏まえ、「鼓岡」の名が付くまでの経緯を次のように推論する。
1. 讃岐へ同行した兵衛佐局は、綾高遠の屋敷に仮住いの後、御供所の真光寺内「内裏」に上皇とともに住まわれた。お二人は歌を愛されよくお詠みになったほか、上皇は「笙」を、兵衛佐局は「鼓」を奏でられた。
2.京からの命により上皇が「鼓岳の御堂」へ遷された際には、厳しく監視す るため上皇お一人が幽閉された。「罪人」でない兵衛佐局は上皇と住まいを分かち、国府庁横の小山にある有力者屋敷の住まいに入られた。
3.上皇は、文のやり取りを禁止された。国庁目代は、朝廷の命令とは別に、独自に特別な配慮を行ったので兵衛佐局が時々上皇の元を訪れることや、監視付きながら近場の外出が許されたこともあった。
4.兵衛佐局は、上皇幽閉の間、時折鼓を奏でた。その音を聴いた国府庁の役人や民はこの小山を「鼓岡」と呼ぶようになった。
5.上皇崩御の後、兵衛佐局は京にお帰りになられた。
6.兵衛佐局が住まわれ、上皇が亡くなられた「柳田」の場所が見えるこの小山は、民によって静かに敬意が払われた。
7.兵衛佐局は京にお帰りになっても、上皇の讃岐における御様子はほとんど周囲に話さず、ひたすら菩提を厚く弔った。
8. 兵衛佐局は、配所の出来事についてはお話しにならなかったが、自身のお住いについては、持ち帰った鼓のことと共に国府庁辺りの小山にお住まいだったことは話された。
9.京で、保元の乱に関する物語が作られようとするとき、上皇崩御の場所は国府庁近くの「しど」と伝わっていたから「しど」を崩御地や配流地としたり、兵衛佐局が住まわれた崩御地付近の「鼓岡」が上皇お住まいの場所として推測され物語に取り入れられた。
10. こうして、京で作られた物語に「鼓岡」に遷されたとするものが現れ、後に書かれた書物にも「鼓岡」が引用されて広まった。

「鼓岡」の名前は、上皇配流の出来事をきっかけに讃岐で名付けられ京に伝わって軍記物語に使われた。こうして、国府庁横の「鼓岡」を配流先とする読み物が流布していった。

上皇配流以降の事実関係を繋ぎ、経緯としたのが上記の推論である。軍記物語における「鼓岡」はこうして認知されたと考えられ、このような経過がなければ上皇崩御地に近いとは言え「鼓岡」の名が都に伝わることはなかったと考えられる。 とすれば、「鼓岡」は

 『 崇徳上皇ゆかりの地 女房兵衛佐局 鼓の宮跡 』 となる(脚注46)。

従来は「鼓岡」の名付けの経緯と保元の乱を描いた軍記物語との関係が推測されていなかったために、平家異本が記した国府庁横の「鼓岡」を上皇配流地として、『白峯寺縁起』の「鼓岳」と区別を付けられていなかったが、上記の推論によって「鼓岡」と「鼓岳」の文字上の意味の違いによる理解だけでなく、崩御地からの推測に過ぎず歴史事実が見当たらない「鼓岡」は配流地ではないという説明が可能になると考える。

第5節 『白峯寺縁起』が「岳」と記した経緯

崇徳上皇の最後のお住まい(幽閉場所)を表して『白峯寺縁起』が意図して「鼓岳」にしていると考えられるポイントは、「岳」の示す意味とその場所である。先に検証したように、使う漢字が違うということは指し示す場所が明らかに「岡」の様子とは違うということを示している。これが『白峯寺縁起』の明確な意図であると考える。
なぜ平家異本と崩御の地元『白峯寺縁起』の示す配流場所が違うのか。それは異本の配流地「鼓岡」は上皇崩御地と兵衛佐局の住まいを繋いで考え出されたものであって、縁起の「鼓岳」は白峯寺の住職、社人が知って言い伝えてきたものが反映されているからだと考えられる。『白峯寺縁起』は、白峯寺が1382年に焼失したため1406年に旧来の記録や伝聞などから縁起を改めて書きまとめたものであるが、このときすでに、軍記物語が広く流布しており、その中の配流先が白峯寺の伝承とは違った「鼓岡」や「志度」になっていることが強く意識されたはずである。つまり、『保元物語』などの読み物の記載が既に多勢であったから、京に住まいしていた縁起の作者は、白峯寺が伝えてきた上皇幽閉場所との齟齬を埋めるために、上皇が幽閉されていた山は高く大きく、その山林中に幽閉されていたことを示す必要から「岳」を使って、流布していた「鼓」の字と繋ぎ合わせざるを得なかったのではないかと推測される。つまり、「岳」は上皇配流場所を特定し、その様子を表現するために意図して使われていると考えられる。 

金山が「鼓岳」と呼ばれた記録が他に見当たらないのは、崇徳上皇幽閉に関連した「鼓岡」に対する呼び名として特別に使われた、こうした経緯があったからではないかと推測される。そうでなければ軍記物語の「岡」と全く意味の違う字を使う必要も動機も見当たらないからである。平家異本の「鼓岡」と『白峯寺縁起』の「鼓岳」が同じ意味で共存しているように見えるのは両者を区別できていないことからくる誤りであって、むしろこの両者は上皇行在所の場所について見解が相違していると捉える必要がある。

江戸初期に書かれたとされている『白峯山古図』 には、白峯寺の諸堂、勅額門、御本社(頓証寺殿)、御陵など白峰山とその周辺が描かれ、現在の通説で上皇最後のお住まいとしている綾川西岸の岡には軍記物語と同じ「鼓岡」と記されている(脚注47)。この絵図は「火災で焼失する以前の姿を復元的に描いた図と見られる」(脚注48)とされているのに、縁起の「鼓岳」でなく軍記物語に表された「鼓岡」と書かれているのは江戸初期までに軍記物語が広く流布していた影響を強く受けたからと考えられる。つまり、上皇崩御の場所に近い屋敷場所であることと兵衛佐局との関りから名付けられたと考えられる「鼓岡」と表記が同じだからといっても上皇行在所の証拠とは言えず、むしろ『白峯寺縁起』の「鼓岳」とは異なっていることが注目すべき点だと捉えられる。『白峯山古図』は相当の社会的立場を背景にして描かれたことが伺える貴重な資料で、白峯寺に寄贈されたものではないかと思われるが制作者、制作場所などは明らかでない。このため、軍記物語流布の影響下で描かれたと思われる「鼓岡」の表記から考えると、上皇行在所については他の歴史事実と併せた検証が必要なことを示している資料ではないかと言える。

上皇最後の配流場所を明治以降に誤らせた原因のひとつは、平家異本など軍記読み物の「鼓岡」と国府庁横の「鼓岡」の名が同じだったことである。しかし、同じ名前であっても江戸末期までは、軍記物語に書いていても、高松藩が決して「鼓岡」を顕彰しなかったように「鼓岡」が上皇行在所を指すものではないと讃岐では認識されていたから、ここが「天皇社」になることはなかった。ところが、明治になってから、上皇が遷され最後のお住まいになった場所として平家異本や『全讃史』等の「鼓岡」説が採用された。前述のように、『白峯寺縁起』には「鼓岳」と示しているのに、「岡」と「岳」の違いに至る経過が検証されなかったのである。

第6節 高松藩が国府庁横「鼓岡」を顕彰しなかった理由

高松藩は、現在の通説で上皇が「松山の一宇の堂」から遷った最後の配流地としている「鼓岡」には石碑を建てるなどの顕彰をしていない。上皇崩御の前、5年余の長きに亘ってお住まいになったとする場所ならば、「一宇の堂」よりも篤く崇敬、慰霊すべき重要な場所のはずである。従って、「鼓岡」を顕彰しなかった理由の説明が必要である。
最も有力な説明だと考えられるこの「なぜ」への答えは、「雲井御所」碑建立時に現れている考え方から明らかにすることができる。
高松藩初代藩主松平頼重公は、摩尼珠院を「当山は、旧地といい、かつ、天皇御鎮座所なれば」として京都から住職を招くなど崇敬を表している(宥淳記「崇徳天皇御鎮座所縁起」:三木豊樹氏著書より引用)から、高松藩は代々この場所こそ上皇行在所であることを確信していたと思われる。一方、そこに遷られる前のお住まいの場所が不明になっていたため、『全讃史』が記す「長命寺」の場所を参考にして上皇お住まいの綾高遠屋敷の場所を定めて碑を建てたのである。高松藩が、上皇最後のお住まいの場所と理解していた「明の宮」天皇社はすでに祀られていて、『全讃史』が「黒木の御殿」とする府中鼓岡は行在所ではないと知っていたから顕彰する考えもその必要もなかったのである。
もしも、高松藩が平家異本や現在の通説のように「鼓岡」を上皇お住まいの場所と考えていたなら、遅くともこの時に「鼓岡」にも石碑を建て上皇御霊を祀る事業をしていたはずである。しかし「鼓岡」を顕彰しなかったのは、軍記物語等の書物に書いている名前と同じという以外には歴史事実の証拠がないから、平家異本などが示す鼓岡が上皇最後のお住いの場所だという説の根拠に疑いを持ち、配流場所だという認識を持っていなかったことが理由だろうと考えられる。

第7節 「院、おはしましけん御跡」と『綾北問尋鈔』、『全讃史』

西行は、崇徳上皇の配所跡と御陵を訪ねている。配所跡を訪れたとき、そこには跡形もなかった、つまり幽閉場所の建物は取り除かれていたのである。西行のこの訪問と歌に詠んだ状況は真実と考えられている。また、「上皇崩御の後、二条天皇の近侍であった阿闍梨章実がここ(崩御されたときのお住まいの場所)に来て小祠を建て御霊を奉祀した。以降一般の崇敬厚く」祀られた。ここが後に「崇徳天皇社」となり、現在白峰宮となっている場所である。
西行の歌にある「松山の津と申す所に院おはしましけん御跡」が表す「松山」の範囲は、松山郷や林田郷に限定されない、松山の津から見渡せる綾川両岸の海に近い処だと捉えられるから(第二章第1節参照)、八十場の崇徳天皇社の地は港から綾川の向こうの延長線上に見え、当時の海岸線から数百メートルだから「松山」の認識に含まれる。 なお、古書に書いている「松山」の地名理解と同様に、「国府」についても国府庁内だと限定されるものではない。国府庁と同じ郷内(甲知郷)を指す場合もあるし、国府近く(郷は違う)と理解されるケースもある。例えば半井本の「御所は国府に有りけり」「国府にて御隠れありぬ」「西行法師、・・国府の御前に参て」の「国府」の場所を「国府」の字に拘泥してしまうと誤るのである。
上皇崩御時のお住まいが「かたもなかりければ」となっているのを「綾川の氾濫で流されたから」とする説があるが、この説は崩御前の6年間住まわれたのが「長命寺」だという考えに基づくものである。しかし、干潟地に建つ「巨刹・長命寺」 は成立しない説であること、当時の地元伝承を反映していると見られる『白峯寺縁起』が「鼓岳」としていることからも最後のお住まいは「長命寺」ではない。西行がお住いの跡を訪れたのは上皇崩御の3~4年後と考えられており、その時点ですでに洪水で流されていたという主張になってしまうのが上記の説である。『綾北問尋鈔』『全讃史』とも、長命寺が洪水で流されたのは万治の頃としているので、そこからは上記の説は導けない。

江戸中期以降に讃岐で作られた『三代物語』(『翁嫗夜話』『讃州府志』の原本とされる。一部改編あり)、『綾北問尋鈔』、『全讃史』は、人物、神祠、寺社、名所などの伝承話や謂れ等を記しているが、上皇説話については軍記物語から取り入れた話をこれらに混在させて構成している。保元期から600年以上経過しているから事実でない話を含むのはやむを得ないことであって、現代よりも保元期に近いことが必ずしも事実に近い書き物になっているということではなく、むしろ、これらが書かれた時代は、庶民の間では軍記物語が全て事実だと受け止められたと思われるほど、現代よりも軍記物語の影響を強く受けていたと考えられる。讃岐においては上皇行在所があった地元において歴史事実が何とか伝えられ、崇徳天皇社の地における行在所説は比較的伝わっていたが、真光寺伝承は高松藩外への移転もあり事実が遠くなっていた。一方、軍記物語の「鼓岡」行在所説は、裏付けとなる歴史事実はなくとも軍記物語の浸透に連れて地元でも少なからず広がっていたと考えられる。江戸中期の地元歴史家によって書かれた『三代物語』に軍記物語の話が取り入れられ、『綾北問尋鈔』『全讃史』にも繋がっていった状況から、こうしたことが言える。

また、高松藩は、不明であった「松山の一宇の堂」(綾高遠屋敷)の場所については『全讃史』が記した「長命寺」の場所を取り入れて「雲井御所」碑を建てたと考えられるが、このときの認識及び状況は、①上皇は当初、綾高遠屋敷に住まわれた、②長命寺は配流当時、存在していなかった、③御供所真光寺の伝説は、真光寺が他国へ移転していた影響で受け継がれていなかった、④上皇最後のお住まいは八十場の崇徳天皇社の場所であると認識していた。
こうして、藩と行在所地元の認識によって八十場の天皇社が行在所の場所であることは、地元では歴史事実として受け継がれていった。また、真光寺説は、丸亀に移った真光寺と侍人達の間で受け継がれていった。

京において上皇配流場所が明確でないのは、貴族社会にも情報が断片的に僅かしか伝わらなかったことを示している。当時、京の貴族社会へ伝わったのは、海を渡って直島に停泊したこと、讃岐の「松山」で高遠なる者の屋敷に入られたこと、(「しで」から音転換した)「しど」の地で崩御されたこと、白峯で荼毘に付されたことと、配所を訪れた時の様子を京に持ち帰った人の情報程度だったと思われる。高遠屋敷から平山(御供所)の「内裏」真光寺屋敷へ遷られたことや、未開地にあった幽閉地の詳しい場所は伝わらなかった。これらから考えると、真光寺屋敷造営後に侍人達が上皇を慕って御供所に来て住まいを為すことが出来たのは、「内裏」が造られた「讃岐のさとの海士庄」とは平山(御供所)のことであると藤原清輔から伝えられ、渡航前から知っていたからではないかと思える。一方、朝廷側はその後の詳細な事実経過を承知していたが、その情報は秘匿したのである。

次章では、軍記物語(主に平家異本)が採用する「鼓岡」行在所説と地元における崇敬の歴史の関係について検証する。