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衛士坊・上皇幽閉の時の根拠

摩尼珠院寺譜(由来)には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり、因て命く」とあります。崇徳天皇社の地元では、昔から衛士住居地に至る坂を「衛士坊の坂」と呼んでおり、坂の上の高照院、昔の摩尼珠院の処が衛士坊の跡だと古くから伝承されていて、由来と地元伝承の内容が一致しています。衛士坊と衛士坊の坂の地名が摩尼珠院の由緒と共に後世に伝承されたことは、上皇のお住まいと深い関りがあることを物語る確かな証拠とされています。この地名の起こりこそ崇徳上皇の行在所を五年余に亘って監視した衛士坊があったことを立証するものだとしています。

これに対して「神仏判然令」が発出された明治初期に摩尼珠院廃寺を受けて鼓岡を上皇幽閉場所だとする説を大々的に主張する運動が鼓岡で起こりました。その中で、本来は摩尼珠院寺譜にある上皇幽閉に当たってお住いを移したことを指す「遷幸」のことを、崩御後の殯(もがり)地への御遺体の移動のことだと解釈して、その時に柩の警護役の衛士が住居を構えたのを「衛士坊」だと説明しました。天皇社の地元に伝わる内容とは違った説明をして、これによって衛士坊を殯の間の一時的な施設として、「鼓岡」を数年間の幽閉場所として主張できるようにしたのです。


では「遷幸」の文字は寺譜でどのように位置づけられているのでしょうか。寺譜本文中には「讃岐國に遷幸あるべき」の記載があるほか、「神人(上皇を慕って都から讃岐に来た官人で、天皇社祭礼の時に神輿のお供を許された者)の項目に「此皆、天皇遷幸の御時、遁従し奉りて本邦に来る者の苗裔也」とあります。いずれも文字どおり上皇行在所の移転のことだと理解できます。他には「移し奉る」の表現がありますが、どれも生存中のお住いの移転のことを指しています。他方、殯の場所への御遺体の移動はご生存時のことではありませんからこれらの表現は使わずに「八十蘇の水に浸し奉る」としています。鼓岡説のように説明するなら「衛士坊 天皇殯の御時、供奉の衛士居住の地・・」となっていなければいけません。
従って、「衛士坊」由来の説明に見える「天皇遷幸の御時」とあるのは実際のお住まいの移転のことを示し、その時の監視役の衛士居住地を「衛士坊」と呼んでいるというのが文意に沿った解釈になります。

摩尼珠院寺譜は江戸時代中期に寺が上梓したとされ、その頃は軍記物語が広く流行していて、それらの文書に寺譜も強い影響を受けたことがわかります。それは、当時は讃岐国ではなかったのに「直嶋に皇居をうつし奉る」や、大乗経を「椎門の波底に沈め」など事実とは捉えられないことを軍記物語から取り入れているからです。そして「直嶋」に続く「府中鼓岡にうつし奉る」を妄信してしまえば前述のように殯の間だけ存在した衛士坊という解釈になってしまうのです。しかしながら、そもそも「鼓岡」には歴史事実の積み重ねや裏付けがないのですから「鼓岡」もまた軍記物語からそのまま取り入れていると考えられます。「寺譜」とは言っても流行本に寄った記述になっていることからすると、軍記物語からの影響がいかに大きかったか分かるとも言えるでしょう。

この寺譜は全体としては事実記録書というよりも随所に流行本を敏感に取り入れているので、真偽が混在していることは間違いありません。そのような中では、軍記物語から取り入れたものではない箇所に寺に独自に伝わる本当の歴史が残されているのではないかということになるでしょう。

以上を踏まえると、寺譜に書かれた「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住」の解釈は、この箇所は軍記物語に影響されたものではないという点や、記述の文理解釈からすると、摩尼珠院の地元に伝承されてきたように「衛士居住の地」というのは上皇幽閉期間中のことを指しているという理解が歴史的に符合していると考えられます。

2024年03月01日

崇徳「鼓岡」説の誤り  

 このサイトでは、崇徳上皇讃岐配流の際に幽閉場所となったのは保元物語に書かれた「鼓岡」ではなく、上皇崩御直後に二条天皇宣下によって祠が建てられ、後嵯峨天皇が摩尼珠院を別当職とする崇徳天皇社として再建し、現在「白峰宮」と「天皇寺高照院」のある場所こそ上皇幽閉の地である旨を、色々な角度から分析してきました。今回は、誤認だと考える「鼓岡」説の成立とそれが強化されてきた経過を改めて考えます(従来説明の繰返し箇所含む)。

保元物語「鼓岡」の影響

歴史事実とは異なると筆者が考えている「鼓岡」幽閉説には、二つの大きな出来事が関わっていることが原因だと考えています。一つは、軍記読み物である保元物語に「鼓岡」と書かれてしまったことです。保元物語では、京における騒乱については出来事の経過などはかなり正確に書かれているようですが、讃岐配流(特に地名)に関してはこれと同じ評価は当てはまらないと考えています。讃岐の地名については一定の聞き取り取材をしていると思われるものの、包括的な地名、近隣の代表地名、周辺を含めた広い範囲を示す地名などで表されているのです。当時備前国に属していた直島に讃岐国司が御所を作ったとするなどの誤りも見られます。御陵地となった「白峯」以外の地名については、特定場所を示しているとするには大きな疑問が残るのです。現在も残っている地名と同じ記載があるからといっても事実の対象場所が正確に書かれているのではなく、文脈と地勢を照らし合わせると「おそらく○○という場所(地名)」「○○を含めた広い範囲を表す」「近隣の地名を拝借した」等というレベルで書かれていると捉える方が相応しいのです。「鼓岡」については、「国府庁近くに鼓岡という名がある」や「女房兵衛佐局が住んでいたと聞いた鼓岡に上皇も住まわれたのだろう」というのがいい線かも知れません。

高松藩の初代藩主松平頼重公はじめ歴代藩主はそのことを知っていて天皇社に対しては寄進を繰り返していますが「鼓岡」に対する顕彰行為はなく寄進も石碑の建立も行っていません。これは「雲井御所」碑建立の際に、上皇お住まいがあった場所は決して忘れ去られてはいけないという旨の強い思いが碑文に書かれているのと比較すると対照的です。江戸中期の「三代物語」に鼓岡には「今、草庵がある」と記録されていますが、上皇を「鼓岡」で祀っていた記録や証拠はありません。雲井御所の場所に対する思いの強さと「鼓岡」に対する何もない対応の違いになった理由は明らかで、藩主が「鼓岡」に関心を持たなかったのは、上皇お住まいとは関りのない場所だと知っていたからだと考えると整合します。

世間に広く流布した保元物語の「鼓岡」は、地元で書かれた「綾北問尋鈔」等にまで「鼓岡」説が書かれるという影響を与えたほか、その他の書物等にも影響を与えていったと考えられますが、一次資料「清輔朝臣集」や「衛士坊の坂」の存在、また上皇配所は「海づら近き・海洋煙波の眺望・土民の家とてなし」とされており、海岸から遠く国府庁のあった「鼓岡」の地勢とは違っていることからすると、「鼓岡」説の元となった保元物語の「鼓岡」という記述こそ、そもそも正確ではない誤ったものではないかと考えられるのです。
  

明治の神仏判然令(廃仏毀釈)の影響

「鼓岡」説を強化した二つ目の原因は明治維新の神仏判然令(廃仏毀釈)です。
「鼓岡」神社は、明治の神仏判然令を受けて、神仏習合の寺院を否定して神社を崇敬させる明治政府の強い政策を受けて、江戸時代に「草庵」があったと報告されている場所に建立されたものです。この「草庵」がもし上皇お住まいの場所ならば6年近くに亘って苦難の時を過ごされた場所に相応しい儀礼や祈りが行われることが当然だと考えられるのに、「草庵」の場所にはそうした記録がありません。草庵の場所「鼓岡」と上皇配所とは関係がないと考えられるのはこうした事実によるのです。

「鼓岡神社」は、明治政府が政策上の必要から神仏判然令を公布した後、この政令に沿うように神社としての社格(村社)申請が明治10年に行われました。社格を必要とする理由を、この場所は崇徳天皇の御霊を村民が崇拝し続けてきたからとしていますが、そうした実態の記録はないようです。他方、上皇崩御直後の二条天皇による祠建立以降続いてきた崇徳天皇社での慰霊は別当寺摩尼珠院が神仏判然令によって明治初年に廃寺となったため重大な影響を受けました。明治政府の政策の下で廃止された摩尼珠院に代わって上皇慰霊を復活するために何とかしなければいけないと考えて、保元物語の「鼓岡」を使ってそこに「神社」を建立して慰霊の社とすることを解決策として考えたのかも知れません。その後社格を得ましたが、神仏判然令はこれによる社会の動きが極めて極端で全国的にも大きな混乱を生じたため政府は行き過ぎを認めて後にこれを改めています。しかし、地元政治の思惑があったかのも知れませんが、「鼓岡」ではそれまでの動きを元に戻すような説明を今さらできなかったのでしょう、一層「鼓岡」を上皇配所として顕彰する動きを強めていき、「鼓岡」説はさらに広まって現代まで影響を引き継いでいるのが実情です。このような背景・経緯だとすると「鼓岡神社」は上皇慰霊の強い思いを再興しようとして建立されたということになるのでしょう。

さて、明治の同時期に金刀比羅宮(当時、事比羅宮)が白峰御陵の頓証寺殿を「白峯神社」という摂社にして、建物や白峯寺保管の宝物什器等の多くが事刀比羅宮に引き渡されていますが、これらの一連の動きについても神仏判然令を受けて廃寺の危機にあった寺とその遺物を救おうとして当時は行政庁として管轄していた愛媛県が事比羅宮に働きかけたのが始まりではなかったかと筆者は想像しています。ところが「鼓岡」と同様に情勢変化があっても今さら引き下がれない状況だったのではないかと想像しています。「鼓岡」と同様に、最初の働きかけは政治・行政側からだったが、それに協力したものの対外的な面子を保つために多くの努力と費用が必要だったと考えられ、その原因を作ったのは政治(神仏判然令)サイドだったということになるのでしょう。(いずれも状況から見た筆者独自の個人的見解であって、批判意図は全くありません)

また、筆者の知る範囲では「上皇国府庁内行在所説」は最近の説かと思いますが、その背景としては、讃岐国府跡が国の史跡に指定された(2020年)ことと関連した思いがあるのかもしれません。「鼓岡」と同様に保元物語の中で(正確ではないのに)特定場所表現となっている「国府にてお隠れありぬ」「御所は国府に有りけり」に頼ったのではないかと思いますが、この「国府」は国府機能のあった地域、綾川沿い綾北平野の範囲を示していると理解するのが妥当ではないかと考えており、「国府庁内」と特定するのはどうなのでしょうか。

政治的な視点を含む主張はその目的・目標に沿うような説が主張され、他方、歴史研究の立場からすれば分析検証して真実はどうだったのかに対する答えに近づきたいというのが目標だと思うので、両者の間では異なる説を採るようになるのではないかと思います。


これらのことを通した歴史研究に対する教訓は次のようなものでしょうか。
政治は時に、地域振興などの自己目的のために歴史を修正して活用することがあり、歴史事実には対して必ずしも責任を持ちません。
即ち、歴史上の出来事に関して政治的又は自己主張的な意図や目的を持つ「説」には誤りのほかにも自己正当化を目的とした創作・解釈が含まれ易いのです。政治力が使われるケースもあるのでしょう。これらを踏まえると、歴史に関するその「説」の目的や背景を考えながら、多面的視点で歴史を考察することが望まれます(歴史研究には構造構成的視点が必要)。

 

2023年10月11日

崇徳院配流と慰霊の地・坂出

讃岐における上皇「慰霊」と「怨霊」の混在
配流地における上皇の本当の御様子を伝えるものは少なく、そのため、讃岐の人達は上皇の御苦難を想い、盛んに上皇慰霊を行っています。一方で、保元物語や雨月物語など讃岐においても広く流布した読み物には強い影響力があったため、江戸時代に讃岐で作られた「綾北問尋鈔」などもその影響を受けていることが分かります。

崇徳上皇が過ごされた配流地讃岐の綾北地区(綾川下流域の現・坂出市を中心とする地域)では崇徳上皇への「慰霊」が行われてきました。また雨月物語などにも影響されて、配流地であった綾北地区においても「怨霊」の考え方が入り込んできたようです。それは、現在の坂出市を中心とする地域に「慰霊」の伝承や遺跡が残る一方で「怨霊」が彷徨っているという人さえ存在していることに表れています。「慰霊」のための話や遺跡は、「慰霊」の対象となる何がしか具体的なことを掲げて「慰霊」しています。そこには歴史話の中によく見られるように、創作されたものも含まれていることが少なくないようですが、何かしらの創作が含まれていること自体はいけないことではありません。それだけ強い思いの「慰霊」の歴史を示していると受け止められるからです。これは歴史事実がどうであったかという視点とは別の受け止め方があるということです。
そこで先ず、讃岐綾北地区で行われた上皇慰霊の事例から、創作が含まれているらしい話や遺跡を数例取り上げてみたいと思います。


慰霊のための創作や誤解を含む可能性のある伝承・遺跡など

① 各地への行幸伝承(金毘羅大権現、石手寺、志度寺)
金刀比羅宮は、明治初期の「神仏判然令」「上地令」などの影響で白峯寺と白峯寺が護持していた頓証寺も次第に衰退する中で、明治11年に頓証寺殿を「白峯神社」として摂社にしています。金刀比羅宮(当時、事比羅宮)の説明では、崇徳天皇は崩御1年前に参籠され付近の「御所之尾」という場所を行宮にされ、また崩御翌年には相殿に崇徳天皇の神霊を奉斎したとしています。このような関係があったとする主張のもと、同年、建物や白峯寺保管の宝物什器等の多くが金刀比羅宮に引き渡されました。直後に起こった頓証寺復旧運動などを経て、明治31年に香川県知事から宝物什器等を白峯寺に引き渡すべく訓令が出されましたが返還されたのは一部でした。同年、頓証寺は復興しましたが、金刀比羅宮は、所有する「白峯神社」は本宮境内に移転したとして白峯神社の宝物を、一部を除きそのまま金刀比羅宮に残しました。しかし、頓証寺の宝物什器等は御陵の場所にある白峯寺が保管してきたものであり、上皇に関わる宝物什器等はこの場所で保管すべき歴史と由緒があると思います。そもそも、金刀比羅宮が上皇と関りがあったという参籠や奉斎の話は、明治の廃仏毀釈によって白峯寺が困窮し住職が環俗したことで寺や宝物の管理が困難になったために、廃仏毀釈の対象であった寺(白峯寺・頓証寺)から神社(金刀比羅宮)に宝物類を移すために創作された可能性があると思います。はじめは上皇御遺物を守ろうとする考えがあったのかもしれませんが、そもそも、上皇の参籠が行われたとする崩御1年前には幽閉され衛士に監視されており金刀比羅宮に行けるような状況ではなく、そういう実体はなかったと考えられます。明治初期の、「寺」を否定し「神社」を正当化した極端な見解は歴史解釈にも影響を与えました。仏教排除に向かった神仏判然令等はその後改められたものの歴史に与えた影響は残りました。
御陵・御仏殿の場所から離れた場所で白峯の宝物類を管理する必然性はなく、頓証寺復興の時点で全て返還することが双方にとって相応しかったと思います。

伊予の石手寺に行幸されたという伝承は、江戸時代に庶民の間で流行した四国遍路を始めた衛門三郎と関わる石手寺を結びつけて創作された可能性が考えられます。遍路参りをした庶民が保元物語や雨月物語を通して知った上皇を偲ぶ思いを繋いだことから、行幸説が広まったのではないかと思います。上皇行幸が事実であるならば罪人とされ、後に幽閉された上皇が遠方に行かれたことになり、それに必要な警備体制や往復期間を考えると、この話は現実的ではなく、この寺にも行幸の記録がないことから創作されたものと考えています。

讃岐の名刹志度寺に行幸されたという説に関しては、保元物語金刀本に「四度道場辺鼓岡」、鎌倉本に「志度の道場」など、「しど」と書かれているために「志度寺」に行幸されたという説が創作されたのではないでしょうか。保元物語諸本の「しど」は「道場」すなわち上皇がひたすら仏教に帰依され過ごされたことをもって修行の場所「道場」として表したもので、その場所(「しど」)は上皇が亡くなられた(暗殺された)地名「しで」から誤って転じたものではないかと思います。「志度寺」は古くからの名刹であって上皇が訪れたのが事実であるなら必ず記録されると考えられる名刹に記録がないのですから、この話には根拠や推測される状況は何もありません。保元物語の讃岐における地名記載については、荼毘に付された白峯を除いてはあいまいで、包括的な範囲を示したものや、音が転じたと考えられる地名などで書かれており、特定の地名を正確に示すような記載ではないと判断されるので、讃岐の地名について無条件で「文字どおり」に信用してしまうことにはならないと思います。

上皇配流期間の多くは幽閉されていたと考えられており、配流直後には監視が緩やかな時期もあったようですがその期間であっても遠方に行幸するほどの自由まではなかったのではないでしょうか。朝廷側から見て再び「反乱」が起きないよう遠隔地に遠ざけられたのですから、「反乱」を画策する可能性のある集団や人物と接触しないように監視することが本旨かと思われるので、「遠出」にはこうした隙を与える可能性があるとして許されることは難しいように思えます。従って、こうした「遠出」の話は、遍路などの流行の中から生まれたと考えられ、苦難の上皇への慰霊の思いが背景になっていると思います。

② 上皇「国府庁内行在所」説 
上皇が讃岐配流数年後から厳しく幽閉されていたことについては一般的に理解されていますが、保元物語の「御所は国府に有りけり」「国府にてお隠れありぬ」の記述を根拠にしているのではないかと思われる上皇御所が国府庁の敷地内にあったという説があると最近聞きました。論拠の詳細は承知していませんが、おそらく保元物語中の一部の文字に厳格に従う解釈から生じたのではないかと思います。保元物語中の他の讃岐地名から考えれば、地名表記には厳格に定義されるほどの正確性がないことが分かります。保元物語の讃岐地名のあやふやさからすると、「国府」という記載だけで場所を厳格に国府庁内だとする定義は難しく、国府庁内で住まわれた又は幽閉されていたことはなかったと考えられます。しかしながら、この国府庁内行在所説についても、そうした思考に至る背景には上皇の御苦難を少しでも割り引けるように生活環境を良い方に考えたいという慰霊の気持ちが内在していると考えられます。

③ 方四町(約450m四方)にも及ぶ「巨刹・長命寺」
坂出市林田地区は、江戸時代初期に生駒氏が藩主となって以降開発が進み農地が広がっていきますが、鎌倉時代においては遠浅の海のうち「潮入荒野」と呼ばれた潮が満ちると海面になり、引き潮では砂地となる干潟の開発が行われ、新しく開かれた耕地が京都の八坂神社に寄付された記録(「祇園社記」)が残されています。つまり筆者が推測した当時の海岸線までは砂地の海岸であり、推定海岸線以北は海(遠浅)でしたが、その海の中に潮が引いたときには少し高くなった堆砂地が現れる地形があって、そこが耕地として開発された話であることが分かります。そのような砂地・干潟地・遠浅の海中ですから、そこに跨る450m四方にも及ぶ大寺院があったというのは創作と思われます。内陸部の別の位置(「長命寺新開」)に規模の小さい「長命寺」が存在した可能性がありますから、そのことを利用して「方四町」として創作されたように思います。地形の他にも、大寺院の礎石の痕跡・建立や庇護の記録などが一切ないことからも大寺院が存在したというのは無理なようです。
「巨刹・長命寺」の話も、上皇がここでゆるやかに過ごされた時期があったことを願う慰霊の気持ちを抜きにしては語れないことでしょう。 


「上皇がよく訪れた池」という「御遊所池」碑 の場所は、平安時代当時は海中でなかったでしょうか。
坂出市にある「崇徳院御遊所池」碑(1834年建立)の案内板(平成25年坂出市教育委員会)には、「ここにある池にも上皇が度々訪れたという言い伝えが」あると記されています。しかし、この場所は古地名「宝永元申新興」はじめ江戸時代に開発された地名に囲まれており、「林田町北部は17世紀後半以降に田畑として開発されたが、これ以前は現在の海岸線より1~1.5キロメートル南方まで干潟が広がっていた。奈良・平安時代と江戸時代では500~900年の隔たりがあるので、国府が置かれた古代では干潟はもう少し内陸まで入り込んでいたと推定される」(讃岐国府跡探索事業調査報告書平成23・24年版26ページ):香川県埋蔵文化財センター)とされています。つまり、「崇徳院御遊所池」碑のある場所は平安時代の干潟の範囲よりも北側の海中でなかったかと考えられます。従って、そこの池を見に来るという状況はなかったのではないかと考えられます。
想像するに、石碑が建立された江戸末期時点における埋め立て地の様子を上皇配流時代の様子として当てはめて、江戸時代に陸上にあったその池を上皇がご覧になられたという話になったのではないでしょうか。

讃岐で苦難の時間を過ごされた上皇への強い慰霊の気持ちから、上皇が少しでも心安らかに過ごされた時間と場所があったことにしたい、その場所を顕彰したいという思いが表れていると推察されます。「御遊所池」の位置の真実性よりもそうした思いを記した石碑があることに意味があって、配流地における慰霊の思いが汲み取れる石碑だと受け止められます。遺跡等の場所の選定については、少し違っているかも知れないと思われるものは他にもあるようです。

これまでに掲げたのは創作や誤解の可能性が考えられる話の一部ですが、こうした話が多いのは、それだけ上皇の実際の生活に関する正確な情報が極端に少ないからではないでしょうか。このことは「幽閉されていた」ことを裏付けることかも知れません。そして、仮に創作と思われたり或いは創作の可能性を含むものであったとしても、話の真偽の程度が重要なのではなくて、現在の坂出市を中心とする地域の人達が上皇の御苦難に対して長い年月に亘って強い慰霊の気持ちで長い年月を過ごしてきた証しであることを忘れてはいけないと思います。何代にもわたってこの地域の人達が繋げてきたこの証しは誇るべきことです。坂出市には上皇を尊敬し、畏敬し、慰霊しつづけてきた歴史があることを忘れてはいけないと思います。そして、「怨霊」の話と配流場所とはそもそも関りがないことですから、「怨霊」の話ではなく「崇徳上皇慰霊の地坂出」として、今後も慰霊行事を続けていくことが、坂出で苦難の人生を過ごされた上皇を偲ぶことかと感じます。苦難があっても生きる、そのことを教えて頂いたのではないでしょうか。

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「慰霊」を受け止めるためには、先ず「慰霊」と「怨霊」があることを意識することが考えられます。「慰霊」と「怨霊」の混在を整理する方法としては、先ずは①事実に近づこうとする分析を行うこと。たとえ「慰霊」であってもその中には、歴史の「一次資料」「一次事実」から離れた背景から生まれたと思われる「創作」とをできるだけ見分けられるような視点を持つことではないでしょうか。また「一次資料」「一次事実」と異なる内容ならその理由や考え方を示すことも大切です。
次に、たとえ部分的又は全体的に創作されたと考えられるものであっても、その「慰霊」に至った世情や解釈、価値観、意味などを考えることが出来れば、上皇への畏敬の念の本当の姿が見えてくるのではないでしょうか。

「一次資料」・「一次事実」・推測される歴史事実等
1.藤原清輔日記「讃岐のさとの海士庄に 造内裏の公事あたりける」は、上皇配流の直前に書かれたもので、清輔の地位や上皇との間柄からしても信ぴょう性が極めて高く、その書かれた内容は事実であり、その内容に沿うように諸般の行動が行われ たと考えられること。
2.「もがり」の最中に「毎夜、神光が立った」のは何を伝えているのでしょうか(本編第五章第一節参照
野澤井(池)の水に上皇御柩を浸した「もがり」の期間中、「今の崇徳天皇社(白峰宮)の場所に「神光」が毎夜立った」は何を伝えたいことばなのでしょうか。神光=「明り」は上皇行在所(幽閉場所)がそこにあったことを伝え、最初に上皇が祀られたこの場所こそ重要な場所であり、上皇が住まわれたに場所にこそ魂の光が現れることを示す重要な言い伝えなのです。これを裏付けるように、上皇が崩御された年に二条天皇の宣下により一宇が創起され、後に御嵯峨天皇により崇徳天皇社として再建されたという事実が存在しています。
3.神人(侍人)の事実
上皇讃岐配流の折り、京で仕えていた貴族らが上皇を慕って「讃岐のさとの海士庄」に来て可能な範囲のお世話をしていたと伝わっています。この人たちは「神人」又は「侍人」と呼ばれ、現在に至るまで上皇を祀る白峰宮例大祭の神輿を担ぐのはこの「神人」の子孫の皆さんにのみ許されたことであり、この事実は子孫の皆さんに言い伝えられています。
4.「衛士坊の坂」の名の事実(本編第五章第2節参照
天皇寺の東側土塀に沿う坂道は古来より「衛士坊の坂」又は「衛士坊坂」と呼ばれていることが地元に伝わっています。「鼓岡」行在所説の立場からは、野澤井で行われた上皇御遺体「もがり」の際に監視の衛士が寝泊まりした小屋があったからこう呼ばれたとしていますが、地元(八十場)には、上皇は崇徳天皇社となった場所のいずれかに住まわれ(幽閉され)、摩尼珠院(現天皇寺)の場所(衛士坊坂を登った所)に監視役である衛士の詰所があったと伝わっているのです。上皇監視の衛士が5年余の期間に亘ってこの坂を往来したことからこの名前が付いたと伝わっています。この伝説の由来から考えると、「鼓岡」行在所説の見解は、明治の神仏判然令によって摩尼珠院が廃寺となり「鼓岡」(神社)振興運動が盛んに行われるようになった後に、自説を主張しようと解釈されたものではないかと思います。
5.「幽閉場所」
通説の立場は、保元物語に書かれた「鼓岡」の行在所説を無条件に受け入れていますが、同じ物語にある幽閉場所の様子については関心が向けられていないようです。つまり、上皇幽閉の場所には人家や田畑もないと書かれているほか蓮如が幽閉場所を訪れた時の様子も伝わっていますが、「鼓岡」は国府の中心地ですからその周辺は府庁の役人や近隣住民等で賑わっていたと思われる場所です。「鼓岡」での幽閉というのは保元物語の誤りではないでしょうか。

このようなことも踏まえながら「慰霊」を整理できれば、次に「怨霊」との関係を整理することで、讃岐の人が行ってきた「慰霊」の意味の理解を進めることが出来るのではないかと思います。

さて、仏教に帰依した上皇がなぜ讃岐で「怨霊」にされなければいけないのでしょうか。「御成仏」は宗教上の判断に従うものと考えていますが、「成仏できずに怨霊として彷徨っている」などと言う意見は如何なものでしょうか。保元物語に記す、五部大乗経の件で「日本国の大魔王と成らむ」などというのは読み物への興味を引き付けるために作り上げた話だと思うのですが。
 
讃岐(綾北地域:現在の坂出市を中心とする)において上皇慰霊の多くの伝説・伝承や遺跡を生むことになった背景には、上皇の生活の様子がほとんど記録されていない中で上皇の数多くの御苦難を推し量ることがあると思います。つまり、厳しく幽閉されていたと理解されているからこそ、京から来られた崇徳上皇に対する尊敬や讃岐で御苦難を経験されたことへの畏敬の念があると思います。讃岐の人の多くはこの慰霊の思いをもって上皇のご様子に心を砕いてきたのです。
ところが、広く流布した保元物語や雨月物語の影響を讃岐人も受けており、「怨霊」ということばが頭から離れないような様子も一部に見られます。「怨霊」は京において上皇を窮地に追いやった側からの、しかも上皇が御逝去されてから十数年経ってからそういう話が始まったのですから、上皇が讃岐で御存命の間には「怨霊」などなく、悔しく残念な思いはあってもひたすら仏教に帰依されていたのです。
つまり、讃岐と「怨霊」とは関係がないのですから、「上皇は大変なご苦労をされてお気の毒だった」と言いつつ「上皇の魂が怨霊になって成仏できないままでいる」とも言ったり、時に「慰霊」時に「怨霊」の立場に変わる状態は残念なことだと感じます。

配流地讃岐における「慰霊」と「怨霊」の混乱を整理すると、

崇徳上皇配流と慰霊地・坂出」となります。
  

2023年03月11日

八十場 「関(咳)の地蔵」

坂出市川津周辺から城山(きやま)の南西の麓道を経て金山・八十場に入り、白峰宮の南西角の三差路に至ると、「関の地蔵」(祠)が鎮座しています。
崇徳天皇社(「明の宮」)の別当寺、摩尼珠院は、江戸時代には寺社奉行の権限である寺請制の権限を持ち、出生・死亡の管理、身元引受、往来手形の発行のほか、関所も設けられていました。入口付近に鎮座するお地蔵さんは「関の地蔵」と呼ばれました。後に「関」は「咳」に転じ、胸や喉の不調から出る咳を止めるご利益があるとされ、お遍路や地元の信仰を集めました。
今は、祠となり、地元の人や白峰宮・天皇寺の参拝者を少し離れた場所から見守っているようです。(地元伝承等を参考に作成。)

2022年07月23日

「血の宮」と「煙の宮」

   動画:「血の宮」高家神社 と  「煙の宮」青海神社

   ☝  画像クリック・タップで You Tube動画にリンク

経緯:崇徳上皇崩御から荼毘まで(1164(長寛2)年)

 9月14日(旧暦8月26日)国府庁付近の字「しで」で凶刃に倒れる。
    この間、野澤井(八十場の泉)で殯(もがり)が続けられる
 10月 3日(旧 9月16日) 御柩、野澤井を出発
 10月 4日(旧 9月17日)葬列、豪雨のため高屋阿気で留まる。柩台石に血が鈍染。
 10月 5日(旧 9月18日)荼毘の煙が白峰山上から谷あいに広がる

*「明の宮」(白峰宮)の動画は、ブログ「白峰宮と天皇寺高照院」で。

2021年09月14日

御朱印(白峰宮と青海神社)

崇徳上皇が崩御された時の出来事には、行在地に隣接する泉での「もがり」、葬列が荼毘に向かう途中に起きた豪雨と棺からの血の「鈍染」、荼毘のとき谷底へ広がった「煙」の言い伝えがあります。それぞれの場所の社で祀られて、現在に至ります。
写真(下)は、伝説が残る「明の宮」(白峰宮)、「煙の宮」(青海神社)の現在の「御朱印」です。*「血の宮」(高家神社)には御朱印ありません。

「明の宮」崇徳天皇社は、上皇が崩御されたときの天皇、二条天皇の宣下により社殿が造営されたのが始まりです。上皇が行在(幽閉)されたお住まい(「木の丸殿」)は、西行が上皇崩御の3年後にお住まいの場所を訪れた時には跡形もなかったことが記されています。
このことから、お住まいは弔いのため解体されて白峰の墓所前に移築されて弔われと考えられます(現在の「頓証寺殿」)。また、崩御の時まで長年住まわれていた土地(「明の宮」の場所)にも勅命により社殿が造営されました。こうして、崩御の時、お住まいだった土地と建物は、墓所(御陵)の御霊とともに弔われた歴史がわかります。
二条天皇の勅命によりを創建された社殿は、後嵯峨天皇が崇徳天皇社として再建し850年以上に亘って上皇をお祀りして現在の「白峰宮」に至っています。

「明の宮」の「神光」について
「明の宮」の伝説は、上皇御遺体を野澤井に安置した「もがり」の夜ごとに、林の中に「神光」が見えたのでその場所に二条天皇宣下により社殿を造営したという伝説です。その時の上皇「もがり」から何が導かれるでしょうか。
それは、火葬するまでの「もがり」の行事として、「神光」伝説の元になった火が焚かれていたということです。何もない場所で光が発することはないので、「神光」の光源となったのは人為的に焚かれた火であったということは納得性が高いと考えられます。古来から『「もがり」では火を用いることが知られる(『書記』仲哀)』*ことから、野澤井から見えた光は「もがり」儀礼として使った灯明・松明の火のことで、これが「神光」伝説に転化したと考えられるのです。

その「もがり」儀礼として火が焚かれた場所に後に社殿が建てられたことからすると、その場所で儀礼が行なわれた理由として考えられることは、そこには上皇御霊に関わる施設(建物)があったからではないかということです。当時、未開の場所であったこの場所の斜面と山林を切り取って建てられていた施設とは上皇行在(幽閉)所であると考えられ、「もがり」儀礼の火がここで炊かれ、それが「神光」伝説に転じたと考えられるのです。
 注*参考:「王朝貴族の葬送儀礼と仏事」(上野勝幸:(株)臨川書店)

「煙の宮」崇徳天皇社は、この辺り一帯に荼毘の煙が漂ったことにより、地元の春日神社祠官がここに社殿を造営し、崇徳天皇、待賢門院を祀りました。

「血の宮」崇徳天皇社(高家神社)では、上皇御柩から「血が鈍染」した石を、地域の祖神を祀っていたこの神社に移して、崇徳天皇と待賢門院を祀りました。

 *「明」「血」「煙」の伝説に関連して、本サイトの「「明の宮」崇徳天皇社」、ブログ「崇徳上皇の葬列と荼毘」に記載しています。

2021年09月09日

「鼓岡」配流説の虚構

*一次資料から*

崇徳上皇配流の時に書かれた信頼の置ける一次資料に記された、「讃岐のさとの海士庄」に御所を造営せよとする勅命に対して、明治以降現在までの通説では、この勅命によって国府庁横の「鼓岡」に御所が建てられたと説明しています。しかし、これについて疑問に思うところは、第一に、国庁横に御所を建てよという勅命ならば、国庁の隣接場所であることを示す文言になるはずです。第二に、国庁のある場所は、漁業や海運の地、則ち「海士庄」ではなく、当時でも海岸から4キロ以上離れた川に面した山麓です。国庁のある場所が「海士庄」であることを示す根拠は何もありません。ですから、この一次資料からわかることは、海士庄に造営された御所が「鼓岡」であると読むことは出来ず、つまり「海士庄」たる他の場所こそ御所造営地でなかったかという点です。

このように、上皇御所を造営する勅命が指示した場所は「鼓岡」ではないと考えられますから、後時代に作成された保元物語などの「読み物」に配流先が「鼓岡」と書かれているのは、憶測に基づいた事実を誤った記載であると言えるのではないでしょうか。そこには、誤認に至った事情や経緯があったと考えるのが妥当でしょう。信頼できる根拠(一次資料)は最優先に考慮される必要があり、後時代に書かれた「軍記読み物」をもって一次資料の信頼性を覆す根拠にはならないと考えられます。
つまり、「海士庄」を覆す、「鼓岡」が正しいとする他の一次資料が出現するか、「海士庄」から「鼓岡」への遷幸を示す論証がないかぎり、行在地を誤認した「読み物」が如何に広く流布していたとしても、「鼓岡」行在が事実であるということは成り立たないのではないでしょうか。
 
保元の戦いは突如として起こったことから、上皇配流が前から想定されたものではないので、配流御所が造営されるまでの仮住まいが必要であったのは間違いないと言えます。仮住まいとなった讃岐最初のお住まいの場所は京の注目も大きかったため京でも広く事実が伝わり、それが讃岐での接待役となった綾高遠の屋敷であったことについては、京から遥か遠い讃岐の情報であっても信頼性があると考えられます。

以上から、上皇は、最初に仮住まいした高遠の屋敷のあと、海士庄に新しく造営された御所に遷り住まわれたと考えるのが根拠(一次資料)に基づく経過である、という考えに異論の余地はないでしょう(長命寺行在説は、方四丁もの巨大寺院説は怪しいこと、建立が江戸初期という説があるため除外しておきます)。なお、ここまでのお住まいの間に歌に詠まれた「松山」は、視覚的地理理解から得られる、綾川両岸を真ん中にする白峰山と御供所平山で囲まれた湾内地域のことを表現しているように解されます。
勅命に従った配流当初の上皇お住まいは以上ですが、「軍記読み物」には上皇が厳しく幽閉された場所で生活され、京からその場所を訪れた者がその様子を京に持ち帰って伝えたと思われる話が書かれていますが、これについては、讃岐からの伝聞ではなく讃岐を訪れた者が京に帰って伝えた話であるために一定の信ぴょう性・信頼性があると言えます。厳しい幽閉はおのずとそうした様子をもたらすと思えますが、話が誇張されて、後に「怨霊」の姿に利用されたと考えられます。
このことから、上皇の生活には、「海士庄」に造営が命じられた御所での生活から、厳しく幽閉された生活へと大きな変化があったことが分かります。お住まいが海士庄から幽閉地に遷ってからは、そこで幽閉されたと考えられます。つまり、この御遷幸は、配流当初には予定されていなかった可能性が高いと言えるのです。

お住まいが遷された背景には、大きな動機が存在したと考えられます。それは京の政権にとって不穏な事態が現実となるのを防止する目的であると考えるのが自然です。いずれにしろ、幽閉は外部との情報を遮断することや身柄を固く閉じ込めて脱出を防止することが目的と考えられるので、この目的を達成することができる場所が幽閉場所として選定されたはずです。そして、上皇幽閉場所に僅かながら訪問者があったことは、そのことが京に持ち帰られていることから、この密かな訪問は事実と受け止めていいのではないでしょうか。

この幽閉場所が府中の国府庁横にある「鼓岡」なのかどうか、諸資料を検証してみましょう。

*諸資料、地勢などから*

現在の通説とされる「鼓岡」行在(幽閉)説では、勅命により造営されたのが「鼓岡」の「木の丸殿」だとして、最初の仮住まいである綾の屋敷又はそれに隣接するに長命寺に3年程住まわれた後に、「鼓岡」に遷られて、そこで厳しく監視されたとしています。
しかしながら、「鼓岡」が事実とは考え難い点に目を向けてみましょう。

勅命にも関わらず、「海士庄」ではない国府庁の横に御所を建てたというのなら、勅命に反した造営を行ったことになる。当時の国司は、任命地に赴任しない「遥任」とはいえ、配流を命じた京の政権方の国司であり、勅命に反することはないと考えられます。

仮に、海に近い綾の屋敷を「海士庄の御所」(この解釈はそもそも間違っていますが)としても、幽閉された建物が丸太を合わせた粗末な建物だったことは諸資料に共通し疑いがありませんが、その簡素な建物に3年もの建築期間が必要とは考えられません。勅命を受けて急ぎ建築にかかったはずなのに、3年後にようやく造営御所へ遷すのでは勅命に従った行動でないと言えますが、その説明がありません。
(以上、「鼓岡」説には、なぜ「海士庄」でない御所なのか、なぜ造営御所への御遷幸が3年後と遅いのか、説明や論証がありません。)

通説では、国庁から監視し易いので「鼓岡」が選ばれたと説明しています。しかし、国庁横の小さな丘からは国庁の動きが上からよく分かる位置関係にあり、むしろ反対に幽閉された側からすると脱出の機会を窺ったり情報御収集するのに都合の良い場所です。これでは幽閉の目的にそぐわない場所であると言えます。

幽閉場所の様子は、三方が山に囲まれ、「海洋煙波の眺望」、「海づら近き」、人の気配もない場所とされているのに、「鼓岡」のある国府庁付近は、海も遠く、多くの役人や付近の住民の声が聞こえる繁華な場所です。つまり、幽閉場所の様子と「鼓岡」の場所とは合致せずどちらかが誤りではないかと理解され、その場合、他の多くの状況とは整合しない「鼓岡」記載の方が誤っていると言わざるを得ないのです。

幽閉場所は武士によって監視されていたはずですが、「鼓岡」の場所には監視役であると考えられる「衛士」の存在を示す記録や地名、上皇行在所であったことを示唆する地名は何もありません。


江戸時代中期の記録(「三代物語」)によると、「鼓岡」には地元住民が利用する「庵」がありました(古代からこの場所には何らかの建物・屋敷が建てられていたようです)。ここが5年余に亘る上皇行在所であったならば上皇御霊は祀られ、苦難の時期を過ごされた「鼓岡」であるならばそこには崇敬の歴史を重ねた事実と記録が残っているはずですが、実際には行在所として語り継がれていなかったことが「庵」に過ぎなかったことに反映されているのではないでしょうか。

このように、「鼓岡」には行在所の実体として説明できるものが見当たらないことから、「保元物語」等に「鼓岡」と書かれたことをもって後世の図書(「全讃史」や「綾北問尋鈔」等)にも保元物語流布の影響を強く受けて「鼓岡」が転用・流布されたのではないでしょうか。従って、諸本に「鼓岡」記載があるからといっても基になった保元物語が誤っているのであれば上皇が幽閉された場所(御所)を示す根拠とするのは難しい(根拠とはなり得ない)と考えています。また、「鼓岡」説の傍証物(椀塚、内裏泉など)は、食器の時代検証記録が見当たらなかったり小さな井戸があることが直ちに行在所の証拠とは言えないなど、「鼓岡」説に合わせた創作なのではないかと考えられます
(本編と既ブログを整理してまとめました)

2021年06月30日

崇徳院御製から解く配流場所

 

(1)西行の贈答歌のやり取りから伺えること

上皇配流中に京にいた西行は、上皇にお供した女房兵衛佐局とする相手と歌のやり取りをしています。このやり取りは、歌の表現などから本当は上皇とのやり取りであることを「証明」している研究があります。 (上記の研究とは「讃岐贈答歌群の「女房」について(それが崇徳院であることの証明)」桐原徳重 編) これが、幽閉期間中のやり取りと仮定した場合には次のようなことが考えられます。それは、女房が詠んだ歌のように表現した背景には一定の目的があったはずです。幽閉は、政権への反抗行動などに繫がらないようにするためだったと考えられるので、特別に親しい間柄の京人との接触から何かしらの疑いを掛けられることのないよう女房の歌を装ったことが、可能性として考えられます。 上皇と西行の直接の通信を隠そうとしたためと捉えると、このやり取りの経路は西行の使者が兵衛佐局のもとを訪れて歌を託した後、兵衛佐局がそれを携えて、国府庁の許しを得て上皇のもとを訪れ、密かに伝え、さらに上皇からの歌はその逆のルートを辿ったと考えられるのでしょう。つまり、この歌のやり取りが行われた時期には、上皇は幽閉されていて、女房とは離れた場所に一人で住まわれていた状況にあったと考えれば、西行と兵衛佐局との歌のやり取りを装った理由と経緯が納得できるように思います。 つまり、上皇幽閉と女房との別住まいという状況の中で、万が一に備えて上皇と西行の直接のやり取りを秘匿するためだったのではないのでしようか。上皇と極めて近い間柄の西行が、上皇配流中に讃岐を訪れなかった理由もこれと同じで、上皇の安全を図るための配慮からだったと考えられるのではないのでしようか。

(2)御製から伺える幽閉の場所

女房兵衛佐局が上皇崩御後京に持ち帰った御宸筆の、藤原俊成宛の長歌には「あま(海人)のなはたぎ いさりせむ(漁師の網で魚を獲ることになろうとは、という和歌があることは知っていたが私も同じ境遇になるとは、という意味の事)と書かれています。讃岐で上皇が最初に仮住まいされた綾高遠の屋敷から、勅命に従って「讃岐のさとの海士庄」に急ぎ造営された御所に遷り住まわれていた時期のご経験を思い起こして歌われたのかも知れません(綾の屋敷では上皇自ら漁をすることはなかったと思われるし、後の幽閉中は衛士によって食事の準備・提供がされたと考えられます)。このときに、上皇は自分も漁に関わるような境遇になったと受け止めたことを詠んだのでしょう。 また、「十訓抄」には、かつて上皇に仕えた蓮妙(蓮如)が上皇配所を密かに訪れたとき、その場所に立ち入ろうとして武士共に遮られて叶わなかったが、中から汚れた狩衣を着た人が出てきたとき、その人に歌を書いた板を上皇にお見せするように願ったところ、その男がしばらくして持ち帰った先ほどの板に上皇の歌が書いてあった。蓮妙はそれを背負いに入れて持ち帰ったと書かれています。蓮妙は京の知人内にこの時の様子を報告したのでしょう。この説話から分かることは、上皇は幽閉され、その場所を複数の武士が警固していたこと、つまり監視役の「衛士」がいて幽閉場所に近づく者を制御していた環境で生活されていたことが分かります。

この説話は、
①幽閉の具体的・写実的な様子であること、
②上皇返歌の「ねをのみぞなく」(声を出して泣くばかりである)の主語としての「釣りする海士」を自分自身のこととして言い、上皇崩御後に俊成に伝わった長歌では、和歌で知っていた「漁師の網で魚をする」のと同じ境遇になったことを詠んで、どちらも海士・海人のようになったという認識、表現が共通していること、 ③武士が監視していたことを示す「衛士」を含む地名が現天皇寺の東に接する坂道にその名前が伝わっていること
これらから、
説話の内容は現天皇寺・白峰宮の場所に幽閉されていた時に実際に起きたことが伝えられたものと考えられます。
このときのやり取りは、

蓮妙「あさくらや 木の丸どのにいりながら 君にしられでかへるかなしさ」
上皇返歌「朝くらや たゞいたづらにかへすにも 釣りする海士のねをのみぞなく」

この時の上皇お住まい(幽閉場所)は、勅命に従って御所が造営された「海士庄」(今の坂出市御供所と思われる)から遷された、同じ湾内の海浜に近い場所にあったので「海士」を掛けているという解釈もあります。幽閉場所と思われる現天皇寺と白峰宮の場所(旧崇徳天皇社)には、監視役の衛士が通ったと伝わる「衛士坊の坂」の名が残り、そこから僅か先には当時の海岸線があって海を見おろせる近さだったとされることからも、この解釈には納得性があると受け止められます。
(「新撰十訓抄:詳解」(田中健三著・東林書房発行)、「天狗と天皇」(大岩岩雄著・白水社)を主に参照し、作成しました。)

(3)寂然の歌「君がすむ そなたの山」

また、寂然が配所を訪れたときの歌が残る「寂然法師集」には、「慰にみつゝもゆかむ君かすむ そなたの山を雲なへたつそ」とあります。これについて、『新修香川県史』は「上皇のおられた松山の御堂が、山の近くにあった事を歌ったもの」として白峯山の上または麓ではないかとしていますが、白峯山中には配流期の言い伝えや史蹟はないことから考えると、白峯山ではない所の山中又は山麓で配流が伺える場所でなければなりません。すると、金山(かなやま)の麓にあって、上皇もがりの時に神光があり、後に崇徳天皇社となる社殿が造営された場所しか、当てはまる處はないと地形的に考えられます。 この歌は配所訪問時に作られた「一次資料」ですから、数十年後の保元物語が記した「鼓岡」(「山」には当てはまらない)説と比べると、金山の麓と考える方が納得し易いでしょう。

2021年06月13日

天皇神社(坂出市)

坂出市川津町「春日神社」は、香川県神社誌によると、「『社家伝説聞書』に「当村は藤原氏所領なる故大和の春日明神を勧請した」、『道家関白處分記』に「讃岐国河津庄春日社領」とあり古くから大和国春日神社の社領であり、崇徳天皇の御崇敬により侍臣に奉幣させた」としています。また、天皇神社は崇徳天皇を祭神とする春日神社の境外末社(崇徳天皇社)であり、社伝によれば「この地は崇徳天皇御巡遊の地であるため祠を建て、後に廣濱紀伊という者が社伝を改造した」としています。

「天皇神社」参道の由来書きには、上皇はしばしば川津郷の荘園領主だった廣濱紀伊守の館に御微行(身分の高い人が密かに訪れる)され,この辺りが京都東山に似ていると仰せられ配流の淋しさを慰められた、1167(仁安2)年「煙の宮」から分霊し社殿を建てた」とあります。

上皇「御微行」を想定すると、その状況は次のようになります。
ⅰ讃岐行在期間のうち、こうした訪問が可能なのは、御供所に造営された御所(真光寺屋敷)にお住いの時期であること、
ⅱ御供所では上皇を慕って来た官人がお世話をしていたと伝えられており、配流のため一定の監視はあった中、近距離の往来程度は可能だったこと
ⅲ御所からは、御供所東海岸、角山(津ノ山)東麓、福江海岸から川津までの南行経路を辿ったこと

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2021年03月12日

京では怨霊、讃岐では慰霊

崇徳上皇御霊に関して京では、後白河院周辺の相次ぐ死亡、大火、大極殿炎上など災難の原因を上皇怨霊とした後、上皇を弔わなかった反省と怖れから「崇徳院」の諡号が贈られ菩提が弔われ御影堂への寄進なども行われるようになります。それは怨霊を前提としたものであったと思われ、以後数百年に亘って「怨霊」とされ続けました。他方、配流地の讃岐では「怨霊」ではなく御霊を慰霊するための話が創作されました。1755年に書かれた「綾北問尋鈔」には当時の地勢、名所とともにいくつもの伝説・伝承が書かれ、その中に上皇「慰霊」のために作られたと思われるものがあります。同書の構成には①現存する事物や名所、②それに関わる言い伝えがあり、このうち②にはⅰ事実と思われるもの、ⅱ真偽の判定が難しいもの、ⅲ非科学的で創作であると考えられるものがあります。上皇慰霊のためと思われる話の多くは上記ⅱとⅲですが、科学性、現実性、歴史経過の視点から創作と思われるものを以下に取り上げました。

『鼓ヵ岡の御所にて崩御』
崩御地を「鼓岡」とするのは、保元金刀本、平家異本であり、最も古いといわれる保元半井本の「讃岐国府にて御隠」は、国府のある地域内を示す表現と理解され「鼓ヵ岡」ではありません。「鼓ヵ岡」崩御を示す根拠や関連事実の記録はありません。綾北問尋鈔には、暗殺場所と伝承されていたはずの「柳田」の記載がないのは、慰霊のために、暗殺でないことを示すため崩御地を「鼓カ岡」としたのではないかとも思われます。

『今の宮地に霊木有、光明赫赫として枝に留まる事毎夜』
科学的には光り燃える素材、原因がなければ輝くことはありませんから、「霊」を原因とするのは非科学的非現実的です。当時、現実に考えられる光源は篝火であり、篝火は上皇ご住居前に焚かれたのではないかと考えられ、その明りを慰霊のために「光明」として創作したのではないかと思われます。

『長命寺 號雲井御所。往古は境内方四町にして、仏閣建奏ひ、名高き霊場也』
一辺440mもの大寺院建立や寺院維持費用寄進の記録、霊場記録、残された礎石など証拠が何もなく、その場所は干拓前の干潟地を広範囲に含むと思われます。配流地でご苦労された上皇が大寺院に住まわれるという恵まれた境遇もあったとするために、存立時期や規模等の異なる「長命寺」を、慰霊のためこの時代の巨大寺院として取り入れ、創作したのではないかと思われます。

『馬場・二天・射場 是等長命寺の境内也しと云。今は田畑と成て名のみ計り也。此君、武芸を好せ玉ひ、近隣の武士を集め、射芸を叡覧有し所と伝。射芸の跡近代まで有し』
長命寺の段でも述べたように、当時この場所に440m四方もの巨大寺院があった証拠は何もありません。従って、その境内に馬場や射場があったというのも創作ではないでしょうか。古地名「長命寺」から綾川をはさんだ東岸に(後の時代と思われる)馬場地名が残っていることを使って、長命寺境内に馬場があったと創作したのではないでしょうか。そのほか、この話への疑問点として、①都では歌を好み、保元の乱で敵の武門に敗れて出家されていた上皇が「武芸を楽しむ」お気持になられるでしょうか、②讃岐国司は美福門院の親族に当たることから監視について影響力があることが配流先が讃岐になった大きな理由ではないかと考えられ、国司の立ち位置から考えると讃岐の武門勢力は上皇と敵対した信西・美福門院側に立つものであり、その武芸を楽しむという説には無理があるのではないでしょうか。また、③射芸場所の跡が近代まであったとしていますがいつの時代に射芸場所が作られたのか、江戸時代中期に至る500年以上も射芸場所の形態がそのままに、或いは耕作場所としても利用されずに存在し得たのでしょうか。これ等から考えると、崇徳上皇との関りがあったとするこの文章は長命寺説話の傍証とするために「馬場」地名を利用して作られ、併せて、後に厳しく幽閉された配流の当初には楽しみがあったことにしたい上皇慰霊のための創作ではないのだろうかと思われます。

『内裏泉 岳の麓に有り。この水を汲めば眼を疾ふ・・』
白峯寺縁起に書かれた「岳」を用いていますが、古来より「岳」と「岡」は異なる意味を持ち、事物を特定する機能を持つ漢字であり使い分けられてきました。保元物語に書かれた「鼓岡」でなく、白峯寺縁起に書かれた場所をここだとするための意図的な使用ではないでしょうか。また、讃岐では上皇を怨霊とはしていないのに、怨霊説を取り入れたように眼の病を導いています。科学的には目を患うのは水に毒素が含まれる等の原因が必要になりますが、城山の地下水系にそのような歴史を聞いたことがありません。上皇が使った水源地を護るための話とするには、人を恐れさせる話に比べて鼓岡とともに保護の方法が釣り合わないくらいに不十分です。そう考えると、これは都から輸入された怨霊説を、慰霊の地讃岐でも例外的に取り入れて創作したものではないでしょうか。
こうした慰霊のための話は綾北問尋鈔記載以外のものとも互いに影響し合いながら伝えられたようです。

上皇関連遺跡は真偽が混在しているように見えます。顕彰時点の地形を見て配流当時のことにしていたり、慰霊への強い思いを表すため後時代に創作されたものも含まれているのでないかと思われます。

2021年02月26日

崇徳上皇配流地名の不確かさ

 讃岐配流に係る地名が不確かな状況について

保元物語諸本に記された上皇配流先地名を見ていくと、讃岐の配流先についてはその不確かな地理知識や情報に基づいて(京で)作られていることが分かります。讃岐の地理について不案内なまま伝聞に基づいていて作られたものが、軍記読み物の流行とともに讃岐に逆輸入され、江戸時代には讃岐で書かれた書物にまで影響を与えたようです。

現代から見ると三百年前に書かれた「古い」書物でも上皇配流からは六百年程も経ってから書かれた讃岐の書物は、保元物語の影響を受けているために地名の信頼性が高いとは必ずしも言えず、初めに不確かな地名が書かれた保元物語の記載を取り入れているために、いくつの書物に書かれていようともそれが正しいという根拠にはなり難いと考えられるのです。

保元物語に書かれている讃岐の地名には、
ⅰ動かしがたい事実が継続しているため誤ることなく伝えられた地名(例:荼毘に付され墓所のある「白峯」)と、
ⅱそれ以外の地名については、事実の継続が既に終了していたことから、数十年以上後の京での不確かな伝聞に依ったために地名への信頼性が低かったと言えるものに分けられると考えられます。
また、地名が表す範囲についても、現代では限られた範囲を指す「松山」「国府」についても、軍記物語の記載では、綾川左右岸の湾内を囲む山を含めた範囲を「松山」として、また「西行法師・・国府ノ御前ニ参テ」の記載からすると「国府ニテ御隠アリヌ」「御所ハ痛セ給シカバ国府ニアリケリ」にも共通する「国府」は、国府庁やその直近場所に限定されず甲知、松山、山本郷が含まれる阿野郡内という広い概念に含まれていると理解されます。

配流先の地名とする「志度」「四度郡直島」「直島」については、上皇配流先とは全く関係のない「志度」「四度郡」や、当時備前国であった「直島」を讃岐国司が勅命に従って受け入れた上皇配流先としているなど、物語が作られたときに既にその事実が終わっていたものは不確かな情報に基づいた記述になっている点で共通していることが分かります。そうすると、同様に上皇行在所とする「鼓岡」についても、保元物語が作られたときには既に事実関係は過去のものになっていたという基準から判断すると、不正確で誤ったものである可能性が(高いと)考えられます。加えて、上皇の幽閉場所に関しては一定の秘密性が課せられていたとも考えられるなら、それが不正確な記述に繫がった一要素と言えるかも知れません。
こうしたことからも、上皇配流関係地名については、軍記物語等の記載に頼ってしまってはいけないということではないでしょうか。

 まとめ(保元物語の讃岐内地名)

保元物語に於ける讃岐内の地名は、「白峯」を除いて、誤っているか包括的な地域名で書かれています。つまり、軍記物語である保元物語にとって遠国内の地名が事実かどうか検証することは重要ではなく、概ね当てはまればそれで良かったからそこには真偽が入り交っているのです。従って、保元諸本の記載を、これらが広く流布し影響力が大きかったことを以て讃岐地域名が事実記載だとすることは根拠のない解釈であって、これらを転載した後時代の書物記載にも根拠がないことを意味しています。このことから、周辺の歴史事実、歴史経緯の分析から真偽を検討する必要があると考えられます。

保元物語(諸本) 表現 → 正しい地名・地域名
<半井本>
①『直嶋』  →  (讃岐国でない)
 *勅命を受けた讃岐国司が当時備前国の直島を配流先とするはずがなく数日間汐待のため留まった直島を配流地と誤っている。(その場所の様子については、後の幽閉後の様子が伝聞されて統合されたと考えられます)
②『松山』  → (地域包括表現)
 *古代に優勢であった「松山」地域の港と、8世紀から12世紀に優勢となった坂出御供所港の間(綾川両岸の坂出湾内)を、当時の都では古代からの経緯により「松山」の津と認識していたと理解できます。
   ⅰ:参考「綾川河口における開発史」(香川県埋蔵文化財センター紀要)
③『国府』 →  (地域包括表現)
 * 「御所は国府にあり」「国府にてお隠れありぬ」「国府の御前に参って」に共通する『国府』は、国府庁のある讃岐国阿野郡の甲知郷、林田郷、松山郷が含まれてます。国府庁内又はその隣接場所という概念ではなく、「鼓岡」行在の根拠にはなり得ないのです。
④『白峯』 → 正しい
 *陵墓の場所であり、物語成立時にも場所の変更はないので正しく記載されています。

<他の諸本>
⑤『志戸』・『四度郡道場』・『志度郡直島』 → 誤り
 *阿野郡内に「しど」地名は存在しないし、香川県東部の志度と崇徳上皇とは全く関係がないことから、志戸・四度などは完全な誤りであることが明白です。上皇暗殺場所と伝わる小字名「死出(しで)」が音変化して伝わったと考えられます。
⑥『鼓の岡』 → 誤り
 *上皇崩御場所「しで」付近の地名を行在場所名だと想像して採用したものと考えられます。鼓岡説は、保元物語その他に書いてあってもそれを裏付ける歴史事実があるようには見えないのです。

以上から、『白峯』を除いて讃岐内地名が誤りか包括表現である保元物語の制作水準からすると、その他のうち「鼓岡」だけが歴史事実を反映しているとは考え難く、上皇行在場所は都に正確には伝えられていなかったことが分かります。上皇行在を示すその他の歴史事実や経緯が「鼓岡」には存在していないことからも事実を示す根拠のない、創作された「鼓岡」が保元物語流布の影響を受けて後時代の他の讃岐で書かれた書物にまで導入・転用されてしまい、また、それに沿うように更なる創作がなされていったのでないかと考えられます。

2021年01月08日

「神仏判然令」と行在所伝説

「明の宮」崇徳天皇社が崇徳上皇の行在所(幽閉場所)だったことは「明の宮」の地元で語り継がれ藩主もそのように認識(本書の分析による)していたのに、明治以降「鼓岡行在説」が広がる動きが起きたきっかけは、慶応4年3月から10月までに発出された12の法令を総称する「神仏判然令」にあるのではないかと考えられます。

「神仏判然令」は王政復古の大号令を受けて「あくまで神仏の混沌を禁ずるもの、神社と寺院の区別を図るためのもの」(「明治維新と天皇・神社」(錦正社))50ページ)でしたが、地域による強弱はあったものの仏教排斥、「廃仏毀釈運動」が起きたことも事実(同書)でした。崇徳天皇社においては別当寺摩尼珠院が廃寺となりました。そして、この時期、保元物語に書かれた「鼓岡」に「鼓岡神社」が建立され、崇徳上皇行在所であったという王政復古に基づく政治主導の地域運動が盛んになりました。摩尼珠院は廃寺によって権威がなくなり古文書もほぼ全て失われてしまい、明治20年になって筆頭末寺であった高照院が摩尼珠院の跡に移転してきました。

摩尼珠院廃寺の直後に「鼓岡」の顕彰運動が行われた理由の一つを推測すると天皇社の別当を担っていたのに廃寺となった摩尼珠院の役割を「鼓岡神社」に移して祀り続けたいという考えもあったかと思いますが、「江戸幕府」に対する否定的な考えから生じた奉行所権限のあった摩尼珠院への否定性と、「神仏判然令」による仏教排斥運動とが合わさったことにあるのではないかと考えます。そして、その運動が、軍記物語にはどう書かれていても地元では数百年言い伝わっていた上皇配流(幽閉)の場所を変更しようとする力になってしまったのではないかと考えられます。

また、「鼓岡説」が明治期の地元に浸透していった背景には、上皇崩御の場所から行在所を誤って推測し「鼓岡」と書いた(本書第七章『「配流地「鼓岡」と「鼓岳」(保元物語が誤って伝えた「鼓岡」』に詳述)軍記読み物が讃岐においても流布していたため、上皇配流の地元でありながら徐々に「鼓岡説」を受け入れる素地が作られて来ていたのではないかと考えられます。江戸期には地元で書かれた書物にも軍記物語に書かれたことを取り入れて行在所(幽閉場所)を「鼓岡」とする「綾北問尋鈔」(1755年)や「全讃史」(1828年)等の書物が出現しています。しかし、古書が伝える上皇幽閉場所の様子「海づら近き処」「海洋煙波の眺望」(海辺に近く、そこから海を見渡せる)が当てはまるのは当時の海岸線に近かった「明の宮」の場所しかないこと、「田畑もなければ土民の家とてなし」は国府庁の横にある鼓岡ではなく当時の「明の宮」の地勢が当てはまること、「明の宮」の地元では長年に亘ってそこが上皇幽閉の場所であったことが語り継がれていること、「衛士坊坂」等の歴史事実からもそのように分析できること、藩主松平家においてもそうした認識(本書分析による)から崇徳天皇社を崇敬し鼓岡の場所への崇敬はありませんでした。こうしたことを踏まえると、誤って「鼓岡」と記載した保元物語等の人気読み物の広がりが明治期に政治的な立場から進められた「鼓岡説」を受け入れられる下地となり、「神仏判然令」による権限の変化を契機にして、「鼓岡」通説化への流れが地域運動となって進んだのではないでしょうか。

2021年01月03日

白峰宮と天皇寺高照院

崇徳上皇を祀る天皇社(「明の宮」)は、神仏分離令により明治初年に別当寺であった摩尼珠院が廃寺になり白峰宮となりました。明治20年に摩尼珠院の筆頭末寺であった高照院が摩尼珠院跡に移転して四国八十八ヶ所遍路寺となり、白峰宮と天皇寺高照院に分かれた形になりました。崇徳上皇ゆかりの場所であることから今も白峰宮は「天皇さん」と呼ばれています。
白峰宮と天皇寺高照院に現在残っている江戸時代の常夜燈・灯篭、手水石、狛犬、玉垣、検地(検知)所跡の石碑などを映像(下)で紹介します。八十八ヶ所遍路が盛んになった江戸中期以降のものが現存しています。
境内は、今も神仏習合の歴史を感じさせる佇まいを見せています。

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2020年11月23日

崇徳上皇の葬列と荼毘

上皇御柩が荼毘に付されるため白峰に向かう途中、激しい雷雨のため高屋阿気の地に留まったとき、柩を置いた石に血が「鈍染」し、荼毘の煙は白峰山の谷に漂ったという、「血の宮」と「煙の宮」の伝説。この雷雨と煙の出来事は、初秋(現代歴10月初旬)における寒冷前線通過による激しい雷雨と、その後暫くして晴れて風も止み、翌朝まで放射冷却によって冷たい空気に厚く覆われた結果、朝には荼毘の煙は上空に上がらず谷あいに低く広がっていたことを明らかにしています。これらの伝承は連続する一連の気象状況の変化によって起きる出来事として説明できることから、創作されたものではなく実際に起きたことだと考えられるのです。
また、この伝説は「怨霊」や「恨み」と結びつけられることもありますが、葬列と荼毘の日の気象状態がが起こした事実として捉えられることから、850年以上前の出来事に思いをはせることを通じて上皇を偲ぶことに繋がると思います。上皇崩御後に帰京した女房兵衛佐局から藤原俊成に伝えられた、上皇が配流中に詠まれた御宸筆の歌からも、上皇は決してこの地で「怨霊」となったのではなく、どのようなことがあっても仏教に帰依され続けたと受け止めることができます(この歌は「長秋詠藻」(藤原俊成の歌集)に搭載されています)。「怨霊」説は、「怨霊」が必要な人たちによって創作され、それ以降、いろいろな話や文書の中で繰り返されたことから次第に大きな影響力を持つようになったのであって、「怨霊」という事実はなかったのです。
 
現代歴の10月3日は、上皇柩が白峰山に向かって「野澤井」(八十場の泉)を出発したとされる日、翌日は「血の宮」伝説として伝わる日に当たります。

 

上皇御柩が東に向かって渡った綾川。現在では洪水対策の整備が進み川幅も広くなりました。昔は大雨になると急激に水嵩が上がるくらい川幅も狭く、下流には幾度の氾濫があったことが伺える形跡や地名が残っています。
野澤井を発った柩は白峰山方向へ向かうため、現在の鴨川駅付近で綾川を渡ったと思われますが、翌日にようやく7km程先の高屋付近に至ったことからすると、私説ながら、柩は国府庁横の女房兵衛佐局が幽閉された上皇とは普段は離れて住まわれていたのではないかとも思われる「鼓の宮」(鼓岡)に向かい、惜別儀礼の翌日に高屋(鼓岡~高屋:約6km)に向かったのかも知れません。(本編:配流地「鼓岡」と「鼓岳」」


柩は、「血の宮」の後ろの山を越えて、狭く険しい山中を荼毘の場所(稚児ヶ岳の上)に運ばれたと思われます。この辺りから2km程の道程ですがかなりの時間を要したことでしょう。荼毘にあたって、朝廷の関与は何もなく(使者も参列も供物も弔意もなく)全て讃岐国庁の責任で行われたとされます。荼毘の場所がそのまま墓所になったのではないかと思います。

 

現代歴の10月5日夜8時頃始まったとされ夜通しかかった荼毘の煙は、翌朝には稚児ヶ岳と北峰の間に低く広がって「煙の宮」伝説になったことが伺われます。
上皇荼毘の煙にこの状況をもたらしたのは放射冷却現象だったと考えられます。下の写真は地上から上がった煙が僅か十数メートルほどの高さで大きく広がった様子(坂出市神谷町付近:午前7時頃)ですが、荼毘の煙も上空から押さえられるように谷あいに広がった様子が想像できます。

 

2020年10月01日

真光寺屋敷跡と御供所八幡宮

讃岐配流後の崇徳上皇の御住居は「讃岐のさとの海士庄」の場所に造営するよう勅命があったことが、一次資料である、当時の藤原清輔日記に記されています。讃岐国府庁に近く、海運や漁業の盛んな「海士庄」は現在の坂出市御供所町がこれに当たり、「真光寺屋敷跡」と呼ばれていた場所こそ御所が造営され上皇が住まわれた場所であるあることが、三木豊樹氏著書中「御供所と崇徳上皇」の章で紹介されています。保元物語などの軍記読み物の中で創作され流布した「鼓岡」御所説とは異なり、信頼できる一次資料とその後の歴史事実に裏打ちされた説であると考えられるのです。
氏は、著書の中で、「崇徳天皇は真光寺に居たと古老から何回か聞かされていた」「庚神社の処を昔から真光寺屋敷跡と呼んでいる」「寛永年間、伏見宮貞清親王殿下は、丸亀の御供所の真光寺、西庄崇徳天皇社に参詣して色紙を遺している(注:丸亀真光寺は、江戸時代初期に丸亀城の鬼門の守りのため藩命により坂出御供所から移転)」「丸亀真光寺には、崇徳上皇に関する古文書等が多く遺っていたが文久年間の火災で惜しくも焼失してしまった」「明治二十年頃までは、石で周囲を囲ってあって、不浄の者立ち入る可からずと立札があった」「村では真光寺屋敷跡を、御供所八幡神社の世話をよくしてくれた仁右衛門氏の屋敷に提供した」と地元に伝わる話を記しています。また、上皇を慕って京から御供所に遷った宮中官人の末裔の言い伝えなどから歴史の真実を探求しています。(下映像You Tubeで真光寺跡を紹介)

続けて、映像では御供所八幡宮を紹介しています。南北朝時代に細川頼之が南朝方の高屋城を攻めるべく「平山」(御供所を含む聖通寺山全体)に陣を張り、武運を祈って建てたのがこの八幡宮です。平山城(聖通寺城)は、足利管領職に出世した頼之の臣下から生駒親正まで200年以上に亘り讃岐支配の居城でした。

御供所の港は水深が深く古くから海運や漁業で栄えた「海士庄」。御供所は、中近世には武運をもたらす八幡宮と讃岐支配の居城や奉行所のある所として知られ、古代の悪漁(海賊)退治伝説も残る歴史のある土地です。また、御供所村は、阿野北郡を構成する西庄郷に含まれていた時代もあることから、ここから京の崇徳御影堂へ寄進を行った関係も考えられることになります(西庄郷:「西庄」とは綾川から西の、京の崇徳院御影堂に寄進する荘園を指していました)。

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2020年08月30日

摩尼珠院寺譜

摩尼珠院寺譜」は、「明りの宮」崇徳天皇社の別当寺に任じられた「摩尼珠院」の由来として「江戸中期の頃、同寺によって上梓され1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」と改題・再刻され」たとしています(「香川叢書」第一部)。


崇徳上皇の行在場所に関係する記述として、同書(寺譜)では崇徳天皇社(現白峰宮)の場所を「御鎮座」所と記載していますが、その意味には上皇が実際にその場所に住んでいたことを直接的に示すほか、「天皇神霊の止り給う霊場」という表現からすると上皇の御霊が今もここに留まっておられる(その理由は、この地に住まわれ崩御後も御霊が留まっておられる)という意味にも解されますが、いずれにしてもここが上皇行在が実際に留まられた場所であることを明らかにしています。
また、在所に関連する別の記載に「遷幸」がありますが、そのうち「讃岐国に遷幸」は、当然ながらこれは実際に身柄が讃岐国に遷られて生活されたことを意味します。他の箇所の「遷幸」記載では、衛士坊が「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地」と説明しています。つまり御身が実際にこの場所で住まわれたことを「遷幸」として、衛士が居住していた隣接地に上皇が生活されたことを示していているのであって、崩御後の御霊のことを表しているものではありません。従って、上皇は崇徳天皇社となった場所(のどこか)に居住されていたことを示すものと受け止められます。

ところが同書の上皇配流地の変遷の記載では、「高任の館」―「長命寺」―「直島」―「府中鼓岡」としていて、これは保元物語諸本の一部から取り入れた経緯になっているのですが、長命寺の存在性(干潟地に方四町もの巨大寺院が存在した関連証拠は全くない)や、直島は当時讃岐国でなかったことから、これらの御遷幸経緯の記載個所は事実ではなく憶測で書かれた軍記物語から取り入れた蓋然性が高いのです。従って、事実に符合したものとは言えず、流布していた保元物語の影響を強く受けて、書き換えられているとと評価するのが妥当だと考えられます。また、同書には「大乗経」を椎門(つちのと)の海底に沈めたと書かれていますが、これも事実ではない事が証明されており、同様に保元物語諸本の創作から取り入れたものであることがよく分かります。
つまり、「寺譜」の中には軍記物語から取り入れた箇所があって、配流場所に関して事実でない記載が含まれていると言えることになります。他方、外部(流布していた軍記物語等)からの影響を受けずに寺が継承することができた歴史事実についてはそのまま伝えられていると見ることができ、その結果「寺譜」には事実と事実ではないものが混在していることが明確にわかります。

このように、寺譜では事実の一部が修正されているのですが、寺譜が軍記物語の記載を受け入れた時期はいつなのでしょうか?。軍記物語等が隆盛した江戸中期の寺譜作成当初か、明治初期の摩尼珠院廃寺によって寺譜が民間に流出し「鼓岡」説を主張する運動が盛んになってからなのか不明です。いずれにしても寺譜の配流地変遷の箇所については事実性を否定できる以上、寺譜の記載「府中鼓岡」を根拠にして配流地を述べることは出来ないものと考えられます。
 
配流地の変遷について最も信頼すべき一次資料は、配流と同時に、上皇に極めて近い公家によって書かれた日記(清輔朝臣集)に記載された「讃岐のさとの海士庄」に新たに御所を造営せよという勅命があったという箇所であり、それに反して当時「讃岐」国ではなかった直島に移られたという記載や「海士庄」ではない讃岐国府中の鼓岡を行在所としている記物語等の影響を強く受けて事実内容が変更されていることが明らかなのです。また、1755年に地元史家が書いた「綾北問尋鈔」でも、実際には仁和寺に保管された(「吉記」)五部大乗経が上皇の元に送り返されたので「大魔王となって恨み」の箇所、これも軍記読み物の影響を強く受けて取り入れていることが分かります。いずれにしても、遥か京で作られた軍記物語を取り込んでいる上皇配流先経緯の記載には歴史事実としては大きな疑問があり、むしろ誤りであると言えるのではないでしょうか。

こうした評価からすると、歴史事実の真偽の検証や判断は、地元に残る伝説・伝承間の辻褄や一次資料「清輔朝臣集」を含めて考えていかなければいけないということになります。 その結果、本書では、最初は急遽の配流のため綾高遠の館に仮住いし、次に勅命に従って速やか(数ヶ月後)に「海士庄」に造営された御住居に遷り、およそ2年数か月後に上皇幽閉の必要性が生じたため、国府庁からは一定の距離にありながら外部との接触を絶てる森林中の幽閉場所に遷られた(国府庁の横という賑やかで国府庁内の動きを上から一望できる鼓岡ではない)可能性が最も高いということを、「真光寺」「衛士坊」「侍人」の歴史事実や「神光」の意味、上皇が住まわれた場所への崇敬の歴史や地元伝承を踏まえながら考察しています。 軍記物語とその影響を受けた書物の文字面だけからでは事実は導けないと考えられるのです。

先にも記述したように、寺譜には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり。因って命く。」と、幽閉と監視に関する記載があります。この場所に伝わる「衛士坊」「衛士坊の坂」の名前は、崇徳上皇幽閉の場所と監視役の衛士が居住する「坊」が「明りの宮」の場所にあって、ここに通う衛士が行き来した坂が「衛士坊の坂」であることを伝えています。この記載は軍記物語には関連した記載がないので、幸いにも軍記物語の影響を受けることなく、事実が修正されずに伝えられていると考えられます。

この寺譜は、江戸末期1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」に改題されたとなっていますが、その理由やその時の改訂・修正箇所等については不明となっています。

2020年08月23日

西行法師の道から白峯御陵へ

崇徳上皇崩御3年後に墓所を訪れた西行法師は、白峰稚児ヶ岳の向こう側と知らされた上皇墓所を目指して、白峰山の道なき道を登った。
西行の道、出発直後は近代的に整備された九折の階段を進みますが、御陵参道に至る前には明治時代に整備された登り斜度30度・直線280mほどの石段が待ち構え、もうすぐ参道という所ですが息が上がり足を持ち上げるのに時間がかかる難所になっています。全長1.34km、高低差230m、石段数830段、沿道には歌碑と灯篭が整備されています。

 動画(下)補足:藩政時代には「稚児ヶ滝」や修行場へ向かう橋が架かっていたという場所を紹介しています(5:45頃説明)が、今は柵があるので、この滝は遠望の美しさを楽しむということになります。また、道の後半(白峯古道)途中(9:28頃)には撮影中の転倒場面がありますがご容赦願います。
 映像(You Tube)は、実行程の時間を短縮して紹介しています。

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2020年08月11日

稚児ヶ滝 と 不動の滝 

崇徳天皇白峯陵の北の断崖(稚児ヶ嶽)の西端から流れ落ちる「稚児ヶ滝」と天皇寺奥の院の場所にある「城山不動の滝」は、上皇の祀りに関連する坂出市内にある二つの「滝」です。
それぞれの滝の簡単な説明と映像(下:You Tube)で紹介します。

[白峰山・稚児ヶ滝(ちごがたき)]
白峯寺山門の石橋の下を流れる小さな川は、白峯御陵のすぐ北にある断崖絶壁「稚児ヶ嶽」から流れ落ちる「稚児ヶ滝」となって姿を現します。80メートル程という滝の高さは県内最大級ですが、流域面積が狭いのでまとまった雨が降らないと現れない「幻の瀑布」です。白峯寺、白峯御陵のすぐ近くを巡り流れて御陵の北で瀑布になって現れるのは、「皇室に関わりのある方が白峰を訪れると雨になる」という噂話と何か不思議な繋がりがあるのでしょうか。
*坂出市にあるもう一つの有名な滝は、崇徳天皇社別当寺「摩尼珠院」(廃寺)と天皇寺の奥の院の場所にある「城山不動の滝」です。

[城山・不動の滝(ふどうのたき)]
崇徳上皇の最後のお住まいとなった場所(一次資料に記された「讃岐のさとの海士庄」から遷されて幽閉された場所)を祀るため崇徳天皇社が建立されたとき、この山(金山:かなやま)の中腹に弘法大師が開いた摩尼珠院が別当寺に任じられ、天皇社の場所に移転し再建されました。この崇徳天皇社(現在の白峰宮と天皇寺)の南の山、城山(きやま)の中腹にある「不動の滝」は、摩尼珠院と天皇寺の奥の院の場所にあたり、古い時代から修験者の修行の場・霊場だったようです。

この地に伝わる話によると、「上皇が崩御されたとき、城山のこの谷にある不動滝の横を墓所とするのが第一案でしたが「あまりに近すぎる」ため白峰を墓所とすることになった」という話しが口伝で遺されているそうです。いずれも真言密教や修験者の修行と縁のある場所ですが、不動の滝のある谷は上皇が住まわれた天皇社(明りの宮)から見上げる所、白峰は高い山上の修験の場所(寺)に隣接している所、何れかという選択肢・・。京の政権人はこの辺りの地勢には不案内ですから、讃岐国府庁が示した案の中から決定されたというのが現実の姿だったのでしょう。
 (不動の滝 上の映像:夏季  下の映像:冬季 の撮影です)

 

稚児ヶ滝

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不動の滝(夏)

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不動の滝(冬:氷結)   2021年1月

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2020年07月19日

崇徳天皇社 勅使道

坂出市の鎌田池北東角にある「一里木(いちりもく)」から里山沿いに東へ向かう道は、江戸時代に「勅使道」と呼ばれ、京から来た勅使が福江の津と崇徳天皇社(明りの宮)の間を往還した道です。
崇徳天皇社(「明りの宮」(現在の白峰宮)と別当寺「摩尼珠院」(現:天皇寺高照院)は、後嵯峨天皇が崇徳天皇御座所跡に崇徳天皇社として再建し、江戸末期までの約800年間に亘って厚く崇敬されました。明治初年まで毎年、襟裡御所(朝廷・天皇)より祭祀料として白銀5枚を下賜されていたほか、高倉天皇、土御門天皇、御嵯峨天皇、孝明天皇、明治天皇、領主(生駒家、松平家)や武家からも寄進がありました。「崇徳天皇社が高い格式を持った事は、京都襟裡御所と領主の政治的経済的庇護の背景によるものであるが、その格式と権力の基礎となったのは崇徳天皇の行在所」であったからで、則ち行在所であったことが「信仰の場として端を発し」、「明治維新まで、社事の報告のため、毎年京都の襟裡御所へ参内することになっていた。格式ある駕籠に乗って、襟裡御用の立札を立て・・・、宮中からは毎年下向使が祭司料をもって摩尼珠院へ来た。福江(の津)から谷内、天皇(社)に通じる旧往還を勅使道と呼んで」いました。(「」内は三木豊樹氏著「真説崇徳院と木の丸殿」から抜粋引用。)
「勅使道」の起点となる坂出市の鎌田池北東角の三差路にある「一里木(いちりもく)」は、「天皇さん」へおよそ1里ほどの距離であることからこう呼ばれています。山沿いの福江町、谷町、金山小学校前、江尻町、西庄町八十場を通って、白峰宮・天皇寺に至る道が勅使道です。

この道を「一里木」から崇徳天皇社に向かって撮影した写真と動画(ドライブレコーダー)を掲載しました。昔の風情を残す沿道には、金山産サヌカイトを塀や家の基礎に使っている様子が今でも多く残り、勅使道の姿を伝えています。

上(写真スライドショー)・ 下(動画)

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勅使道沿い創業124年の「池田商店」
明治29年創業の懐かしい駄菓子屋さんが勅使道沿い(福江町)にあり、近くの方の生活品、お酒、菓子などを売って120年以上も頑張ってこられました。今(取材後に閉店されました)は駄菓子を置いて子供達を待っていらっしゃいます。お近くを通る機会があれば、子供・お孫さん、ご年配の自分用にもお菓子を買ってお店を応援しましょう。店内は、左右正面に駄菓子が・・懐かしいものもあり、私はキャラメル、シガーフライ、都こんぶ等を買いました。建物も100年以上前の、立派な梁です。毎年秋まつりに子供獅子が店先で舞ってくれるのを楽しみにされています。
令和二年十月末日をもって惜しまれながら閉店されました。長い間、地域や子供たちのためにありがとうございました。沢山の子供達の心にずっと残っていると思います。

 

「勅使道」が繋いだ地域の絆
一里木から4km弱、勅使道は福江、谷内(谷町)、江尻、西庄八十場を通って「天皇さん」に至ります。道は、その道が通る地域の人や物を流通させ、地域の思いや文化までも繋ぎます。そして、現代までその形が残っているものがあります。
福江、江尻、西庄は、明治期に役場や小学校が共同(代表役場、本校・分校の関係など)だったこともあります。勅使道の中間あたりにある「金山小学校」は、福江と江尻が明治時代に合併した旧「金山村」校区の子供達が通う学校で、両町の中間あたりの別の町内に建てられたこの小学校に子供たちが集まってくるのは、まさに勅使道が繋いだ歴史だと言えます。(金山小学校は、校区外の「谷町」に立地。「谷町」は金山と笠山の二つの山に挟まれた所で江戸後期までは海で、塩田ができてから人が増えていった場所なので谷町辺りの勅使道は海岸線沿いの山道でした。)
白峰宮(旧崇徳天皇社)の例大祭(10月第一日曜日)には地元の西庄町内と、福江・江尻からも獅子舞や太鼓台が集まってきます。また、崇徳天皇社の別当寺になった摩尼珠院が元々はあったという、金山中腹の「瑠璃光寺」「金山神社」の境内地では明治期まで江尻の皆さんを中心に周辺からも集まって春市や夏祭りを賑やかに楽しんだ交流の歴史が続いてきたそうです。崇徳上皇行在所(「明りの宮」崇徳天皇社)への信仰が基になって、福江の港と「天皇さん」を結ぶ「勅使道」が通る地域が繋がり、育くまれてきたことが分かります。

2020年03月25日

衛士坊の坂

天皇寺高照院の東側石垣土塀 に沿って、北に向かって下の県道33号の方へ下がる百五十メートルあまりの坂道は、古来より「衛士坊(えじぼう)坂」(衛士坊の坂)と言い伝わっています。坂の上にある天皇寺高照院(江戸時代までは「摩尼珠院」)の場所には、この地に幽閉した崇徳上皇を監視する衛士の詰所(坊)があったと地元で伝承されています。「摩尼珠院由来」にはそのことを「衛士坊天皇遷行の時、供奉の衛士居住の地なり、因って命名す」と、由来を明らかにしています。
ここに「坂」の名が付いて言い伝わっていることは、この上に「坂」の目的地があり人が移動していたことを表しています。則ち、「衛士坊」は崇徳上皇の御座所を監視するため衛士の駐在場所のことで、衛士が五年余に亘って通った道が「衛士坊坂」の地名になって後世に伝わったことがわかります。

都で作られた「保元物語」で上皇幽閉地とされた「鼓岡」は、はるか遠い都の地で確認されないまま書かれた創作であったことがこれにより明確になっているのです。
上皇がここに遷されたのは讃岐配流からおよそ三年が経過していた平治の乱の頃、京の命令に依り「讃岐のさとの海士庄」からこの地に幽閉されたと考えられます。

動画(下)補足:衛士坊坂の下県道33号線側のJR踏切を越えた所から、天皇寺の入口前まで徒歩で登ってみます。途中、十字路の南西角には「摩尼珠院」の立岩(江戸時代)があります。

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2020年03月06日

白峯寺 大護摩法要

令和2年と令和4年の大護摩法要を、
令和2年については上段の写真と記事で、
2年ぶりに開催された令和4年の大護摩法要については下段の動画(You Tube)でお伝えします。

令和2年(2020年)1月の大護摩法要



白峯寺では、1月の最後の日曜日に大護摩法要が行われます。修験者が結界を切って入った護摩法要の場所で、訪れた人の願いが書かれた木札を煙と炎の中に投げ入れて祈願します。濛々と沸き立つ煙は、例年は一般参拝者を包むように広がってから空に向かうのですが、今年はまっすぐ上に向かって駆けあがったのが印象的でした。

修験者たちは、炭を均した上に敷いた木の板が燃え上がった所を歩きます。炎が上がっている中を歩く姿は見ているだけでも緊張する迫力です(写真下)。「火渡り修行」を事前に申し込んでいた一般の皆さんは自分も同じことをするのかと想像して怖気づいていましたが、一般参加者の時には火を消してさらに杉の葉を掛けた上を歩くという「火渡り修行」になります。渡った後に湯の入ったタライに足を浸けて炭を落とすと、災いを落とし厄払いが出来た心地になりました。
この間、崇徳上皇と上皇を御守りする天狗を祀る「頓証寺殿」の中では「大般若転読法要」が行われ、真言宗の祈りの時間を共有させて頂くことができます(頓生寺殿に上がって、お参り・拝聴することが出来ます)。この読経が終わるころには、大護摩壇の燃えた木も片づけられ始めると、参拝の皆さんは修験者にお断りをして、結界を示す縄に付いていた紙垂(しで)を持ち帰られます。

下の動画:令和4年(2022年)1月の大護摩法要 (2022年2月1日追加)

今回の修験者(行者)の皆さんは、県内からのみのお集まりだと伺いました。
大護摩法要と大般若転読法要(頓証寺殿の外から遠景撮影)の模様。

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2020年01月26日

崇徳上皇崩御の日

上皇が「柳田」の地で凶刃に倒れられた長寛2年8月26日は、現代の暦では9月14日にあたります。その後、荼毘に付されるまでの伝説の旧暦と現代暦は次のようになります。
旧暦 9月16日・・現代暦10月3日、柩が野澤井(八十場の泉)を出発して白峰山に向かった。
   9月17日・・同10月4日、豪雨のため高屋の阿気あたりで留まる。 棺を置いた石に血が鈍染。
   9月18日・・同10月 5日、白峰で荼毘に付された煙が、後に「煙の宮」が祀られた谷あいに数日間漂ったと伝えられている。 

2019年09月14日

弥蘇場地蔵堂、八十場の泉

 流水灌頂(ながれかんじょう)


八十場の泉の隣に佇む弥蘇場(やそば)地蔵堂。流水灌頂は古くから続く風習と言われ、水の災難や難産で亡くなられた方などが供養されています。板塔婆が泉の中に置いてあり、お地蔵さんには八十場の霊水を注ぎます。天皇寺高照院のご住職らが本堂でお勤めの後、お地蔵さんに水を注ぎ、続いて地元の皆さんが水を注いで供養します。昔は日本中で見られた風習だったそうですが、今でも残っているのは非常に貴重で、先祖供養や家内安全などを祈る庶民の思いが引き継がれた行事になっています。毎年7月の第3日曜日に行われています。

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地蔵堂内の、擬人化された拝む「キリン」(常設ではないと思いますが)。市内の造形作家によるこうした作品は最近、市内数か所に置かれ市民や観光客を癒しています。(2022年5月撮影)

八十場の泉 :動画(2021年3月撮影)

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補足八十場(やそば)の泉は、古くは「安庭水」、後に、日本武尊の大魚退治伝説により「八十蘇水」に、さらに崇徳上皇伝説の頃より「野澤井」と改められた(「綾北問尋鈔」(1755年)要約)という。「全讃史」(1828年)には「野澤井、今の八十場」と記されています。

2019年07月21日

白峰宮 例大祭

 

白峰宮例大祭は、毎年10月第一日曜日に行われます。現在まで、京から上皇を慕ってきた侍人の末裔の皆さんが神輿を担ぐ伝統が続いています。西庄、江尻、福江の獅子舞、だんじり、太鼓台が参加し、普段は静かな境内が賑やかな場になります。

2018年10月07日