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検証(鼓岡 、崇徳天皇社)

    前のブログ記事「検証(しど 直島 松山)」から続く

[鼓岡と西庄崇徳天皇社の由緒]等(注:和歴を一部は西暦・英数字で記載)

●鼓岡神社
 ①「鼓岡神社由緒」
・「建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峯御陵に移し跡地にこれに代わるべき祠を建立し上皇の御心霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の草創と伝はれている。」(境内表示の由緒書き)
・「建久二年閏十二月宣旨により崇徳院崩御の所に一堂を建て仏事を勤めさせる事にしたのが此の神社の草創といわれている。尚地方誌には上皇の近侍遠江の阿闍梨章実という僧が鼓岡の御所を白峯に移して頓証寺と号し御菩提を弔い奉りその跡に代わるべき社を建てたと伝へている。」(「村社 鼓岡神社 由緒 明治十二年愛媛県権令岩村高俊に提出のもの」(『府中村史』より)

 

●西庄崇徳天皇社
 ①「白峰宮御由緒書」
「長寛二年(1164年)10月10日第78代二條天皇命により社殿を造営し霊を祭り、第80代高倉天皇は当国の稲税千束を納め、源頼朝も稲税を納めて下乗の碑を建てられた。第83代土御門天皇は当宮を尊崇して勅願所を仰せ出され第88代後嵯峨天皇は社殿を再建し御宸筆の御願文に御手形の朱印を加え、荘園を御寄附し給われた。」
 ②「白峯寺縁起」
「国府の御所を近習者なりし遠江阿闍梨章実、当寺に渡って頓証寺を建立して御菩提をとぶらいたてまつる」。
 ③「伝」
二条天皇宣下により、「もがり」のあいだ神光のあった地に祠を建てた。
●「山家集(西行) 
松山の津と申す所に、新院のおはしましけむ御跡を訪ね侍しに、かたちもなかりしかば」*崩御の3~4年後と伝えられている。
玉葉(九条兼実の日記)

参照:『玉葉 第三』(国書刊行会)巻第六十二
  :『訓読玉葉 第8巻』(高科書店)玉葉巻第六十二

建久二年閏12月 抜粋(訓読と書き下し:後白河院は病床にあり)

14日の条
崇徳院並びに安徳天皇等、崩御の処に一堂を建て、かの御菩提並びに亡命士卒の滅罪の勝因に資すべき事、申し沙汰すべき由、泰経に仰せ了り、即ち退出し了んぬ。 
20日の条
崇徳院、安徳天皇等の奉為、一堂を讃岐、長門等の両州に建てられるべき事、並びに崇徳院官幣に預かるべきやの事を奉す。・・その趣きに随い、沙汰あるべし。
22日の条
(崇徳院、安徳天皇の怨霊を鎮めらるべき事)各定め申し了んぬ。左大弁に仰せ、直ちに奉せしむ。而るに御寝に依り申し入るる能わずと云々。仍って人々退出し了んぬ。
一 崇徳院御陵辺りに(讃岐国)一堂を立て仏を置かるべき事、一同尤も然るべき由を申す。民部卿(藤原経房)申して云はく、讃岐国仏寺を置き、田園を寄する事これありと云々。委しく尋ねらるべきかと云々。件の沙汰院の沙汰たるべき、又公家の沙汰たるべきやの事、人々の申状一同ならず。但し多分宣旨を下さるべしと云々。余これに同ず。
 一 国忌山稜の事、(略)
 一 崇徳院成勝寺の事、(略)  
 一 官幣の事、(略)
 一 安徳天皇の御事、(略) 
讃岐国に尋ねらるべき事、
 崇徳院の御陵、堂舎あるやの事、
 何仏の事を置かるるやの事、
 寺領田園子細の事、
28日の条
 崇徳院讃岐国御影堂領、官符を給ふべし。又長門国一堂を建つべき由、宣下すべしといえり。皆御定めに任せ、宣下すべき由仰せ了んぬ。略)

 **以下、(部分)書き下し**

14日の条
崇徳院と安徳天皇等の崩御の処(御陵)に堂宇と建て、その菩提を弔うとともに亡き武士たちの罪が許されるように沙汰すべき旨を(後白河院が)藤原泰経に仰せられた(*発案した)ところで、退出した。   *筆者注
20日の条
崇徳院と安徳天皇等の為に一堂を讃岐と長門に建てるべきであること、崇徳院御影堂に財政支援すべきことを申し上げた。その趣旨に従った何らかの措置があるだろう。
22日の条
崇徳院、安徳天皇の怨霊を鎮めるべき事を定めた。左大弁(朝廷の行政事務を取り仕切る役職)に直ぐに後白河院に申し上げさせようとしたが、院は眠られたということだったので、皆退出した。
一 崇徳院御陵辺りに(讃岐国)一堂を立て仏を置かるべき事について 皆、そうすべきことを述べたが、民部卿(藤原経房)が言うには、既に讃岐では仏寺を置いて田園が寄進されているので、これについて詳しく調べておくべきであるなど。この沙汰を院から行うか公家から行うか皆の意見は同じでなかったが、院の意向によるだろうと意見があったのでこれに同意した。
(略)
讃岐国について調べておくべきこと
 崇徳院の御陵、堂舎があるかどうか、
 何の仏を置いているか、
 寺領田園の子細、
28日の条
崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給い、長門国には一堂を建てるべきと宣下すべきである。決められた手続きによって宣下すべきであると命じられて、終えた。


*(参考:天皇や院の「沙汰」の流れ)*
1.発案(重要事項は天皇や院により発議)     ・・ 14日の条
2.評定(公卿が集まり評定が行われ意見をまとめる)・・ 20日、22日の条
3.決定(評定の議論をもとに命令内容の決定)   ・・ 28日の条 
4.宣下(詔や宣旨という形で行われ、公文書に記録される)
**「玉葉」の記録は上記「沙汰」決定の手順を経ていることが分かる**


●「風雅和歌集」
寂然が上皇配所から都へ帰る際に詠んだ「・・君が住むそなたの山」、西行讃岐訪問の時の「松山の津と申す所に院おはしましけん御跡」とあるのはいずれも最後のお住いとなった場所のことを指しています。この二首の歌から、上皇幽閉御所は「山」の麓から中腹付近と考えられ、かつ「津」に近いと認識できる場所だと分かります。これは京の人が行政区域の「松山郷」を認識している必要はなく、現地を見た認識に基づいて表現されている。

上記のうち「山家集」「玉葉」「風雅和歌集」が一次資料です。西行は、讃岐の上皇配所訪問に当たって、上皇崩御後に讃岐から京付近に帰った女房兵衛佐局や上皇幽閉期間中に配所を訪れたとされる「蓮如」から配所の具体的な位置を聞いたと思われ、その場所を把握したうえで、上皇が崩御のときまで6年近く住まわれていた場所を訪ねることができたと考えられます。

以上の資料から次のように検証されます。

1.西庄崇徳天皇社の由緒によると、白峯で荼毘に付された20日後に二条天皇宣下により社(やしろ)が建てられることになったというこの場所に御所があったと考えられる。一方、鼓岡神社由緒に従うと、木の丸殿を初めて移転したのは1191年で崩御27年後まで所は同じ場所に残されたままになっていたことになる。

2.西行法師が白峯陵に詣でたのは上皇崩御3~4年後。西行は上皇が崩御の時まで住まわれていた場所を訪れたが上皇お住まいは無くなっていたと詠んでおり、これは事実を反映していると考えられる。
白峯寺縁起では、荼毘に付した旨の直後に「国府の御所」の白峯への移転が書かれ、さらに西行訪問の話へと続いている。従って、阿闍梨章実が御所を遷したのは 上皇崩御から西行讃岐訪問の前までの出来事である。

3.鼓岡神社由緒では1191年、後白河院の命により白峯の堂宇とするため上皇が住まわれた鼓岡御所を移転したとしている。しかし、「玉葉」の事実記録による堂宇は既に建立されていたことが分かったので最終決定された沙汰(28日の条)には崇徳院の堂宇建立に関する内容は無く、御影堂領に官符を給う宣下になっている。つまり、同神社由緒の、「宣旨に基づいて鼓岡の御所を遷して峯御陵の一堂にした」としている箇所は「玉葉」の事実記録と整合していない。(長門国については一堂がなかったので安徳天皇の菩提のためこれを建てる宣下が決した

御所(木の丸殿)の移築については白峯寺縁起にあるように崩御の後、速やかに行われており、そうすると一堂が既にあったという「玉葉」と符合している。崇徳天皇社の場所にあった「木の丸殿」こそ御陵の辺りに既に建立されていると報告された「堂宇」或いはその前身となった建物だったことになる

4.鼓岡神社由緒では1191年を神社の草創として捉えているが、その後の崇敬の歴史について伝えるものが何もない。一方、西庄崇徳天皇社では歴代天皇、有力者が崇敬の歴史を重ねており、祀るべき重要な場所であると認識されていた

5.前のブログ「検証(しど 直島 松山)に記した寂然の「そなたの山」と西行の「松山の津」が示す上皇幽閉御所の場所は、海岸線から遠い「鼓岡」ではなく、金山(かなやま)の麓にあり当時は海が眼下数百メートルまで迫っていた京へ帰る船からその山を望むことができた西庄崇徳天皇社の位置は、「山家集」と「風雅和歌集」が示す条件を満たし、鼓岡の位置はこれらと整合していない  

**「鼓岡」と「西庄の崇徳天皇社」の検証結果(まとめ)**

「鼓岡神社由緒」では、沙汰決定前の「発案」(12月14日の条)の内容を神社草創の根拠にしている。しかし、崇徳院の御陵辺りは既に堂宇があった(12月22日の条)ので実際に決定した「沙汰」(12月28日の条)の内容には「一堂」建立含まれていない。宣下を受けて鼓岡の御所を移転したという神社由緒は事実と相違していた

建久二年の崇徳院御影堂領に官符を給う「沙汰」の前に既に御陵辺りに存在していた堂宇とは上皇崩御後に速やかに遷されていた「國府の御所」だった白峯に移転されたその建物で崇徳上皇の菩提が弔われていた。


白峯に移された崇徳院お住まいの「國府の御所」は、後に崇徳天皇社が建立された場所にあった。『白峯寺縁起』には「國府甲知郷鼓岳の御堂」とあるので、その地は当時の甲知郷に属し、御堂(御所)が置かれた『鼓岳』と記された山は崇徳天皇社がある「金山」を指していることが判明した。


(御所の場所を混乱させた諸本「金刀比羅本」等)

保元物語のうち最も古いと言われる「半井本」では上皇の最期となる御所の位置は「国府」と書かれ、その表現は特定地ではなく一定の範囲を示す表現でした。後に書かれた諸本「金刀比羅本」では「国府」と表現された範囲内にある「鼓岡」だと特定して書かれました。「鼓」の文字から京を連想させることなどから上皇行在所としたのでしょうか。しかし、その結果「金刀比羅本」などの「鼓岡」は、史実の認識を誤らせる方向に働いたのです。

「金刀比羅本」では途中の配流地を讃岐国ではない「四度郡直島」や「四度道場辺鼓岡」に移り、と地理認識が低く混乱しています。同様に、「鼓岡」にも具体的根拠はありません。つまり、書かれていた配流先地名は元々どれも信頼性を欠いていたのです。「鎌倉本」においても「志度郡直島」「志度の道場という山寺」「古活字本」でも「直島」「志度」地理的に整合しておらず、いずれも讃岐の地理・地名に関して真面なものではなかったことが分かります。
このような諸本の配流地名はいくら比較検討してもその中から史実を見出すことはできないものだったのに、これらに拘泥した分析になったことは誤りでした。


保元諸本に書かれた讃岐の地名はこのように信頼を欠くものでしたが、金刀比羅本などはフィクション性が強く「面白い」ため広く流布して、全て事実であるかのように心理的に受け入れさせる程の影響力があったようです。平家物語の異本である源平盛衰記などにも「鼓岡」が引き継がれたのですから、その影響は大きかったと言えます。讃岐内においても江戸時代の地元誌「綾北問尋鈔」は金刀比羅本等の明らかなフィクションを史実であるかのように取り入れて影響を与えています。そしてこれらのフィクションを本当のように伝えるための「伝説」も作られました。

しかしながら、江戸時代のこの地の領主(藩主)生駒家・松平家は、白峯御陵と西庄崇徳天皇社に対してたびたび寄進して崇敬しているほか、松平家初代頼重公は「天皇御座所なれば」として別当寺摩尼珠院に京から住職を招いています。一方で、「鼓岡」に対しては藩主や有力者から何の崇敬措置もなかったのは「鼓岡」は流行本の中のことであって史実根拠はないことが知られていたからだと考えられます。

それでも保元諸本が流行したことによって、誤って書かれた配流地名でありながら少なからず影響し誤解を与えていたと思われます。明治時代以降の、神仏判然令による摩尼珠院廃寺をきっかけにして地域振興を図ろうとする「鼓岡顕彰運動」は、崇徳天皇社における歴史事実を尊重せず、鼓岡説を事実化しようと各方面に働きかけた大きな運動だったようです。

鼓岡神社には、参道石段沿いに「杜鵑塚」があり、「啼けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」と崇徳上皇が京を偲んだ歌だと供養しており、境内の由緒板にもこの歌が書かれています。しかしこれは後鳥羽上皇が隠岐で詠んだものですから、鼓岡の権威付けのために流用したと思われます。明治から昭和初期にかけては「鼓岡」を正当化するためのフィクションが作られ、そのことが許された時代だったということなのでしょう。

こうした、歴史修正が実行された経緯は、「歴史」の性質を考える一助になることでしょう。



崇徳天皇社(2024春撮影) 白峰宮と天皇寺髙照

2024年05月26日

検証(しど、直島、松山)

[保元物語の讃岐地名を探る]

保元物語諸本に書かれた上皇配所地名は「四度、志度、志戸、四戸、直島、讃岐国府、松山の堂、鼓岡」等がありますが配流地名・配流順は混乱しています。こうした状況になったのは、京における乱の出来事については概ね詳細かつ正確に把握されている一方で、讃岐における出来事や地名については、事件から数十年経って物語が作られたとき遠く讃岐まで来て調べた訳ではないことが反映されているからでしょう。
このことから、都における出来事の詳細な記載に引きずられて讃岐内の記事を同列には評価できないことが読み取れます。
これは、配流地讃岐は京からは遠隔地であり、配流8年余の中で幽閉されていた期間が長かったことが讃岐での具体的な事実記録が極めて少ない原因と考えられます。配流地名については上皇崩御地名から転化したと思われるもの(「しど」に漢字を充てた地名)や、伝聞による地名と思えるもの(国府、鼓岡)等が見られるので、それらの信頼性を改めて確認していきたいと思います。


(1)「しど」について

先ず、上皇崩御の地名から転化したのではないかと考える「四度、志度、志戸、四戸」(いずれも読み方は「しど」)について分析してみます。
保元諸本にこれほど多くの「しど」が使われているのは何故でしょうか。背景には、上皇が崩御されたこととその土地名を示す「しで」が京に伝わった後、数十年のうちに京でなじみのあった「しど」の音に変化し、さらに上皇崩御のこの地名は配流先の地名としても採用されて、「志度」や「四度」等の字が充てられた可能性が高いのではないでしょうか。

「しで」を崩御地の情報として「讃岐院はしでの地で崩御された」ということを京に伝える必要があったのは、「しで」が歴史のある場所だったからでしょう。「しで」は、菅原道真公が讃岐干ばつのおりに降雨祈願のため死装束で出発し住民に見送られた地名であると伝わっています。今は「天神」という地名になっていることが城山神社石碑に残されていますが、現在の「天神」地名はまさに上皇が暗殺されたと伝わる「柳田碑」周辺(「しで」)を指しているのです。

つまり、これほど 多様な、鼓岡の地元には存在していない「しど」が保元物語の諸本に執拗に出現しているのは、「しで」が上皇崩御の重要情報として京に伝わっ たものが音変化しと考える外には理由が見当たらないのです。香川県東部の「志度」「志度寺」もともと崇徳上皇との繋がりは歴史事実としてないことからもそのようにえるほかないのです。
上皇はその日、国府庁で開かれた鼓の宴に招かれて八十場の幽閉場所から誘い出されて国府庁の隣接地で暗殺されたと地元では伝わっています。その崩御地名が京に伝わったあと「音」が転じて「しど」となり、配流先として採用されたと推測しています。この辺りには「しど」という地名が全くないことからも「四度」「志度」「志戸」「四戸」は本当の配流先地名ではないと考えています。こうして、すぐ近くに位置する「しで⇒しど」と「鼓岡」が配流地として採用されたのでしょう。


現在府中町にある「四手池」は江戸時代の築造時に、由緒ある「死出」の地まで水路が伸びて潤す池として同じ音名付けられたのではないかと考えられるので、平安時代に「四手」池はありませんでしたから、「死出」から「しど」に音変化したと思われます。

(2)「直島」について

保元物語諸本にある「直島」はどうでしょうか。端的に言えば、「直島」は当時、備前国に属していたことが証明されているのですから、保元金刀比羅本等にあるように讃岐国司が勅命と異なる他国に御所を建てて御遷幸されることなど絶対にあり得ないのです。直島は海上移動の寄港地でしたから汐待、風待ちのために数日間留まったことは十分想定されるので、事実関係としては、その間の上陸・宿泊に関連した場所が後に祀られたということなのでしょう。 
ここでの滞在は数日であっても、京から直島に至るまでに感じた無念や寂しさと讃岐の配流地で予想される厳しい生活への覚悟が必要な耐え難き時間であったろうと思うと、この島で上皇御一行が関わられた場所はまさに祀られるべきなのだと思います。


(3)「国府」「松山」について

保元物語の最も古い形態を留めるとされている「半井本」では、「御所は国府にありけり」「讃岐国府にて御隠ありぬ」となっています。これらの「国府」はその場所を特定した表現なのでしょうか。

「国府」と書かれていることを受けて、一部には上皇行在所は国府庁内にあったとする意見もありますが、保元物語の上皇配所は地元の歴史事実なども踏まえて評価しなければいけません。半井本には蓮如が幽閉場所の柵内に入って歌のやり取りをしたことが書かれていますが、幽閉場所を囲む門に入ったという状況から、それが国府庁内ならば約6年に及ぶ上皇行在所を示す地名が残っているはずなのに讃岐国府の発掘に伴う地名調査からは直接的にも間接的にも行在所を示す地名は見出されていません。
半井本の「国府」は、綾北平野のうち綾川両岸の国府庁から港湾地区までのどこかに上皇幽閉場所があったけれども特定地名は示していないことになります。半井本作者においても幽閉場所の現地調査は行っていないと考えられ、誤りではないものの否定されない広めの範囲で記載したと考えられます。

保元物語に出てくる讃岐の地名で確定的なものは御陵のある「白峯」だけで、それ以外は誤りや現代地名と比較すればかなり広い範囲を指すなど不確定な記載になっています。保元物語の中では最も古い形態と言われる「半井本」の「国府の御所」は、広い意味では事実と言える一定の地域の範囲を示していますが、その範囲はやや広く、「松山」の記載と同様に海岸線から国府庁の付近までの東西南北の範囲を指していると理解でき、決して現代地名のように特定地名の記載ではないのです。

「松山」については、「松山」が讃岐においてどの地域だと認識されているかではなく、保元物語が書かれたのは京ですから京の人においてどのように認識されたかによって「松山」を受け止めなければいけないはずです。「松山」が松山郷を指しているというのは讃岐人の地元認識に過ぎません。つまり、配流直後の「海士の庄」の「松山の堂」も、幽閉御所を指す「松山の津と申す所」もいずれも京の人が認識する「松山」に含まれていて、国府庁からか海岸線に至る南北の範囲と、船から展望することのできる東西の範囲(現在の坂出市御供所から大屋冨)を含むぐらいが「松山」と認識されたのだろうと理解すると、古書に出てくる「松山」の範囲に整合しています。

(4)「鼓岡」か「西庄崇徳天皇社」か
軍記物語には特定の地名記載がない場所、つまり二条天皇が鎮魂の祠を建てたという場所は当時、未開森林の中(これが幽閉場所に選定された理由ではないか)で特定の地名はなかったと思われますが、そこは「国府」や「松山」の範囲内だと認識され得る地域にあります。「国府」と書かれた範囲内に含まれていると分かれば、天皇社の場所も軍記物語に記載があったと認識できるのです。
二条天皇が祠の場所を決定した重要な根拠は上皇お住まいの場所だったからということ以外に理由はありません。伝説の「光明(神光)」はそのことを間接的に示しているのでしょう。いずれにしても、上皇行在所だった可能性があり、「物語」の地名が表す地域内に含まれていると理解できることからも、配流先の検討対象から外れることにはならないでしょう。

そうすると、配流の3年ほど後に「海士の庄」の御所から遷って幽閉された場所は、保元物語に記載された「国府」範囲内に所在する、
特定地名「鼓岡」、或いは
「国府」の認識に含まる場所にあって二条天皇が鎮魂の祠を建てた特定地名のなかった場所、
いずれかということになります

次の記事では、上皇の幽閉された御所がどこにあったのか、鼓岡か西庄の天皇社の場所か、最終的な検証を行います。



   次のブログ記事「検証(鼓岡 ・崇徳天皇社)」へ続く

2024年05月26日

衛士坊・上皇幽閉の時の根拠

摩尼珠院寺譜(由来)には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり、因て命く」とあります。崇徳天皇社の地元では、昔から衛士住居地に至る坂を「衛士坊の坂」と呼んでおり、坂の上の天皇寺高照院、昔の摩尼珠院の処が衛士坊の跡だと古くから伝承され(三木豊樹氏著『真説崇徳院と木の丸殿』17p)ていて、由来と伝説の内容が一致しています。衛士坊と衛士坊の坂の地名が摩尼珠院由緒と共に後世に伝承されたことは、上皇のお住まいと深い関りがあることを物語る確かな証拠とされています。この地名の起こりこそ崇徳上皇の行在所を五年余に亘って監視した衛士坊があったことを立証するものだと評価できます。

これに対して「神仏判然令」が発出された明治初期に摩尼珠院廃寺を受けて鼓岡を上皇幽閉場所だとする説を大々的に主張する運動が鼓岡で起こりました。その中で、摩尼珠院寺譜にある上皇幽閉にあたってお住いを移したことを指す「遷幸」のことを、崩御後の殯(もがり)地への御遺体の移動のことだと解釈して、その時に柩の警護役の衛士が住居を構えた場所を「衛士坊」だと説明しました。
これは、天皇社地元に伝わる内容を入れ替えて、衛士坊を殯の間の一時的な施設とすることで「鼓岡」を最期のお住い(幽閉場所)とする主張を通そうとしたと考えられます。明治以降の鼓岡説にとっては、天皇社の地元に伝わっていた衛士坊と衛士坊坂の伝説は都合の悪いものだったのです。

「天皇遷幸の御時」の正しい解釈

では「遷幸」の文字は譜でどのように位置づけられているのでしょうか。寺譜本文中には「讃岐國に遷幸あるべき」の記載があるほか、「神人(上皇を慕って都から讃岐に来た官人で、天皇社祭礼の時に神輿のお供を許された者)の項目に「此皆、天皇遷幸の御時、遁従し奉りて本邦に来る者の苗裔也」とあります。いずれも文字どおり「遷幸」は上皇行在所の移転のことなのだと理解できます。他方、殯の場所への御遺体の移動は「八十蘇の水に浸し奉る」としていますが、殯の時の衛士の居住地として説明するなら「衛士坊 天皇殯の御時、供奉の衛士居住の地・・」となっていなければいけません。
従って、「衛士坊」由来説明に見える「天皇遷幸の御時」とあるのは実際に住まわれる場所をこの地に遷されたことを示し、その時の監視役の衛士居住地を「衛士坊」と呼んでいるというのが文意に沿った、歴史事実に対応する解釈になります。

摩尼珠院寺譜は江戸時代中期に寺が上梓したとされ、その頃は軍記物語が広く流行していて、それらの文書に寺譜も強い影響を受けたことがわかります。それは、当時は讃岐国ではなかったのに「直嶋に皇居をうつし奉る」や、大乗経を「椎門の波底に沈め」など事実とは捉えられないことを取り入れているからです。そして「直嶋」に続く「府中鼓岡にうつし奉る」を妄信してしまえば、行在所は鼓岡で、ならば衛士坊は殯の間だけ存在したものという誤った解釈に転じてしまうのです。

摩尼珠院の「寺譜」は部分的に流行本に寄った記述になっていることから全体としては事実記録書というよりも真偽が混在していることは間違いありませんが、その中でも、軍記物語の影響を受けていない箇所には寺に独自に伝わる本当の歴史が残されているとことに注目しなければいけません。

以上を踏まえると、寺譜に書かれた「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住」の解釈について、この箇所は軍記物語に影響されたものではないという点や、記述の文理解釈からすると、摩尼珠院の地元に伝わっているように「衛士居住の地」というのは上皇幽閉期間中のことを指しているという理解が歴史的に符合していると考えられます。

2024年03月01日

「鼓岡」説の経緯と教訓  

 このWebサイトでは、崇徳上皇讃岐配流の際に幽閉場所となったのは保元物語に書かれた「鼓岡」ではなく、上皇崩御直後に二条天皇宣下によって祠が建てられ、後嵯峨天皇が摩尼珠院を別当職とする崇徳天皇社として再建し、現在「白峰宮」と「天皇寺高照院」のある場所だと、色々な角度から分析して、何度も何度も繰り返して掲載しています。
今回は、誤認だと考える「鼓岡」説に影響を与えた経過に触れながら歴史研究の留意点が何なのかを考えてみます。

保元物語「鼓岡」の影響

保元物語では、京における騒乱については出来事の経過などがかなり正確に書かれているようですが、讃岐配流(特に地名)に関してはこれと同じ評価は当てはまらないと考えています。讃岐の地名については一定の聞き取りをしていると思われるものの、地名が包括的だったり近隣の代表地名であったり、周辺を含めた広い範囲を示す地名など、「白峯」以外の地名については正確に場所を捉えているか疑問が残る状況です。当時備前国に属していた直島に讃岐国司が御所を作ったとするなどの明らかな誤りも見過ごしています。
また、初代藩主松平頼重公はじめ歴代藩主は上皇最後の配流地がどこなのかを知っていて天皇社に対しては寄進を繰り返していた歴史や、「雲井御所」碑建立の際に、上皇お住まいがあった場所は決して忘れ去られてはいけないという旨の強い思いが碑文に書かれていることと鼓岡説との関係を見落としていることについても、軍記物語(保元金刀比羅本や平家物語異本)に対する絶対的肯定感が背景にあったのでしょう。

明治の神仏判然令(廃仏毀釈)の影響

「鼓岡」説を強化した二つ目の原因は明治維新の神仏判然令(廃仏毀釈)です。
鼓岡神社は、明治の神仏判然令を受けて、神仏習合の寺院を否定して神社を崇敬させる明治政府の強い政策を受けて、江戸時代に「草庵」があったと報告されている場所に建立されたのですが、草庵の場所「鼓岡」には上皇お住いの場所に相応しい儀礼の記録がありません。鼓岡神社は、明治政府が政策上の必要から神仏判然令を公布した後、この政令に沿うように神社としての社格(村社)申請が明治10年に行われました。社格を必要とする理由を、「この場所は崇徳天皇の御霊を村民が崇拝し続けてきた」からとしていますが、そうした実態の記録はないようです。
他方、上皇崩御直後の二条天皇による祠建立以降続いてきた崇徳天皇社での慰霊は別当寺摩尼珠院が神仏判然令によって明治初年に廃寺となったため重大な影響を受けました。その後、神仏判然令はこれによる社会の動きが極めて極端で全国的にも大きな混乱を生じたため政府は行き過ぎを認めて後にこれを改めています。しかし、「鼓岡」は一層上皇配所として顕彰する動きを強めていき、鼓岡説をさらに広めたため現代まで影響を引き継いでいるのが実情です。

歴史研究の教訓

歴史解釈に関して政治的な影響を受けると、その目的や目標に沿うように歴史解釈が修正されることはよくありますが、他方、歴史研究の立場からすれば分析や検証を通して真実はどうだったのだろうかという答えに近づきたいというのが目標だと思うので、両者の間では異なる説を採るようになるのだと思います。
自己目的のための歴史修正は歴史事実に対して必ずしも責任を持たないケースが出てくるのです。そのような「説」には誤りの他にも正当化を図る創作や解釈が含まれ易いのです。
従って、歴史の事実解明は、歴史に関する「説」の目的、動機や背景を考えながら多面的視点で歴史を考察することが望まれると思います。(歴史研究に構造構成的視点を導入)。

*追加
サイト内ブログ「検証(鼓岡 ・ 崇徳天皇社)」も併せてお読み頂ければ幸いです。

 

2023年10月11日

崇徳院配流と慰霊の地・坂出

讃岐における上皇「慰霊」と「怨霊」の混在
配流地における上皇の本当の御様子を伝えるものは極端に少なく、そのため、讃岐の人達は上皇の御苦難を想い、盛んに上皇慰霊を行っています。一方で、保元物語や雨月物語など讃岐においても広く流布した読み物には強い影響力があったため、江戸時代に讃岐で作られた「綾北問尋鈔」などもその影響を受けていることが分かります。

崇徳上皇が過ごされた配流地讃岐の綾北地区(綾川下流域の坂出市を中心とする地域)では崇徳上皇への「慰霊」が行われてきました。同時に雨月物語などにも影響されて、配流地であった綾北地区においても「怨霊」の考え方が入り込んできたようです。それは、現在の坂出市を中心とする地域に「慰霊」の伝承や遺跡が残る一方で「怨霊」が彷徨っているという人が今もいることに表れています。「慰霊」の話には創作されたものが含まれていることも少なくないようですが、何かしらの創作が含まれていること自体はいけないことではありません。それだけ強い思いの「慰霊」の歴史を示していると受け止められるからです。これは歴史事実がどうであったかという視点とは別の受け止め方があることになります。
そこで先ず、讃岐綾北地区で行われた上皇慰霊の事例から、創作が含まれているらしい話や遺跡を数例取り上げてみたいと思います。


慰霊のためと思われる伝承・遺跡など

① 各地への行幸伝承(金毘羅大権現、石手寺、志度寺)
明治初期の「神仏判然令」「上地令」などの影響で白峯寺と白峯寺が護持していた頓証寺も次第に衰退する中で、金刀比羅宮は明治11年に頓証寺殿を「白峯神社」として摂社にしています。金刀比羅宮(当時、事比羅宮)の説明では、崇徳天皇は崩御1年前に参籠され付近の「御所之尾」という場所を行宮にされ、また崩御翌年には相殿に崇徳天皇の神霊を奉斎したとしています。このような関係があったとする主張のもと、同年、建物や白峯寺保管の宝物什器等の多くが金刀比羅宮に引き渡されました。
(以下、慰霊の話とは若干趣きが異なりますが話を続けます)

直後に起こった頓証寺復旧運動などを経て、明治31年に香川県知事から宝物什器等を白峯寺に引き渡すべく訓令が出されましたが返還されたのは一部でした。同年、頓証寺は復興しましたが、金刀比羅宮は、所有する「白峯神社」は本宮境内に移転したとして白峯神社の宝物を、一部を除きそのまま金刀比羅宮に残しました。

しかし、頓証寺の宝物什器等は御陵の場所にある白峯寺が保管してきたものであり、上皇に関わる宝物什器等はそこで保管すべき歴史と由緒があると思います。そもそも、金刀比羅宮が上皇と関りがあったという参籠や奉斎の話は、明治の廃仏毀釈によって白峯寺が困窮し住職が環俗したことで寺や宝物の管理が困難になったために、廃仏毀釈の対象であった寺(白峯寺、頓証寺)から神社(金刀比羅宮)に宝物類を移すために行政庁からの要請もあって創作された可能性があるのではないかと思います。
はじめは上皇御遺物を守ろうとする考えがあったのかもしれませんが、そもそも、上皇の参籠が行われたとする崩御1年前には幽閉され衛士に厳しく監視されており金刀比羅宮に行けるような状況ではなく、そうした実体はなかったと考えられます。

明治初期の、「寺」を否定し「神社」を正当化した極端な見解は歴史解釈にも影響を与えましたが仏教排除に向かった神仏判然令等はその後改められたので、御陵・御仏殿の場所から離れた場所で白峯の宝物類を管理する必然性はなく、頓証寺復興の時点で全て返還することが双方にとって相応しかったと思います。

伊予の石手寺に行幸されたという伝承は、江戸時代に庶民の間で流行した四国遍路を始めた衛門三郎と関わる石手寺と結びつけた可能性が考えられます。遍路参りをした庶民が保元物語や雨月物語を通して知った上皇を偲ぶ思いを繋いだことから、行幸説が広まったのではないかと思います。上皇行幸が事実であるなら罪人とされ幽閉された上皇が遠方に行かれたことになり、それに必要な警備体制や往復期間を考えると、この話は現実的ではなく、この寺にも行幸の記録がないことから創作されたものと考えています。

讃岐の名刹志度寺に行幸されたという説に関しては、保元物語金刀本に「四度道場辺鼓岡」、鎌倉本に「志度の道場」など、「しど」と書かれているために「志度寺」に行幸されたという説が創作されたのではないでしょうか。保元物語諸本の「しど」は「道場」、すなわち上皇がひたすら仏教に帰依され過ごされたことをもって修行の場所「道場」として表したもので、その場所(「しど」)は上皇が亡くなられた(暗殺された)地名「しで」から誤って転じたものと思います。「志度寺」は古くからの名刹であって上皇が訪れたのが事実であるなら必ず記録されると考えられる名刹に記録がないのですから、この話には根拠や推測される状況は何もありません。

上皇配流期間のうち最期の5年余は幽閉されていたと考えられており、配流直後には監視が緩やかな時期もあったようですがその期間であっても遠方に行幸するほどの自由まではなかったのではないでしょうか。朝廷側から見て再び「反乱」が起きないよう遠隔地に遠ざけられたのですから、「反乱」を画策する可能性のある集団や人物と接触しないように監視することが本旨かと思われるので、「遠出」にはこうした隙を与える可能性があるとして許されることは難しいように思えます。
従って、こうした「遠出」の話は、(事比羅宮の話を除いて)お遍路の流行の中から生まれたと考えられ、苦難の上皇への慰霊の思いが背景になっていると思います。

② 上皇「国府庁内行在所」説 
上皇が讃岐配流数年後から厳しく幽閉されていたことについては一般的に理解されていますが、保元物語の「御所は国府に有りけり」「国府にてお隠れありぬ」の記述を根拠にしているのではないかと思われる上皇御所が国府庁の敷地内にあったという説があるようです。論拠の詳細は承知していませんが、おそらく保元物語中の一部の文字に拘泥する解釈から生じたのではないかと思います。保元物語の他の讃岐地名から考えれば地名表記には厳格に定義されるほどの正確性がないことが分かりますが、保元物語の讃岐地名のあやふやさからすると、「国府」という記載だけで場所を厳格に国府庁内だとする定義は難しく、国府庁内で住まわれた又は幽閉されていたことはなかったと考えられます。
しかしながら、この国府庁内行在所説についても、そうした思考に至る背景には上皇の御苦難を少しでも割り引けるように生活環境を良い方に考えたいという慰霊の気持ちが内在していると考えられます。

③ 方四町(約450m四方)にも及ぶ「巨刹・長命寺」
坂出市林田地区は、江戸時代初期に生駒氏が藩主となって以降開発が進み農地が広がっていきますが、鎌倉時代においては遠浅の海のうち「潮入荒野」と呼ばれた潮が満ちると海面になり引き潮では砂地となる干潟や堆砂地の開発が行われ、新しく開かれた耕地が京都の八坂神社に寄付された記録(「祇園社記」)が残されています。このように砂地・干潟地・遠浅の海ですから、そこに跨る450m四方にも及ぶ大寺院があったというのは創作と思われます。内陸部の別の位置(「長命寺新開」)に規模の小さい「長命寺」が存在した可能性がありますから、そのことを利用して「方四町」として創作されたように思います。地形の他にも、大寺院の礎石の痕跡・建立や庇護の記録などがないことからも大寺院が存在したというのは無理なようです。
「巨刹・長命寺」の話も、上皇がここでゆるやかに過ごされた時期があったことを願う慰霊の気持ちを抜きにしては語れないでしょう。 


「上皇がよく訪れた池」という「御遊所池」碑 の場所
そこは、平安時代当時は海中だったのではないでしょうか。
坂出市にある「崇徳院御遊所池」碑(1834年建立)の案内板(平成25年坂出市教育委員会)には、「ここにある池にも上皇が度々訪れたという言い伝えが」あると記されています。しかし、この場所は古地名「宝永元申新興」はじめ江戸時代に開発された地名に囲まれており、「林田町北部は17世紀後半以降に田畑として開発されたが、それ以前は現在の海岸線より1~1.5キロメートル南方まで干潟が広がっていた。奈良・平安時代と江戸時代では500~900年の隔たりがあるので、国府が置かれた古代では干潟はもう少し内陸まで入り込んでいたと推定される」(讃岐国府跡探索事業調査報告書平成23・24年版26ページ):香川県埋蔵文化財センター)とされています。つまり、「崇徳院御遊所池」碑のある場所は平安時代の干潟の範囲よりも北側の海中だったと考えられます。従って、そこの池を見に来るという状況にはなかったと考えられます。
想像するに、石碑が建立された江戸末期時点における埋め立て地の様子を上皇配流時代の景色として当てはめて、江戸時代に陸上にあったその池を上皇がご覧になられたという話にしたのではないでしょうか。

讃岐で苦難の時間を過ごされた上皇への強い慰霊の気持ちから、上皇が少しでも心安らかに過ごされた時間と場所があったことにしたい、その場所を顕彰したいという思いが表れていると推察されます。「御遊所池」の位置の真実性よりもそうした思いを記した石碑があることに意味があって、配流地における慰霊の思いが汲み取れる石碑だと受け止められます。遺跡等の場所の選定については、違っているようだと思われるものは他にもありそうです。

これまでに掲げたのは創作や誤解の可能性が考えられる話の一部ですが、こうした話が多いのは、それだけ上皇の実際の生活に関する正確な情報が極端に少ないからでしょう。このことは「幽閉されていた」ことを裏付けることかも知れません。
そして、仮に創作と思われるものであったとしても、話の真偽の程度が重要なのではなくて、現在の坂出市を中心とする地域の人達が上皇の御苦難に対して長い年月に亘って強い慰霊の気持ちで過ごしてきた証しであることを忘れてはいけないと思います。何代にもわたってこの地域の人達が繋げてきたこの証しは誇るべきことです。坂出市には上皇を尊敬し、畏敬し、慰霊しつづけてきた歴史があることを忘れてはいけないと思います。
そして、この地域は「怨霊」の話とは関りがないのですから「崇徳上皇慰霊の地坂出」として、今後も慰霊行事を続けていくことが、坂出で苦難の人生を過ごされた上皇を偲ぶことかと感じます。苦難があっても生きる、そのことを教えて頂いているのではないでしょうか。

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歴史事実に関すること

1.藤原清輔日記「讃岐のさとの海士庄に 造内裏の公事あたりける」は、上皇配流の直前に書かれたもので、清輔の地位や上皇との間柄からしても信ぴょう性が極めて高く、その書かれた内容は事実であり、その内容に沿うように諸般の行動が行われたと考えられること。
2.「殯」の最中に「毎夜、神光が立った」
野澤井(泉)に上皇御柩を置いた殯の間、「今の崇徳天皇社(白峰宮)の場所に「神光」が毎夜立った」というのは、実際には建物の前で焚かれた篝火・灯明のことだと思われ、上皇行在所がそこにあったことを伝えています。伝説としてお住いだった場所で魂の光が灯ったと伝えたのです。その場所には崩御された年に二条上天皇宣下により一宇が創起され、後に後嵯峨天皇により崇徳天皇社として再建されたという事実が存在しています。
3.神人(侍人)
上皇讃岐配流の折り、京で仕えていた貴族らが上皇を慕って「讃岐のさとの海士庄」に来て可能な範囲のお世話をしていたと伝わっています。この人たちは「神人」又は「侍人」と呼ばれ、現在に至るまで上皇を祀る白峰宮例大祭の神輿を担ぐのはこの「神人」の子孫の皆さんにのみ許されたことであり、こうした事実は子孫の皆さんに受け継がれています。
4.「衛士坊の坂」本編第五章第2節参照
天皇寺の東側土塀に沿う坂道は古来より「衛士坊の坂」又は「衛士坊坂」と呼ばれています。地元(八十場)には、上皇は崇徳天皇社となった場所のいずれかに住まわれ(幽閉され)、摩尼珠院(現天皇寺)の処に監視役である衛士の詰所があったと伝わっています。
5.「幽閉場所」
明治以降の通説の立場は、保元物語に書かれた「鼓岡」の行在所説を無条件に受け入れている一方で、同じ物語に書いてある幽閉場所の様子については関心を向けていません。例えば、上皇幽閉の場所には人家や田畑もないと書かれているけれども「鼓岡」は国府の中心地ですからその周辺は府庁の役人や近隣住民等で賑わっていたと思われる場所なので、同じ物語の中で話が両立していないのです。
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このようなことも踏まえると「事実」・「事実と思われること」と「慰霊」のための話を整理できるでしょう。これにより、讃岐の人が行ってきた「慰霊」の理解を深めることが出来るのではないかと思います。

さて、仏教に帰依した上皇がなぜ讃岐で「怨霊」にされなければいけないのでしょうか。「御成仏」は宗教上の判断に従うものと考えていますが、「成仏できずに怨霊として彷徨っている」などと言う意見は如何なものでしょうか。保元物語に記す、五部大乗経の件で「日本国の大魔王と成らむ」などというのは読み物への興味を引き付けるために作り上げた話というのは皆わかっているはずなのに
綾北地域において上皇慰霊の多くの伝説・伝承や関連遺跡を生むことになった背景には、上皇の生活の様子がほとんど記録されていない中で上皇の数多くの御苦難を推し量ろうとしたからでしょう。つまり、厳しく幽閉されていたと理解されているからこそ、京から来られた崇徳上皇に対する尊敬や讃岐で御苦難を経験されたことへの畏敬の念があると思います。讃岐の人はこの慰霊の思いをもって上皇のご様子に心を砕いてきたのです。

 ところが、広く流布した保元物語や雨月物語の影響を讃岐人も受けており、「怨霊」ということばが頭から離れないような様子も一部に見られます。「怨霊」は京において上皇を窮地に追いやった側からの、しかも上皇が崩御されてから十数年経ってからそういう話が始まったのですから、上皇が讃岐で御存命の間に「怨霊」などはなくて、深い悲しみや京を懐かしむ気持ちを持ちつつ仏教に帰依されていたのです。

つまり、讃岐と「怨霊」とは関係がないのですから、「上皇は大変なご苦労をされてお気の毒だった」と言いつつ「上皇の魂が怨霊になって成仏できないままでいる」とも言うなど、時に「慰霊」時に「怨霊」の立場になるのはとても残念なことだと感じます。

配流地讃岐における「慰霊」と「怨霊」の混乱を整理すると、
「崇徳上皇配流と慰霊の地・坂出となります。

追加
サイト内ブログ「京では怨霊、讃岐では慰霊」をお読み頂ければ幸いです。

2023年03月11日

八十場 「関(咳)の地蔵」

坂出市川津周辺から城山(きやま)の南西の麓道を経て金山・八十場に入り、白峰宮の南西角の三差路に至ると、「関の地蔵」(祠)が鎮座しています。
崇徳天皇社(「明の宮」)の別当寺、摩尼珠院は、江戸時代には寺社奉行の権限である寺請制の権限を持ち、出生・死亡の管理、身元引受、往来手形の発行のほか、関所も設けられていました。入口付近に鎮座するお地蔵さんは「関の地蔵」と呼ばれました。後に「関」は「咳」に転じ、胸や喉の不調から出る咳を止めるご利益があるとされ、お遍路や地元の信仰を集めました。
今は、祠となり、地元の人や白峰宮・天皇寺の参拝者を少し離れた場所から見守っているようです。(地元伝承等を参考に作成。)

2022年07月23日

「血の宮」と「煙の宮」

   動画:「血の宮」高家神社 と  「煙の宮」青海神社

   ☝  画像クリック・タップで You Tube動画にリンク

経緯:崇徳上皇崩御から荼毘まで(1164(長寛2)年)

 9月14日(旧暦8月26日)国府庁付近の字「しで」で凶刃に倒れる。
    この間、野澤井(八十場の泉)で殯(もがり)が続けられる
 10月 3日(旧 9月16日) 御柩、野澤井を出発
 10月 4日(旧 9月17日)葬列、豪雨のため高屋阿気で留まる。柩台石に血が鈍染。
 10月 5日(旧 9月18日)荼毘の煙が白峰山上から谷あいに広がる

*「明の宮」(白峰宮)の動画は、ブログ「白峰宮と天皇寺高照院」で。

2021年09月14日

御朱印(白峰宮と青海神社)

崇徳上皇が崩御された後の出来事として、行在場所に隣接する地での殯、葬列が荼毘に向かう途中に起きた豪雨と棺からの血の「鈍染」、荼毘の「煙」が谷あいに広がった言い伝えがあります。それぞれの場所の社で祀られていて、現在に至ります。
下の写真は、伝説が残る「明の宮」(白峰宮)と「煙の宮」(青海神社)の現在の「御朱印」です。
 *「血の宮」(高家神社)に御朱印はありませんでした。

「明の宮」崇徳天皇社は、上皇が崩御されたときの天皇、二条天皇により祠が建てられたのが始まりと伝わります。上皇が幽閉されたお住まい(「木の丸殿」)は、西行が上皇崩御の3、4年後にお住まいの場所を訪れた時には跡形もなかったことが記されています。
このことから、お住まいは弔いのため解体されて白峯の墓所前に移築され、「頓証寺殿」と呼ばれて弔われと考えられます。また、崩御の時まで長年住まわれていた土地(「明の宮」の場所)も崩御直後に祠が祀られ、後に崇徳天皇社として再建されています。このように、崩御の時、お住まいだった土地と建物は、墓所(御陵)の御霊とともに、崩御後から速やかに弔われ始めた歴史を歩んだことがわかります。
二条天皇の勅命によりを創建され後嵯峨天皇が崇徳天皇社として再建して、850年以上に亘って上皇御霊をお祀りして現在の「白峰宮」に至っています。

「神光」について
「明の宮」の伝説は、上皇御遺体を野澤井に安置した殯の夜ごとに、林の中に「神光」が見えたのでその場所に二条天皇宣下により社殿を造営したという伝説です。火葬するまでの殯の行事の中で、「神光」伝説の元になった火は現実に焚かれた篝火、灯された灯明だったのです。古来、『殯では火を用いることが知られる』(『書記』仲哀)ことから、野澤井から見えた光は殯儀礼として使った篝火・灯明・松明の火のことで、これが「神光」伝説に転化したと考えられます。

 その殯儀礼として火が焚かれた場所に後に社殿が建てられた理由は、そこには上皇御霊に関わる施設(建物)、即ち御所があったからということになります。
*参考:「王朝貴族の葬送儀礼と仏事」(上野勝幸:(株)臨川書店)

「煙の宮」崇徳天皇社(青海神社)は、白峰山の谷あいに荼毘の煙が漂い数日間留まったことにより、地元の春日神社祠官がここに社殿を造営し、崇徳天皇と待賢門院を祀りました。
「血の宮」崇徳天皇社(高家神社)は、上皇御柩から「血が鈍染」した石を、地域の祖神を祀っていたこの神社に移して、崇徳天皇と待賢門院を祀りました。

2021年09月09日

「鼓岡」配流説の虚構

*一次資料から*

崇徳上皇配流の時に書かれた信頼の置ける一次資料に記された「讃岐のさとの海士庄」に御所を造営せよとする勅命に対して、明治以降に作られた「通説」では、この勅命によって国府庁横の「鼓岡」に御所が建てられたと説明しています。しかし、これについて疑問に思うところは、第一に、国庁横に御所を建てよという勅命ならば、国庁の隣接場所であることを示す文言になるはずです。第二に、国庁のある場所は、漁業や海運の地、則ち「海士庄」ではないので、当時海岸から4キロ以上離れた場所に「海士庄」であることを示す根拠が何もないのです。この一次資料から、海士庄に造営された御所が「鼓岡」のことであると読むことは出来ません。

このように、勅命が指示した場所が「鼓岡」でないことははっきりしていますから、後の時代に作成された保元物語などの「読み物」に配流先が「鼓岡」と書かれているのは、憶測に基づいて事実を誤った記載であると言えるでしょう。そこには、誤認に至った事情や経緯があったと考えられ、信頼できる根拠(一次資料)は最優先に考慮される必要があり、後に書かれた軍記物語をもって一次資料の信頼性を覆す根拠にはなりません。
つまり、「海士庄」を覆す、「鼓岡」が正しいとする他の一次資料が出現しないかぎり、誤認した物語が広く流布していたとしても、鼓岡行在所説が事実であるということは成り立たないでしょう。
 
保元の戦いは突如として起こったことから、上皇配流は以前から想定されたものではなかったので、配流御所が造営されるまでの仮住まいが必要だったことは間違いないと言えます。仮住まいとなった讃岐最初のお住まいの場所は京の注目も大きかったため京にも事実が伝わり、それが讃岐での接待役となった綾高遠の屋敷であったことについては、京から遥か遠い讃岐の情報であっても信頼性があると考えられます。

以上から、上皇は、最初に仮住まいした高遠の屋敷のあと、海士庄に新しく造営された御所に遷り住まわれたと考えるのが根拠(一次資料)に基づく経過であることに異論の余地はないでしょう(長命寺行在説は、寺が方四丁もの巨大寺院という説は根拠がなく怪しいこと、崇徳天皇社別当職となった摩尼珠院の末寺と記録があるので上皇配流時にはまだ建立されてなかったと考えられるため除外しておきます)。
勅命に従った配流当初の上皇お住まいは以上ですが、「軍記読み物」には上皇が厳しく幽閉された場所で生活され、京からその場所を訪れた者がその様子を京に持ち帰って伝えたと思われる話が書かれていますが、これについては、讃岐からの伝聞ではなく讃岐を訪れた者が京に帰って伝えた話であるために一定の信ぴょう性・信頼性があると言えます。厳しい幽閉がもたらした配所の様子は、話が誇張されて、後に「怨霊」や天狗の姿に利用されたと考えらます。
このことから、上皇の生活には、「海士庄」の御所での生活から、厳しく幽閉された生活へと大きな変化があったことが分かります。お住まいが海士庄から幽閉地に遷ったのは配流当初には予定されていなかった可能性が高く、お住まいが遷された背景には、大きな動機が存在したと考えられます。それは京の政権にとって不穏な事態が現実となるのを防止する目的であると考えるのが自然です。いずれにしろ、幽閉では外部との情報を遮断することや身柄を固く閉じ込めて脱出を防止すると考えられるので、この目的を達成することができる場所が幽閉場所として選定されたはずです。そして、上皇幽閉場所に僅かながら訪問者があったことは、その時の話が京に持ち帰られていることから、この密かな訪問は事実と受け止めていいのではないでしょうか。

*諸資料、地勢などと整合しない「鼓岡」*

明治以降に作られた通説「鼓岡」行在(幽閉)説では、勅命により造営されたのが「鼓岡」の「木の丸殿」だとして、最初の仮住まいである綾の屋敷又はそれに隣接するに長命寺に3年程住まわれた後に、「鼓岡」に遷られて、そこで厳しく監視されたとしています。
しかしながら、「鼓岡」が事実とは考え難い点に目を向けてみましょう。

勅命にも関わらず、「海士庄」ではない国府庁の横に御所を建てたというのなら、勅命に反した造営を行ったことになります。当時の国司は、任命地に赴任しない「遥任」とはいえ、配流を命じた京の政権方の国司であり、勅命に反することはないと考えられます。

仮に、海に近い綾の屋敷を「海士庄の御所」(この解釈はそもそも間違っていますが)としても、その後に幽閉された建物が丸太を合わせた粗末な建物だったことは諸資料に共通し疑いがありませんが、その簡素な建物に3年もの建築期間を要したとは考えられません。勅命を受けて急ぎ建築にかかったはずなのに、3年後にようやく造営御所へ遷すのでは勅命に従っていないのです。

明治以降の「通説」では、国庁から監視し易いので「鼓岡」が選ばれたと説明しています。しかし、国庁横の小さな丘からは国庁の動きが上からよく分かる位置関係にあり、むしろ反対に幽閉された側からすると脱出の機会を窺う情報御収集をするのに都合の良い場所です。これでは幽閉した目的と一致しません。

幽閉場所の様子は、三方が山に囲まれ、海洋煙波の眺望、海づら近き、人の気配もない場所とされているのに、「鼓岡」のある国府庁付近は、海も遠く、多くの役人や付近の住民の声が聞こえる繁華な場所です。配流地を「鼓岡」としている軍記物語が、その中で書いている幽閉場所の様子と「鼓岡」の状況とは一致しないのです。

幽閉場所は武士によって監視されていたはずですが、「鼓岡」の場所には監視役であると考えられる「衛士」の存在を示す記録や地名、上皇行在所であったことを示唆する地名はありません。


江戸時代中期の記録(『三代物語』)によると、「鼓岡」には地元住民が利用する「草庵」がありました。ここが5年余に亘る上皇行在所であったならば上皇御霊は祀られ、苦難の時期を過ごされた場所であるならそこには崇敬の歴史を重ねた事実と記録が残っているはずですが、実際には行在所として語り継がれていなかったことが「庵」に過ぎなかったことに反映されているのではないでしょうか。

このように、「鼓岡」には行在所の実体として説明できるものが見当たらないのに、「保元物語」等に「鼓岡」と書かれたことをもって後世の図書(「全讃史」や「綾北問尋鈔」等)にも保元物語流布の影響を強く受けた「鼓岡」が転用されたのでしょう。

*追加
サイト内ブログ「検証(鼓岡 ・ 崇徳天皇社)」も併せてお読み頂ければ幸いです。

 

2021年06月30日

御製などから解く配流場所

 

(1)西行との贈答歌のやり取りから伺えること

上皇配流中に京にいた西行は、上皇にお供した女房兵衛佐局を相手に歌のやり取りをしていますが、歌の表現などから本当は上皇とのやり取りであることを「証明」している研究があります(「讃岐贈答歌群の「女房」について(それが崇徳院であることの証明)」桐原徳重 編)。女房の歌を装った可能性は高いと思われ、西行との間の歌を女房が読んだようにした背景には、そうすることで上皇の御身を護る目的や置かれた状況があったからで、この偽装は①上皇が幽閉されていた中で、②政権への反抗行動に結び付くのではないかと疑われないようにするため、女房の歌を装う必要を感じていたことがその動機であると考えられます。
上皇と西行の直接の通信を隠す必要があったと捉えると、このやり取りの経路は西行の使者が警備の緩やかな兵衛佐局のもとを訪れて歌を託した後、兵衛佐局がそれを携えて、国府庁の許しを得て上皇のもとを訪れて密かに伝え、上皇からの歌はその逆のルートを辿ったと考えられるでしょう。つまり、この歌のやり取りが行われた時期には、上皇は幽閉され、女房とは離れた場所に一人で住まわれていた状況にあったと推測でき、歌のやり取りを秘匿するための偽装と経路が考えられたのでしょう。上皇と極めて近い間柄の西行が、上皇配流中に讃岐を訪れなかった理由もこれと同じで、上皇の安全を図るための配慮からだったと考えられます。

(2)御製から伺える幽閉の場所

女房兵衛佐局が上皇崩御後京に持ち帰った御宸筆の、藤原俊成宛の長歌には「あま(海人)のなはたぎ いさりせむ(漁師の網で魚を獲ることになろうとは)という和歌があることは知っていたが私も同じ境遇になるとは」という意味が書かれています。
讃岐で上皇が最初に仮住まいされた綾高遠の屋敷から、勅命に従って造営された「讃岐のさとの海士庄」の御所に遷り住まわれていた時期のご経験を歌われたのかも知れません。綾の屋敷では世話を受けて上皇自ら漁をすることはなかったでしょうし、幽閉中は衛士によって食事の準備・提供がされたと考えられるので、この2カ所での生活ではなく海士庄の御所での様子と思われます。上皇は自分も漁に関わるような境遇になったと詠んだのです。
また、「十訓抄」には、かつて上皇に仕えた蓮妙(蓮如)が上皇配所を密かに訪れたとき、その場所に立ち入ろうとして武士共に遮られて叶わなかったが、中から汚れた狩衣を着た人が出てきたとき、歌を書いた板を上皇にお見せするように願ったところ、しばらくして持ち帰った先ほどの板に上皇の歌が書いてあった。蓮妙はそれを背負いに入れて持ち帰ったと書かれています。蓮妙は京の知人にこの時の様子を報告したのでしょう。この説話から分かることは、上皇は厳しく幽閉され、その場所を複数の武士が警固していた、つまり監視役の「衛士」がいて近づく者を制御していた環境だったことが分かります。

この説話は、
①幽閉の具体的・写実的な様子であること、
②上皇返歌の「ねをのみぞなく」(声を出して泣くばかりである)の主語としての「釣りする海士」を自分自身のこととして言い、上皇崩御後に俊成に伝わった長歌では、和歌で知っていた「漁師の網で魚をする」のと同じ境遇になったことを詠んで、どちらも海士・海人のようになったという認識、表現が共通していること、
③武士が監視していたことを示す「衛士」を含む地名が現天皇寺高照院に接する坂道にその名前が伝わっていること
これらから、
説話の内容は現天皇寺と白峰宮になっている場所に幽閉されていた時に実際に起きたことが伝えられたものと考えられます。
このときのやり取りは、

蓮妙
「あさくらや 木の丸どのにいりながら 君にしられでかへるかなしさ」
上皇返歌
「朝くらや たゞいたづらにかへすにも 釣りする海士のねをのみぞなく」

この時の上皇お住まい(幽閉場所)は、勅命に従って御所が造営された「海士庄」(今の坂出市御供所と思われる)から遷された、同じ湾内の海浜に近い場所にあったので「海士」を掛けているという解釈もあります。幽閉場所と思われる現天皇寺高照院と白峰宮の場所(崇徳天皇社)には、監視役の衛士が通ったと伝わる「衛士坊の坂」の名が残り、そこから僅か先には当時の海岸線があって海を見おろせる近さだったとされることからも、この解釈には納得性があると受け止められます。
(「新撰十訓抄:詳解」(田中健三著・東林書房発行)、「天狗と天皇」(大岩岩雄著・白水社)を主に参照し、作成しました。)

(3)寂然の歌「君がすむ そなたの山」

 また、寂然が配所を訪れたときの歌が残る「寂然法師集」には、「慰にみつゝもゆかむ君かすむ そなたの山を雲なへたつそ」とあります。これについて、『新修香川県史』は「上皇のおられた松山の御堂が、山の近くにあった事を歌ったもの」として白峯山の上または麓ではないかとしていますが、白峯山中には配流場所の言い伝えや史蹟はないことから考えると、白峯山ではない山の麓にあって船から配所付近が見える状況だったことが分かります。すると、金山(かなやま)の麓にある、後に崇徳天皇社となる社殿が造営された場所しか、当てはまる処はないと地理的に考えられます。この歌は配所訪問時に作られた「一次資料」ですから信頼性があり、数十年後の保元物語が記した「鼓岡」ではなく、金山の麓だと考えると納得できるのです。

2021年06月13日

天皇神社(坂出市)

坂出市川津町の「春日神社」は、香川県神社誌によると、「『社家伝説聞書』に「当村は藤原氏所領なる故大和の春日明神を勧請した」、『道家関白處分記』に「讃岐国河津庄春日社領」とあり古くから大和国春日神社の社領であり、崇徳天皇の御崇敬により侍臣に奉幣させた」としています。また、天皇神社は崇徳天皇を祭神とする春日神社の境外末社(崇徳天皇社)であり、社伝によれば「この地は崇徳天皇御巡遊の地であるため祠を建て、後に廣濱紀伊という者が社伝を改造した」としています。

「天皇神社」参道にある由来書きには、上皇はしばしば川津郷の荘園領主だった廣濱紀伊守の館に御微行(身分の高い人が密かに訪れる)され,この辺りが京都東山に似ていると仰せられ配流の淋しさを慰められた、1167(仁安2)年「煙の宮」から分霊し社殿を建てた」とあります。

上皇「御微行」が想定される状況は次のようになります。
ⅰ讃岐配流期間のうち、こうした訪問が可能なのは、御供所に造営された御所(真光寺屋敷)にお住いの時期であること、
ⅱ御供所では上皇を慕って来た官人がお世話をしていたと伝えられており、配流のため一定の監視はあったが、近距離の往来程度は可能だったこと
ⅲ御所からは、御供所東海岸、角山(津ノ山)東麓、福江海岸から川津までの南行経路を辿ったこと

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2021年03月12日

京では怨霊、讃岐では慰霊

崇徳上皇御霊に関して京では、後白河院周辺の相次ぐ死亡、大火、大極殿炎上など災難の原因を上皇怨霊とした後、上皇を弔わなかった反省と怖れから「崇徳院」の諡号が贈られ菩提が弔われ御影堂への寄進なども行われるようになりました。それは怨霊を前提としたものであったことから、以後数百年に亘って御霊は「怨霊」とされ続けました。
他方、配流地の讃岐では「怨霊」への鎮魂ではなく、上皇御霊を敬い祀る「慰霊」が行われました。1755年に書かれた「綾北問尋鈔」には当時の地勢、名所とともにいくつもの伝説・伝承が書かれていますが、その中には上皇「慰霊」のためと思われるものがあります。同書の構成には①現存する事物や名所、②それに関わる言い伝えがあり、このうち②にはⅰ事実と思われるもの、ⅱ真偽の判定が難しいもの、ⅲ非科学的で創作であると考えられるものがあります。上皇慰霊のためと思われる話には上記ⅱとⅲが多いのですが、ここでは科学性、現実性、歴史経過の視点から創作ではないかと思われるものを以下に取り上げました。

『長命寺 號雲井御所。往古は境内方四町にして、仏閣建奏ひ、名高き霊場也』
一辺450mもの大寺院建立や寺院維持費用寄進の記録、霊場記録、残された礎石など証拠が何もなく、干拓前の干潟地を広範囲に含まなければ成立しないと思われます。配流地でご苦労された上皇が大寺院に住まわれるという恵まれた境遇もあったとするために、存立時期や規模等の異なる「長命寺」を、慰霊のためこの時代の巨大寺院として取り入れ、創作したのではないかと思われます。

『馬場・二天・射場 是等長命寺の境内也しと云。今は田畑と成て名のみ計り也。此君、武芸を好せ玉ひ、近隣の武士を集め、射芸を叡覧有し所と伝。射芸の跡近代まで有し』
長命寺の段でも述べたように、当時この場所に450m四方もの巨大寺院があった証拠は何もなく、面積的にも存立は疑わしいのです。従って、その境内に馬場や射場があったというのも創作ではないでしょうか。古地名「長命寺」から綾川をはさんだ東岸に(後の時代と思われる)馬場地名が残っていることを使って、長命寺境内に馬場があったと創作したのでしょうか。そのほか、この話への疑問点として、①都では歌を好み、保元の乱で敵の武門に敗れて出家された上皇が「武芸を楽しむ」お気持になられるでしょうか、②讃岐国司は美福門院の親族に当たることから監視について影響力があることが配流先になった大きな理由ではないかと考えられ、国司の立ち位置から考えると讃岐の武門勢力は上皇と敵対した信西・美福門院側に立つものであり、その武芸を楽しむという説には無理があるのではないでしょうか。また、③射芸場所の跡が近代まであったとしていますがいつの時代に射芸場所が作られたのか、江戸時代中期に至る500年以上も射芸場所の形態がそのままに、或いは耕作場所としても利用されずに存在し得たのでしょうか。後に厳しく幽閉された期間が長かった配流でしたが、配流当初には監視も緩やかで楽しみもあったことにしたい上皇慰霊のための創作ではないのだろうかと思われます。

『内裏泉 岳の麓に有り。この水を汲めば眼を疾ふ・・』
白峯寺縁起に書かれた「岳」を用いていますが、古来より「岳」と「岡」は異なる意味を持ち、事物を特定する機能を持つ漢字であり使い分けられてきました。保元物語に書かれた「鼓岡」でなく、白峯寺縁起に書かれた場所をここだとするための「岳の麓」を意図的に使ったのではないでしょうか。また、讃岐では上皇を怨霊とはしていないのに、怨霊説を取り入れたように眼の病を導いています。科学的には目を患うのは水に毒素が含まれる等の原因が必要になりますが、この辺りの水系にそのような歴史を聞いたことがありません。上皇が使ったことにした水源を護るために人を恐れさせる話ということになりますが、これは都から輸入された怨霊説を、慰霊の地讃岐で取り入れて創作したものではないでしょうか。

上皇関連遺跡は真偽が混在しているように見えます。顕彰時点の地形を見て配流当時のことにしたものや、慰霊への強い思いを表すために創作されたものも含まれていると思われます。

*追加
サイト内ブログ「崇徳院配流と慰霊の地 坂出」」も併せてお読み頂ければ幸いです。



2021年02月26日

崇徳上皇配流地名の不確かさ

 讃岐における配流地名が不確かな状況について

保元物語諸本に記された上皇配流先地名を見ていくと、讃岐の配流先についてはその不確かな地理知識や情報に基づいて(保元物語が制作された京で)作られていることが分かります。讃岐の地理について不案内なまま伝聞に基づいて書かれた地名が、軍記読み物の流行とともに讃岐に逆輸入され、江戸時代には讃岐で書かれた書物にまで影響を与えました。

現代から見ると三百年前に書かれた「古い」書物でも上皇配流からは六百年程も経ってから書かれた讃岐の書物は、保元物語の影響を受けているために地名の信頼性が高いとは言えません。不確かな地名が書かれた保元物語からいくつの書物が地名を取り入れて書いていようとも、それが正しいだろうということにはならないのです。

保元物語に書かれている讃岐の地名には、
ⅰ 動かし難い事実が継続しているため誤ることなく伝えられた地名(荼毘に付され墓所のある「白峯」)、
ⅱ 事実の継続が既に終了していたことから、数十年以上後の京で不確かな伝聞に依ったため地名への信頼性が低かったと言えるもの
に分けられると考えられます。
また、地名が表す範囲についても、現代では限られた範囲を指す「松山」「国府」について、軍記物語の記載では、綾川左右岸の湾内を囲む山を含めた範囲を「松山」として、また「西行法師・・国府ノ御前ニ参テ」の記載からすると「国府ニテ御隠アリヌ」「御所ハ痛セ給シカバ国府ニアリケリ」に共通する「国府」は、国府庁やその直近場所に限定されず当時の甲知、松山、山本郷が含まれる阿野郡内という広い概念が反映されていると理解されます。

配流先とされた「志度」「四度郡直島」「直島」については、上皇配流先とは全く関係のない「志度」や実在しない「四度郡」が書かれ」、当時備前国であった「直島」を讃岐国司が勅命に従って受け入れた上皇配流先としているなど、物語が作られたときには既にその配流事実が終わっていたことから不確かな情報に基づいた記述になっている点で共通していることが分かります。そうすると、同様に上皇行在所とする「鼓岡」についても、保元物語が作られたときには既に事実関係は過去のものになっていたという基準から判断すると、不正確で誤ったものである可能性が高いと考えられます。加えて、上皇の幽閉場所に関しては一定の秘密性が課せられていたことが考えられ、それが不正確な記述に繫がった一要素と言えるかも知れません。
こうしたことからも、上皇配流関係地名については、軍記物語等の記載に頼ってしまってはいけないことを示しています。

 まとめ(保元物語の讃岐内地名)

保元物語に於ける讃岐内の地名は、「白峯」を除いて、誤っているか包括的な地域名で書かれています。つまり、軍記物語である保元物語にとっては遠国内の地名が事実かどうか検証することは重要ではなく、概ねそのようであれば良かったからそこには不確かな情報が入っているのです。
従って、保元諸本の記載を、これらが広く流布し影響力が大きかったことを以て讃岐の地域名が事実記載だというのは根拠のない解釈であって、これらを転載した後の時代の書物でも根拠が不明確なことを意味しています。このことから考えても、周辺の歴史事実、歴史経緯を踏まえて真偽を検討する必要があることを教えてくれるのです。

保元物語(諸本) 表現 → 正しい地名・地域名
<半井本>
①『直嶋』   →  (讃岐国でない)
*勅命を受けた讃岐国司が当時備前国の直島を配流先とするはずがなく数日間汐待ち、風待ちのため留まった直島を配流地と誤っている。(その場所の様子については、後の幽閉後の様子が伝聞されて統合されたものと考えられます)
②『松山』  →  (地域包括表現)
*古代に優勢であった「松山」地域の港と、8世紀から12世紀に優勢となった坂出御供所港の間(綾川両岸の坂出湾内)を、当時の都では古代からの経緯により「松山」の津と認識していたと理解できます。
  :参考「綾川河口における開発史」(香川県埋蔵文化財センター紀要)
③『国府』  →  (地域包括表現)
* 「御所は国府にあり」「国府にてお隠れありぬ」「国府の御前に参って」に共通する『国府』は、讃岐国阿野郡の白峰を含む綾川両岸域から国府庁りの地域までの範囲を示していて、国府庁内又はその隣接場所という限定又は特定された土地の概念では使われていません。
④『白峯』 →   正しい
*陵墓の場所であり、物語成立時にも場所の変更はないので正しく記載されています。

<他の諸本>
⑤『四度郡道場』『四度道場』『志度郡直島』『志度の道場』 → 誤り
*阿野郡内に「しど」地名は存在しないし、香川県東部の志度と崇徳上皇とは全く関係がないことから、志戸・四度などは完全な誤りなのは明白です。上皇暗殺場所と伝わる小字名「死出(しで)」が京に伝わった後「しど」に音変化したと考えられます。
⑥『鼓岡』 → 誤りの可能性
*上皇崩御場所「しで」付近にある地名を行在場所名だと想像して採用したと考えられます。鼓岡説は、保元物語その他に書いてあってもそれを裏付ける歴史事実が見えないのです。

以上から、『白峯』を除いて讃岐内地名が誤りか包括表現である保元物語の制作水準からすると、「鼓岡」だけ歴史事実を反映しているとは考え難く、上皇行在場所を京では正確には伝えていなかったことが分かります。上皇行在所を示すその他の歴史事実や経緯が「鼓岡」には存在していないことからも事実を示す根拠のない創作された「鼓岡」が保元物語流布の影響を受けて後の讃岐で書かれた書物にまで導入・転用されてしまったのではないでしょうか。

2021年01月08日

「神仏判然令」と行在所伝説

 写真上:白峰宮と天皇寺高照院を合わせた境内は、神仏習合の歴史を感じさせます


「明の宮」崇徳天皇社が上皇の行在所(幽閉場所)だったことは「明の宮」の地元で語り継がれ、江戸時代の藩主もそのように認識していた(本書分析による)のに、明治以降に突然「鼓岡行在所説」を広めようとする動きが起きたのは、慶応4年(明治元年)3月から10月までに発出された12の法令を総称する「神仏判然令」がきっかけになったと考えられます。

「神仏判然令」は王政復古の大号令を受けて「あくまで神仏の混沌を禁ずるもの、神社と寺院の区別を図るためのもの」(「明治維新と天皇・神社」(錦正社))50頁)でしたが、地域による強弱はあったものの仏教排斥、「廃仏毀釈運動」が起きたことも事実でした。崇徳天皇社においては別当寺摩尼珠院が廃寺になりました。そして、この時期、保元物語金刀本に書かれた「鼓岡」に「鼓岡神社」が建立されて、地元政治が主導して崇徳上皇行在所があったという運動が始まりました。摩尼珠院にあった古文書はほぼ全てが失われ、明治20年になって筆頭末寺だった高照院が摩尼珠院の跡地に移転してきました。

摩尼珠院廃寺の直後から「鼓岡」を顕彰する運動が始まった理由の一つを推測すると、天皇社の別当を担っていたのに廃寺となった摩尼珠院の役割を「鼓岡神社」に移して祀り続けたいという考えも一部にはあったかも知れませんが、それよりも奉行所権限のあった摩尼珠院に対する否定的な見方と、「神仏判然令」による仏教排斥運動とが合わさったことにあるのでしょう。
そして、その運動が、軍記物語にどう書かれていようとも数百年言い伝わっていた上皇配流の場所を変更しようとする力になったと考えられます。

また、明治以降「鼓岡説」が鼓岡の地元に浸透していった背景には、上皇崩御の場所から行在所を誤って推測して「鼓岡」と書いた(本書第七章「鼓岡」と「鼓岳」に詳述)軍記読み物が讃岐においても流布していたため、上皇配流の地でありながら徐々に「鼓岡説」が浸透する素地が作られていたのではないかと考えられます。江戸中期以降になると地元で書かれた書物にまで軍記物語に書かれたことを取り入れて行在所(幽閉場所)を「鼓岡」とする「綾北問尋鈔」(1755年)や「全讃史」(1828年)等の書物が出現しています。

しかし、「鼓岡」と記した軍記物語がその同じ文中で伝える上皇幽閉場所の様子からは、「鼓岡」とは異なる場所が幽閉地であることを推測させます。
・「海づら近き処」「海洋煙波の眺望」(海辺に近く、そこから海を見渡せる) が当てはまる配流地伝説が残る場所は、当時の海岸線に近かった「明の宮」の 場所しかないこと、
・「田畑もなければ土民の家とてなし」は国府庁横の鼓岡付近の様子ではないこ と、
また、
・「明の宮」の地元では長年に亘ってそこが上皇幽閉の場所であったことが語り 継がれていること、
・「衛士坊の坂」が伝える歴史事実があること
・藩主松平家においても崇徳天皇社を崇敬し鼓岡の場所への崇敬は何も行わなか ったこと、

こうしたことを踏まえると、誤って「鼓岡」と記載した保元物語等の人気読み物の広がりが明治期に政治的な立場から進められた「鼓岡説」を受け入れる下地となり、「神仏判然令」による権限の変化を契機にして、「鼓岡」を通説化に向かわせようとする運動になったのでしょう。

2021年01月03日

白峰宮と天皇寺高照院

崇徳上皇を祀る天皇社(「明の宮」)は、神仏分離令により明治初年に別当寺であった摩尼珠院が廃寺になり白峰宮となりました。明治20年に摩尼珠院の筆頭末寺であった高照院が摩尼珠院跡に移転して四国八十八ヶ所遍路寺となり、白峰宮と天皇寺高照院に分かれた形になりました。崇徳上皇ゆかりの場所であることから今も白峰宮は「天皇さん」と呼ばれています。
白峰宮と天皇寺高照院に現在残っている江戸時代の常夜燈・灯篭、手水石、狛犬、玉垣、検地(検知)所跡の石碑などを映像(下)で紹介します。八十八ヶ所遍路が盛んになった江戸中期以降のものが現存しています。
境内は、今も神仏習合の歴史を感じさせる佇まいを見せています。

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2020年11月23日

崇徳上皇の葬列と荼毘

上皇御柩が荼毘に付されるため白峰に向かう途中、激しい雷雨のため高屋阿気の地に留まったとき、柩を置いた石に血が「鈍染」し、荼毘の煙は白峰山の谷あいに漂ったという、「血の宮」と「煙の宮」の伝説。
この雷雨と煙の出来事は、初秋(現代歴10月初旬)における寒冷前線通過による激しい雷雨と、その後暫くして晴れて風も止み、翌朝まで放射冷却によって冷たい空気に厚く覆われた結果、朝には荼毘の煙は上空に上がらず谷あいに低く広がっていたことを明らかにしています。これらの伝説は連続する一連の気象状況の変化が起こした出来事として説明できることから、創作されたものではなく実際に起きたこと考えられます。
この伝説は「怨霊」や「恨み」と結びつけられることもありますが、仮にそうなら荼毘を行う情報がなかった京ではなく讃岐で話が作られたことになります。もしそうであるなら讃岐に「怨霊」が持ち込まれてからとなるので、数十年以降も後になって一夜の気象変化を前提にした話が作られたことになります。しかし、葬列運行中の豪雨も荼毘の煙も、その当日にしか目の当たりにすることができなかったことが衝撃を与えて伝え続けられているのですから、この連続した気象変化が起こした出来事は数十年以上も後になってから想像して作れる話ではないのです。

さて、上皇が6年近くお住いになった崇徳天皇社の場所からは、南に城山(きやま)を見上げることができます。この城山にある「不動滝」付近は御陵となった白峯と同じく古代から修験者の修業の場になっていました。御陵は白峯に置かれましたが、「上皇が崩御されたとき、城山の谷にある不動滝の横を墓所とする案もあった」ことが口伝にあるそうです。


葬列の運行 
現代歴の10月3日は、上皇柩が白峰山に向かって「野澤井」(八十場の泉)を出発したとされる日、翌日は「血の宮」伝説となった出来事があった日です。

上皇御柩が東に向かって渡った綾川。現在では洪水対策が進んで川幅も広くなりました。昔は大雨になると急激に水嵩が上がるくらい川幅も狭く、下流には幾度の氾濫があったことが伺える形跡や地名が残っています。
野澤井を発った柩は白峰山方向へ向かうため、現在の鴨川駅付近で綾川を渡ったと思われますが、翌日にようやく7km程先の高屋付近に至ったことからすると、私説ながら、柩は国府庁横の女房兵衛佐局が上皇とは普段は離れて住まわれていたのではないか筆者が推測する「鼓の宮」(鼓岡)に向かい、惜別儀礼の翌日に高屋に向かったのかも知れません。(本編:配流地「鼓岡」と「鼓岳」」

柩は、「血の宮」の後ろの山を越えて、狭く険しい山中を荼毘の場所(稚児ヶ岳の上)に運ばれたと思われます。この辺りから2km程の道程ですが木々も多く急斜面でかなりの時間を要したことでしょう。荼毘にあたって、朝廷の関与は何もなく(使者も参列も供物も弔意もなく)全て讃岐国庁の責任で行われたとされます。
荼毘の場所がそのまま墓所になったのでしょう。

 

現代歴10月5日夜8時頃始まったとされ夜通しかかった荼毘の煙は、翌朝には稚児ヶ岳と北峰の間に低く広がって「煙の宮」伝説になったことが伺われます。

上皇荼毘の煙にこの状況をもたらしたのは放射冷却現象だったと考えられます。下の写真は地上から上がった煙が僅か十数メートルほどの高さで大きく広がった様子(坂出市神谷町付近:2020年10/1午前7時頃)ですが、荼毘の煙も上空から押さえられるように谷あいに広がった様子が想像できます。

上皇崩御後に帰京した女房兵衛佐局から藤原俊成に伝えられた、上皇が配流中に詠まれた御宸筆の歌から、上皇は御苦難の中にあって、仏教に帰依されていたことが分かります(この歌は「長秋詠藻」(藤原俊成歌集)に搭載されています)。

2020年10月01日

真光寺屋敷跡と御供所八幡宮

讃岐配流後の崇徳上皇の御住居については「讃岐のさとの海士庄」の場所に造営するよう勅命があったことが一次資料、保元の乱当時の公家藤原清輔日記に書かれています。讃岐国府庁に近くて、海運や漁業の盛んな「海士庄」は現在の坂出市御供所がこれに当たり、「真光寺屋敷跡」と呼ばれていた場所こそ御所が造営され上皇が住まわれた場所ではないかと、三木豊樹氏著書中「御供所と崇徳上皇」の章で紹介されています。この説は保元物語などの軍記読み物の中で創作され流布した「鼓岡」御所説とは異なり、信頼できる一次資料とその後の歴史事実を検証したうえでのものだと受け止められます。
同氏は、著書の中で、「崇徳天皇は真光寺に居たと古老から何回か聞かされていた」「庚神社の処を昔から真光寺屋敷跡と呼んでいる」「寛永年間、伏見宮貞清親王殿下は、丸亀御供所の真光寺、西庄崇徳天皇社に参詣して色紙を遺している(注:丸亀真光寺は、江戸時代初期に丸亀城の鬼門の守りのため藩命により坂出御供所から移転)」「丸亀真光寺には、崇徳上皇に関する古文書等が多く遺っていたが文久年間の火災で惜しくも焼失してしまった」「明治二十年頃までは、石で周囲を囲ってあって、不浄の者立ち入る可からずと立札があった」「村では真光寺屋敷跡を、御供所八幡神社の世話をよくしてくれた仁右衛門氏の屋敷に提供した」と地元に伝わる話を記しています。また、上皇を慕って京から御供所に遷った宮中官人の末裔の言い伝えなどから歴史を探求しています(下映像You Tubeで真光寺跡を紹介)。

このように伝わる歴史から、現在、丸亀の真光寺入口の寺名石には「崇徳上皇遺跡」と記されています。

続けて、映像では御供所八幡宮を紹介しています。南北朝時代に細川頼之が南朝方の高屋城を攻めるべく「平山」(御供所を含む聖通寺山全体)に陣を張り、武運を祈って建てたのがこの八幡宮です。平山城(聖通寺城)は、足利管領職に出世した頼之の臣下から生駒親正まで200年以上に亘り讃岐支配の居城でした。

御供所の港は水深が深く古くから海運や漁業で栄えた「海士庄」。御供所は、中近世には武運をもたらす八幡宮と讃岐支配の居城や奉行所のある所として知られ、古代の悪漁(海賊)退治伝説も残る歴史のある土地です。また、御供所村は、阿野北郡を構成する西庄郷に含まれていた時代もあることから、ここから京の崇徳御影堂へ寄進を行った関係も考えられることになります(西庄郷:「西庄」とは綾川から西の、京の崇徳院御影堂に寄進する荘園を指していました)。

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2020年08月30日

摩尼珠院寺譜

摩尼珠院寺譜」は、「明りの宮」崇徳天皇社の別当職に任じられた「摩尼珠院」の由来として「江戸中期の頃、同寺によって上梓され1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」と改題・再刻され」たとしています(「香川叢書」第一部)。

崇徳上皇の行在所に関係する記述として、寺譜では崇徳天皇社(現白峰宮)の場所を「御鎮座所」としていますが、その意味には上皇お住いの場所だったことを直接的に示すほか、「天皇神霊の止り給う霊場」という表現から、殯(もがり)のときに現れた「神光」が上皇御霊のことであり、苦難の六年を過ごされたお住いの場所に留まっておられるという意味にも解されます。いずれにしてもここは上皇住が実際に住まわれた場所であることを「御鎮座所」の表現が明らかにしています。
また、行在所に関連する別の記載には「遷幸」がありますが、そのうち「讃岐国に遷幸」は、実際に御身を讃岐国に遷して生活されたことを意味します。他の「遷幸」記載では、衛士坊を「天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地」と説明しています。上皇御自身が実際にこの場所で住まわれたことを「遷幸」として、上皇お住いに近接する場所には「供奉」する衛士が居住していたことを示しています。

寺譜では上皇配流地の変遷を、「高任の館」―「長命寺」―「直島」―「府中鼓岡」としています。軍記物語や江戸中期の讃岐の書物に同じ経過のものはありませんから、この御遷幸経緯はそれらを組み合わせて取り入れていることが分かります。これらのうち事実でない箇所は、当時「讃岐」国ではなかった直島に遷られたとしていること、摩尼珠院末寺であるから当時はまだ存在していなかった長命寺、府中を「讃岐のさとの海士庄」とするなら誤っている鼓岡。その他にも、実際には仁和寺に保管された(『吉記』)五部大乗経が上皇の元に送り返されたので「大魔王となって恨み」の箇所や、「大乗経」を椎門(つちのと)の海底に沈めたというところも事実ではない事が証明されており、同様に軍記物語の創作から取り入れていることが分かります。

「寺譜」は本来、寺の歴史ということですが、寺がここに置かれた1244年以降の歴史記録並びにそれ以前の歴史でも寺が聞き及んで知っている内容が書かれています。寺の設置以前の話でも軍記物語に書かれていることはそこから取り入れて構成されています。このため軍記物語の創作を寺譜が取り入れてしまい、寺譜には事実と事実でないものが混在することになったのですしかし、軍記物語以外の箇所は寺の言い伝えが修正されないで伝わっていることになります。
〇軍記物語から取り入れたため誤っているのは、
  上皇の配所移転の経過、崩御地、大乗経の椎門沈め、
〇軍記物語にはない、寺に伝わる歴史が書かれているのは
  殯の時の「神光」、崇徳天皇社造営と別当職任命、天皇御鎮座所であるこ  と、藩主松平頼重公による京都からの住職招聘、八十場の水の謂れ、岩根  の桜、衛士坊、明星淵、俱舎谷、神人、氏子、末社、末寺

寺譜の配流地変遷の箇所については事実性を否定できる以上、寺譜の記載「府中鼓岡」を根拠にして配流地・崩御地を述べることは避けなければいけません遥か京で作られた軍記物語を取り込んでいる上皇配流先の経緯は歴史事実としては信頼性を欠くものだからです。
こうした評価からすると、歴史事実の真偽の検証や判断は、軍記物語や読み物にだけに依存しないで、地元に残る伝説・伝承間との辻褄や「清輔朝臣集」等の一次資料を含めて考えていかなければいけないということになります。
その結果、本書では、最初は急遽の配流のため綾高遠の館に仮住いし、次に勅命に従って速やか(数ヶ月後)に「海士庄」に造営された御所に遷り、配流からおよそ3年後に上皇幽閉の必要が生じたため、国府庁からは一定の距離にありながら外部との接触を絶てる森林中の幽閉場所に遷られた可能性が最も高いということを、「真光寺」「衛士坊」「侍人」の歴史事実や「神光」の意味、上皇が住まわれた場所への崇敬の歴史などから考察しています。 軍記物語とその影響を受けた書物の文字面だけからでは事実は導けないのです。

前述のように、寺譜には「衛士坊 天皇遷幸の御時、供奉の衛士居住の地なり。因って命く。」と、幽閉と監視に関する記載があります。この場所に伝わる「衛士坊」「衛士坊の坂」の名前は、崇徳上皇幽閉の場所と監視役の衛士が居住する「坊」が「明りの宮」付近の場所にあって、ここに通う衛士が行き来した坂が「衛士坊の坂」であることを伝えています。こうした軍記物語に記載がない項目は、幸いにも軍記物語の影響を受けることなく、寺が引き継いできたことが残っていると考えられます。

この寺譜は、江戸末期1862年に「崇徳天皇御鎮座所縁起」に改題されたとなっていますが、その理由やその時の改訂・修正箇所等の経緯については不明となっています。

「摩尼珠院」石標 寛政12年(1800年)

2020年08月23日

西行法師の道から白峯御陵へ

崇徳上皇崩御3年後に墓所を訪れた西行法師は、白峰稚児ヶ岳の向こう側と知らされた上皇墓所を目指して、白峰山の道なき道を登った。
西行の道、出発直後は近代的に整備された九折の階段を進みますが、御陵参道に至る前には明治時代に整備された登り斜度30度・直線280mほどの石段が待ち構え、もうすぐ参道という所ですが息が上がり足を持ち上げるのに時間がかかる難所になっています。全長1.34km、高低差230m、石段数830段、沿道には歌碑と灯篭が整備されています。

 動画(下)補足:藩政時代には「稚児ヶ滝」や修行場へ向かう橋が架かっていたという場所を紹介しています(5:45頃説明)が、今は柵があるので、この滝は遠望の美しさを楽しむということになります。また、道の後半(白峯古道)途中(9:28頃)には撮影中の転倒場面がありますがご容赦願います。
 映像(You Tube)は、実行程の時間を短縮して紹介しています。

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2020年08月11日

稚児ヶ滝 と 不動の滝 

崇徳天皇白峯陵の北の断崖(稚児ヶ嶽)の西端から流れ落ちる「稚児ヶ滝」と天皇寺奥の院の場所にある「城山不動の滝」は、上皇の祀りに関連する坂出市内にある二つの「滝」です。
それぞれの滝の簡単な説明と映像(下:You Tube)で紹介します。

[白峰山・稚児ヶ滝(ちごがたき)]
白峯寺山門の石橋の下を流れる小さな川は、白峯御陵のすぐ北にある断崖絶壁「稚児ヶ嶽」から流れ落ちる「稚児ヶ滝」となって姿を現します。80メートル程という滝の高さは県内最大級ですが、流域面積が狭いのでまとまった雨が降らないと現れない「幻の瀑布」です。白峯寺、白峯御陵のすぐ近くを巡り流れて御陵の北で瀑布になって現れるのは、「皇室に関わりのある方が白峰を訪れると雨になる」という噂話と何か不思議な繋がりがあるのでしょうか。
*坂出市にあるもう一つの有名な滝は、崇徳天皇社別当寺「摩尼珠院」(廃寺)と天皇寺の奥の院の場所にある「城山不動の滝」です。

[城山・不動の滝(ふどうのたき)]
崇徳上皇の最後のお住まいとなった場所(一次資料に記された「讃岐のさとの海士庄」から遷されて幽閉された場所)を祀るため崇徳天皇社が建立されたとき、この山(金山:かなやま)の中腹に弘法大師が開いた摩尼珠院が別当寺に任じられ、天皇社の場所に移転し再建されました。この崇徳天皇社(現在の白峰宮と天皇寺)の南の山、城山(きやま)の中腹にある「不動の滝」は、摩尼珠院と天皇寺の奥の院の場所にあたり、古い時代から修験者の修行の場・霊場だったようです。

この地に伝わる話によると、「上皇が崩御されたとき、城山のこの谷にある不動滝の横を墓所とするのが第一案でしたが「あまりに近すぎる」ため白峰を墓所とすることになった」という話しが口伝で遺されているそうです。いずれも真言密教や修験者の修行と縁のある場所ですが、不動の滝のある谷は上皇が住まわれた天皇社(明りの宮)から見上げる所、白峰は高い山上の修験の場所(寺)に隣接している所、何れかという選択肢・・。京の政権人はこの辺りの地勢には不案内ですから、讃岐国府庁が示した案の中から決定されたというのが現実の姿だったのでしょう。
 (不動の滝 上の映像:夏季  下の映像:冬季 の撮影です)

 

稚児ヶ滝

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不動の滝(夏)

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不動の滝(冬:氷結)   2021年1月

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2020年07月19日

崇徳天皇社 勅使道

坂出市の鎌田池北東角にある「一里木(いちりもく)」から里山沿いに東へ向かう道は、江戸時代に「勅使道」と呼ばれ、京から来た勅使が福江の津と崇徳天皇社(明りの宮)の間を往還した道です。
崇徳天皇社(「明りの宮」(現在の白峰宮)と別当寺「摩尼珠院」(現:天皇寺高照院)は、後嵯峨天皇が崇徳天皇御座所跡に崇徳天皇社として再建し、江戸末期までの約800年間に亘って厚く崇敬されました。明治初年まで毎年、襟裡御所(朝廷・天皇)より祭祀料として白銀5枚を下賜されていたほか、高倉天皇、土御門天皇、御嵯峨天皇、孝明天皇、明治天皇、領主(生駒家、松平家)や武家からも寄進がありました。「崇徳天皇社が高い格式を持った事は、京都襟裡御所と領主の政治的経済的庇護の背景によるものであるが、その格式と権力の基礎となったのは崇徳天皇の行在所」であったからで、則ち行在所であったことが「信仰の場として端を発し」、「明治維新まで、社事の報告のため、毎年京都の襟裡御所へ参内することになっていた。格式ある駕籠に乗って、襟裡御用の立札を立て・・・、宮中からは毎年下向使が祭司料をもって摩尼珠院へ来た。福江(の津)から谷内、天皇(社)に通じる旧往還を勅使道と呼んで」いました。(「」内は三木豊樹氏著「真説崇徳院と木の丸殿」から抜粋引用。)
「勅使道」の起点となる坂出市の鎌田池北東角の三差路にある「一里木(いちりもく)」は、「天皇さん」へおよそ1里ほどの距離であることからこう呼ばれています。山沿いの福江町、谷町、金山小学校前、江尻町、西庄町八十場を通って、白峰宮・天皇寺に至る道が勅使道です。

この道を「一里木」から崇徳天皇社に向かって撮影した写真と動画(ドライブレコーダー)を掲載しました。昔の風情を残す沿道には、金山産サヌカイトを塀や家の基礎に使っている様子が今でも多く残り、勅使道の姿を伝えています。

上(写真スライドショー)・ 下(動画)

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勅使道沿い創業124年の「池田商店」
明治29年創業の懐かしい駄菓子屋さんが勅使道沿い(福江町)にあり、近くの方の生活品、お酒、菓子などを売って120年以上も頑張ってこられました。今(取材後に閉店されました)は駄菓子を置いて子供達を待っていらっしゃいます。お近くを通る機会があれば、子供・お孫さん、ご年配の自分用にもお菓子を買ってお店を応援しましょう。店内は、左右正面に駄菓子が・・懐かしいものもあり、私はキャラメル、シガーフライ、都こんぶ等を買いました。建物も100年以上前の、立派な梁です。毎年秋まつりに子供獅子が店先で舞ってくれるのを楽しみにされています。

令和二年十月末日をもって惜しまれながら閉店されました。長い間、地域や子供たちのためにありがとうございました。沢山の子供達の心にずっと残っていると思います。

 

「勅使道」が繋いだ地域の絆
一里木から4km弱、勅使道は福江、谷内(谷町)、江尻、西庄八十場を通って「天皇さん」に至ります。道は、その道が通る地域の人や物を流通させ、地域の思いや文化までも繋ぎます。そして、現代までその形が残っているものがあります。
福江、江尻、西庄は、明治期に役場や小学校が共同(代表役場、本校・分校の関係など)だったこともあります。勅使道の中間あたりにある「金山小学校」は、福江と江尻が明治時代に合併した旧「金山村」校区の子供達が通う学校で、両町の中間あたりの別の町内に建てられたこの小学校に子供たちが集まってくるのは、まさに勅使道が繋いだ歴史だと言えます。(金山小学校は、校区外の「谷町」に立地。「谷町」は金山と笠山の二つの山に挟まれた所で江戸後期までは海で、塩田ができてから人が増えていった場所なので谷町辺りの勅使道は海岸線沿いの山道でした。)
白峰宮(旧崇徳天皇社)の例大祭(10月第一日曜日)には地元の西庄町内と、福江・江尻からも獅子舞や太鼓台が集まってきます。また、崇徳天皇社の別当寺になった摩尼珠院が元々はあったという、金山中腹の「瑠璃光寺」「金山神社」の境内地では明治期まで江尻の皆さんを中心に周辺からも集まって春市や夏祭りを賑やかに楽しんだ交流の歴史が続いてきたそうです。崇徳上皇行在所(「明りの宮」崇徳天皇社)への信仰が基になって、福江の港と「天皇さん」を結ぶ「勅使道」が通る地域が繋がり、育くまれてきたことが分かります。

2020年03月25日

衛士坊の坂

天皇寺高照院の東側石垣土塀 に沿って、北に向かって下の県道33号の方へ下がる百五十メートルあまりの坂道は、古来より「衛士坊(えじぼう)坂」(衛士坊の坂)と言い伝わっています。坂の上にある天皇寺高照院(江戸時代までは「摩尼珠院」)の場所には、この地に幽閉した崇徳上皇を監視する衛士の詰所(坊)があったと地元で伝承されています。「摩尼珠院由来」にはそのことを「衛士坊天皇遷行の時、供奉の衛士居住の地なり、因って命名す」と、由来を明らかにしています。
ここに「坂」の名が付いて言い伝わっていることは、この上に「坂」の目的地があり人が移動していたことを表しています。則ち、「衛士坊」は崇徳上皇の御座所を監視するため衛士の駐在場所のことで、衛士が五年余に亘って通った道が「衛士坊坂」の地名になって後世に伝わったことがわかります。

都で作られた「保元物語」で上皇幽閉地とされた「鼓岡」は、はるか遠い都の地で確認されないまま書かれた創作であったことがこれにより明確になっているのです。
上皇がここに遷されたのは讃岐配流からおよそ三年が経過していた平治の乱の頃、京の命令に依り「讃岐のさとの海士庄」からこの地に幽閉されたと考えられます。

動画(下)補足:衛士坊坂の下県道33号線側のJR踏切を越えた所から、天皇寺の入口前まで徒歩で登ってみます。途中、十字路の南西角には「摩尼珠院」の立岩(江戸時代)があります。

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2020年03月06日

白峯寺 大護摩法要

令和2年と令和4年の大護摩法要を、
令和2年については上段の写真と記事で、
2年ぶりに開催された令和4年の大護摩法要については下段の動画(You Tube)でお伝えします。

令和2年(2020年)1月の大護摩法要



白峯寺では、1月の最後の日曜日に大護摩法要が行われます。修験者が結界を切って入った護摩法要の場所で、訪れた人の願いが書かれた木札を煙と炎の中に投げ入れて祈願します。濛々と沸き立つ煙は、例年は一般参拝者を包むように広がってから空に向かうのですが、今年はまっすぐ上に向かって駆けあがったのが印象的でした。

修験者たちは、炭を均した上に敷いた木の板が燃え上がった所を歩きます。炎が上がっている中を歩く姿は見ているだけでも緊張する迫力です(写真下)。「火渡り修行」を事前に申し込んでいた一般の皆さんは自分も同じことをするのかと想像して怖気づいていましたが、一般参加者の時には火を消してさらに杉の葉を掛けた上を歩くという「火渡り修行」になります。渡った後に湯の入ったタライに足を浸けて炭を落とすと、災いを落とし厄払いが出来た心地になりました。
この間、崇徳上皇と上皇を御守りする天狗を祀る「頓証寺殿」の中では「大般若転読法要」が行われ、真言宗の祈りの時間を共有させて頂くことができます(頓生寺殿に上がって、お参り・拝聴することが出来ます)。この読経が終わるころには、大護摩壇の燃えた木も片づけられ始めると、参拝の皆さんは修験者にお断りをして、結界を示す縄に付いていた紙垂(しで)を持ち帰られます。

下の動画:令和4年(2022年)1月の大護摩法要 (2022年2月1日追加)

今回の修験者(行者)の皆さんは、県内からのみのお集まりだと伺いました。
大護摩法要と大般若転読法要(頓証寺殿の外から遠景撮影)の模様。

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2020年01月26日

崇徳上皇崩御の日

上皇が「柳田」の地で凶刃に倒れられた長寛2年8月26日は、現代の暦では9月14日にあたります。その後、荼毘に付されるまでの伝説の旧暦と現代暦は次のようになります。
旧暦 9月16日・・現代暦10月3日、柩が野澤井(八十場の泉)を出発して白峰山に向かった。
   9月17日・・同10月4日、豪雨のため高屋の阿気あたりで留まる。 棺を置いた石に血が鈍染。
   9月18日・・同10月 5日、白峰で荼毘に付された煙が、後に「煙の宮」が祀られた谷あいに数日間漂ったと伝えられている。 

2019年09月14日

弥蘇場地蔵堂、八十場の泉

 流水灌頂(ながれかんじょう)


八十場の泉の隣に佇む弥蘇場(やそば)地蔵堂。流水灌頂は古くから続く風習と言われ、水の災難や難産で亡くなられた方などが供養されています。板塔婆が泉の中に置いてあり、お地蔵さんには八十場の霊水を注ぎます。天皇寺高照院のご住職らが本堂でお勤めの後、お地蔵さんに水を注ぎ、続いて地元の皆さんが水を注いで供養します。昔は日本中で見られた風習だったそうですが、今でも残っているのは非常に貴重で、先祖供養や家内安全などを祈る庶民の思いが引き継がれた行事になっています。毎年7月の第3日曜日に行われています。

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地蔵堂内の、擬人化された拝む「キリン」(常設ではないと思いますが)。市内の造形作家によるこうした作品は最近、市内数か所に置かれ市民や観光客を癒しています。(2022年5月撮影)

八十場の泉 :動画(2021年3月撮影)

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補足八十場(やそば)の泉は、古くは「安庭水」、後に、日本武尊の大魚退治伝説により「八十蘇水」に、さらに崇徳上皇伝説の頃より「野澤井」と改められた(「綾北問尋鈔」(1755年)要約)という。「全讃史」(1828年)には「野澤井、今の八十場」と記されています。

2019年07月21日

白峰宮 例大祭

 

白峰宮例大祭は、毎年10月第一日曜日に行われます。現在まで、京から上皇を慕ってきた侍人の末裔の皆さんが神輿を担ぐ伝統が続いています。西庄、江尻、福江の獅子舞、だんじり、太鼓台が参加し、普段は静かな境内が賑やかな場になります。

2018年10月07日