前のブログ記事「検証(しど 直島 松山)」から続く
[鼓岡と西庄崇徳天皇社の由緒]等(注:和歴を一部は西暦・英数字で記載)
●鼓岡神社
①「鼓岡神社由緒」
・「建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峯御陵に移し跡地にこれに代わるべき祠を建立し上皇の御心霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の草創と伝はれている。」(境内表示の由緒書き)
・「建久二年閏十二月宣旨により崇徳院崩御の所に一堂を建て仏事を勤めさせる事にしたのが此の神社の草創といわれている。尚地方誌には上皇の近侍遠江の阿闍梨章実という僧が鼓岡の御所を白峯に移して頓証寺と号し御菩提を弔い奉りその跡に代わるべき社を建てたと伝へている。」(「村社 鼓岡神社 由緒 明治十二年愛媛県権令岩村高俊に提出のもの」(『府中村史』より)
●西庄崇徳天皇社
①「白峰宮御由緒書」
「長寛二年(1164年)10月10日第78代二條天皇命により社殿を造営し霊を祭り、第80代高倉天皇は当国の稲税千束を納め、源頼朝も稲税を納めて下乗の碑を建てられた。第83代土御門天皇は当宮を尊崇して勅願所を仰せ出され第88代後嵯峨天皇は社殿を再建し御宸筆の御願文に御手形の朱印を加え、荘園を御寄附し給われた。」
②「白峯寺縁起」
「国府の御所を近習者なりし遠江阿闍梨章実、当寺に渡って頓証寺を建立して御菩提をとぶらいたてまつる」。
③「伝」
二条天皇宣下により、「もがり」のあいだ神光のあった地に祠を建てた。
●「山家集」(西行)
松山の津と申す所に、新院のおはしましけむ御跡を訪ね侍しに、かたちもなかりしかば」*崩御の3~4年後と伝えられている。
●「玉葉」(九条兼実の日記)
参照:『玉葉 第三』(国書刊行会)巻第六十二、
:『訓読玉葉 第8巻』(高科書店)玉葉巻第六十二
建久二年閏12月 抜粋(訓読と書き下し:後白河院は病床にあり)
14日の条
崇徳院並びに安徳天皇等、崩御の処に一堂を建て、かの御菩提並びに亡命士卒の滅罪の勝因に資すべき事、申し沙汰すべき由、泰経に仰せ了り、即ち退出し了んぬ。
20日の条
崇徳院、安徳天皇等の奉為、一堂を讃岐、長門等の両州に建てられるべき事、並びに崇徳院官幣に預かるべきやの事を奉す。・・その趣きに随い、沙汰あるべし。
22日の条
(崇徳院、安徳天皇の怨霊を鎮めらるべき事)各定め申し了んぬ。左大弁に仰せ、直ちに奉せしむ。而るに御寝に依り申し入るる能わずと云々。仍って人々退出し了んぬ。
一 崇徳院御陵辺りに(讃岐国)一堂を立て仏を置かるべき事、一同尤も然るべき由を申す。民部卿(藤原経房)申して云はく、讃岐国仏寺を置き、田園を寄する事これありと云々。委しく尋ねらるべきかと云々。件の沙汰院の沙汰たるべき、又公家の沙汰たるべきやの事、人々の申状一同ならず。但し多分宣旨を下さるべしと云々。余これに同ず。
一 国忌山稜の事、(略)
一 崇徳院成勝寺の事、(略)
一 官幣の事、(略)
一 安徳天皇の御事、(略)
讃岐国に尋ねらるべき事、
崇徳院の御陵、堂舎あるやの事、
何仏の事を置かるるやの事、
寺領田園子細の事、
28日の条
崇徳院讃岐国御影堂領、官符を給ふべし。又長門国一堂を建つべき由、宣下すべしといえり。皆御定めに任せ、宣下すべき由仰せ了んぬ。(略)
**以下、(部分)書き下し**
14日の条
崇徳院と安徳天皇等の崩御の処(御陵)に堂宇と建て、その菩提を弔うとともに亡き武士たちの罪が許されるように沙汰すべき旨を(後白河院が)藤原泰経に仰せられた(*発案した)ところで、退出した。 *筆者注
20日の条
崇徳院と安徳天皇等の為に一堂を讃岐と長門に建てるべきであること、崇徳院御影堂に財政支援すべきことを申し上げた。その趣旨に従った何らかの措置があるだろう。
22日の条
崇徳院、安徳天皇の怨霊を鎮めるべき事を定めた。左大弁(朝廷の行政事務を取り仕切る役職)に直ぐに後白河院に申し上げさせようとしたが、院は眠られたということだったので、皆退出した。
一 崇徳院御陵辺りに(讃岐国)一堂を立て仏を置かるべき事について 皆、そうすべきことを述べたが、民部卿(藤原経房)が言うには、既に讃岐では仏寺を置いて田園が寄進されているので、これについて詳しく調べておくべきであるなど。この沙汰を院から行うか公家から行うか皆の意見は同じでなかったが、院の意向によるだろうと意見があったのでこれに同意した。
(略)
讃岐国について調べておくべきこと
崇徳院の御陵、堂舎があるかどうか、
何の仏を置いているか、
寺領田園の子細、
28日の条
崇徳院讃岐国御影堂領に官符を給い、長門国には一堂を建てるべきと宣下すべきである。決められた手続きによって宣下すべきであると命じられて、終えた。
*(参考:天皇や院の「沙汰」の流れ)*
1.発案(重要事項は天皇や院により発議) ・・ 14日の条
2.評定(公卿が集まり評定が行われ意見をまとめる)・・ 20日、22日の条
3.決定(評定の議論をもとに命令内容の決定) ・・ 28日の条
4.宣下(詔や宣旨という形で行われ、公文書に記録される)
**「玉葉」の記録は上記「沙汰」決定の手順を経ていることが分かる**
●「風雅和歌集」
寂然が上皇配所から都へ帰る際に詠んだ「・・君が住むそなたの山」、西行讃岐訪問の時の「松山の津と申す所に院おはしましけん御跡」とあるのはいずれも最後のお住いとなった場所のことを指しています。この二首の歌から、上皇幽閉御所は「山」の麓から中腹付近と考えられ、かつ「津」に近いと認識できる場所だと分かります。これは京の人が行政区域の「松山郷」を認識している必要はなく、現地を見た認識に基づいて表現されている。
上記のうち「山家集」「玉葉」「風雅和歌集」が一次資料です。西行は、讃岐の上皇配所訪問に当たって、上皇崩御後に讃岐から京付近に帰った女房兵衛佐局や上皇幽閉期間中に配所を訪れたとされる「蓮如」から配所の具体的な位置を聞いたと思われ、その場所を把握したうえで、上皇が崩御のときまで6年近く住まわれていた場所を訪ねることができたと考えられます。
以上の資料から次のように検証されます。
1.西庄崇徳天皇社の由緒によると、白峯で荼毘に付された20日後に二条天皇宣下により社(やしろ)が建てられることになったというこの場所に御所があったと考えられる。一方、鼓岡神社由緒に従うと、木の丸殿を初めて移転したのは1191年で崩御27年後まで所は同じ場所に残されたままになっていたことになる。
2.西行法師が白峯陵に詣でたのは上皇崩御3~4年後。西行は上皇が崩御の時まで住まわれていた場所を訪れたが上皇お住まいは無くなっていたと詠んでおり、これは事実を反映していると考えられる。
白峯寺縁起では、荼毘に付した旨の直後に「国府の御所」の白峯への移転が書かれ、さらに西行訪問の話へと続いている。従って、阿闍梨章実が御所を遷したのは 上皇崩御から西行讃岐訪問の前までの出来事である。
3.鼓岡神社由緒では1191年、後白河院の命により白峯の堂宇とするため上皇が住まわれた鼓岡御所を移転したとしている。しかし、「玉葉」の事実記録によると堂宇は既に建立されていたことが分かったので、最終決定された沙汰(28日の条)には崇徳院の堂宇建立に関する内容は無く、御影堂領に官符を給う宣下になっている。つまり、同神社由緒の、「宣旨に基づいて鼓岡の御所を遷して白峯御陵の一堂にした」としている箇所は、「玉葉」の事実記録と整合していない。(長門国については一堂がなかったので安徳天皇の菩提のためこれを建てる宣下が決した)
御所(木の丸殿)の移築については白峯寺縁起にあるように崩御の後、速やかに行われており、そうすると一堂が既にあったという「玉葉」と符合している。崇徳天皇社の場所にあった「木の丸殿」こそ御陵の辺りに既に建立されていると報告された「堂宇」或いはその前身となった建物だったことになる。
4.鼓岡神社由緒では1191年を神社の草創として捉えているが、その後の崇敬の歴史について伝えるものが何もない。一方、西庄崇徳天皇社では歴代天皇、有力者が崇敬の歴史を重ねており、祀るべき重要な場所であると認識されていた。
5.前のブログ「検証(しど 直島 松山)に記した寂然の「そなたの山」と西行の「松山の津」が示す上皇幽閉御所の場所は、海岸線から遠い「鼓岡」ではなく、金山(かなやま)の麓にあり当時は海が眼下数百メートルまで迫っていた。京へ帰る船からその山を望むことができた西庄崇徳天皇社の位置は、「山家集」と「風雅和歌集」が示す条件を満たし、鼓岡の位置はこれらと整合していない。
**「鼓岡」と「西庄の崇徳天皇社」の検証結果(まとめ)**
●「鼓岡神社由緒」では、沙汰決定前の「発案」(12月14日の条)の内容を神社草創の根拠にしている。しかし、崇徳院の御陵辺りは既に堂宇があった(12月22日の条)ので実際に決定した「沙汰」(12月28日の条)の内容には「一堂」建立は含まれていない。宣下を受けて鼓岡の御所を移転したという神社由緒は事実と相違していた。
●建久二年の崇徳院御影堂領に官符を給う「沙汰」の前に既に御陵辺りに存在していた堂宇とは、上皇崩御後に速やかに遷されていた「國府の御所」だった。白峯に移転されたその建物で崇徳上皇の菩提が弔われていた。
●白峯に移された崇徳院お住まいの「國府の御所」は、後に崇徳天皇社が建立された場所にあった。『白峯寺縁起』には「國府甲知郷鼓岳の御堂」とあるので、その地は当時の甲知郷に属し、御堂(御所)が置かれた『鼓岳』と記された山は崇徳天皇社がある「金山」を指していることが判明した。
(御所の場所を混乱させた諸本「金刀比羅本」等)
保元物語のうち最も古いと言われる「半井本」では上皇の最期となる御所の位置は「国府」と書かれ、その表現は特定地ではなく一定の範囲を示す表現でした。後に書かれた諸本「金刀比羅本」では「国府」と表現された範囲内にある「鼓岡」だと特定して書かれました。「鼓」の文字から京を連想させることなどから上皇行在所としたのでしょうか。しかし、その結果「金刀比羅本」などの「鼓岡」は、史実の認識を誤らせる方向に働いたのです。
「金刀比羅本」では途中の配流地を讃岐国ではない「四度郡直島」や「四度道場辺鼓岡」に移り、と地理認識が低く混乱しています。同様に、「鼓岡」にも具体的根拠はありません。つまり、書かれていた配流先地名は元々どれも信頼性を欠いていたのです。「鎌倉本」においても「志度郡直島」「志度の道場という山寺」、「古活字本」でも「直島」「志度」と地理的に整合しておらず、いずれも讃岐の地理・地名に関して真面なものではなかったことが分かります。
このような諸本の配流地名はいくら比較検討してもその中から史実を見出すことはできないものだったのに、これらに拘泥した分析になったことは誤りでした。
保元諸本に書かれた讃岐の地名はこのように信頼を欠くものでしたが、金刀比羅本などはフィクション性が強く「面白い」ため広く流布して、全て事実であるかのように心理的に受け入れさせる程の影響力があったようです。平家物語の異本である源平盛衰記などにも「鼓岡」が引き継がれたのですから、その影響は大きかったと言えます。讃岐内においても江戸時代の地元誌「綾北問尋鈔」は金刀比羅本等の明らかなフィクションを史実であるかのように取り入れて影響を与えています。そしてこれらのフィクションを本当のように伝えるための「伝説」も作られました。
しかしながら、江戸時代のこの地の領主(藩主)生駒家・松平家は、白峯御陵と西庄崇徳天皇社に対してたびたび寄進して崇敬しているほか、松平家初代頼重公は「天皇御座所なれば」として別当寺摩尼珠院に京から住職を招いています。一方で、「鼓岡」に対しては藩主や有力者から何の崇敬措置もなかったのは「鼓岡」は流行本の中のことであって史実根拠はないことが知られていたからだと考えられます。
それでも保元諸本が流行したことによって、誤って書かれた配流地名でありながら少なからず影響し誤解を与えていたと思われます。明治時代以降の、神仏判然令による摩尼珠院廃寺をきっかけにして地域振興を図ろうとする「鼓岡顕彰運動」は、崇徳天皇社における歴史事実を尊重せず、鼓岡説を事実化しようと各方面に働きかけた大きな運動だったようです。
鼓岡神社には、参道石段沿いに「杜鵑塚」があり、「啼けば聞く聞けば都の恋しきにこの里過ぎよ山ほととぎす」と崇徳上皇が京を偲んだ歌だと供養しており、境内の由緒板にもこの歌が書かれています。しかしこれは後鳥羽上皇が隠岐で詠んだものですから、鼓岡の権威付けのために流用したと思われます。明治から昭和初期にかけては「鼓岡」を正当化するためのフィクションが作られ、そのことが許された時代だったということなのでしょう。
こうした、歴史修正が実行された経緯は、「歴史」の性質を考える一助になることでしょう。
崇徳天皇社(2024春撮影) 白峰宮と天皇寺髙照院