崇徳天皇社 勅使道
坂出市の鎌田池北東角にある「一里木(いちりもく)」から里山沿いに東へ向かう道は、江戸時代に「勅使道」と呼ばれ、京から来た勅使が福江の津と崇徳天皇社(明りの宮)の間を往還した道です。
崇徳天皇社(「明りの宮」(現在の白峰宮)と別当寺「摩尼珠院」(現:天皇寺高照院)は、後嵯峨天皇が崇徳天皇御座所跡に崇徳天皇社として再建し、江戸末期までの約800年間に亘って厚く崇敬されました。明治初年まで毎年、襟裡御所(朝廷・天皇)より祭祀料として白銀5枚を下賜されていたほか、高倉天皇、土御門天皇、御嵯峨天皇、孝明天皇、明治天皇、領主(生駒家、松平家)や武家からも寄進がありました。「崇徳天皇社が高い格式を持った事は、京都襟裡御所と領主の政治的経済的庇護の背景によるものであるが、その格式と権力の基礎となったのは崇徳天皇の行在所」であったからで、則ち行在所であったことが「信仰の場として端を発し」、「明治維新まで、社事の報告のため、毎年京都の襟裡御所へ参内することになっていた。格式ある駕籠に乗って、襟裡御用の立札を立て・・・、宮中からは毎年下向使が祭司料をもって摩尼珠院へ来た。福江(の津)から谷内、天皇(社)に通じる旧往還を勅使道と呼んで」いました。(「」内は三木豊樹氏著「真説崇徳院と木の丸殿」から抜粋引用。)
「勅使道」の起点となる坂出市の鎌田池北東角の三差路にある「一里木(いちりもく)」は、「天皇さん」へおよそ1里ほどの距離であることからこう呼ばれています。山沿いの福江町、谷町、金山小学校前、江尻町、西庄町八十場を通って、白峰宮・天皇寺に至る道が勅使道です。
この道を「一里木」から崇徳天皇社に向かって撮影した写真と動画(ドライブレコーダー)を掲載しました。昔の風情を残す沿道には、金山産サヌカイトを塀や家の基礎に使っている様子が今でも多く残り、勅使道の姿を伝えています。
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勅使道沿い創業124年の「池田商店」
明治29年創業の懐かしい駄菓子屋さんが勅使道沿い(福江町)にあり、近くの方の生活品、お酒、菓子などを売って120年以上も頑張ってこられました。今(*取材後に閉店されました)は駄菓子を置いて子供達を待っていらっしゃいます。お近くを通る機会があれば、子供・お孫さん、ご年配の自分用にもお菓子を買ってお店を応援しましょう。店内は、左右正面に駄菓子が・・懐かしいものもあり、私はキャラメル、シガーフライ、都こんぶ等を買いました。建物も100年以上前の、立派な梁です。毎年秋まつりに子供獅子が店先で舞ってくれるのを楽しみにされています。
*令和二年十月末日をもって惜しまれながら閉店されました。長い間、地域や子供たちのためにありがとうございました。沢山の子供達の心にずっと残っていると思います。
「勅使道」が繋いだ地域の絆
一里木から4km弱、勅使道は福江、谷内(谷町)、江尻、西庄八十場を通って「天皇さん」に至ります。道は、その道が通る地域の人や物を流通させ、地域の思いや文化までも繋ぎます。そして、現代までその形が残っているものがあります。
福江、江尻、西庄は、明治期に役場や小学校が共同(代表役場、本校・分校の関係など)だったこともあります。勅使道の中間あたりにある「金山小学校」は、福江と江尻が明治時代に合併した旧「金山村」校区の子供達が通う学校で、両町の中間あたりの別の町内に建てられたこの小学校に子供たちが集まってくるのは、まさに勅使道が繋いだ歴史だと言えます。(金山小学校は、校区外の「谷町」に立地。「谷町」は金山と笠山の二つの山に挟まれた所で江戸後期までは海で、塩田ができてから人が増えていった場所なので谷町辺りの勅使道は海岸線沿いの山道でした。)
白峰宮(旧崇徳天皇社)の例大祭(10月第一日曜日)には地元の西庄町内と、福江・江尻からも獅子舞や太鼓台が集まってきます。また、崇徳天皇社の別当寺になった摩尼珠院が元々はあったという、金山中腹の「瑠璃光寺」「金山神社」の境内地では明治期まで江尻の皆さんを中心に周辺からも集まって春市や夏祭りを賑やかに楽しんだ交流の歴史が続いてきたそうです。崇徳上皇行在所(「明りの宮」崇徳天皇社)への信仰が基になって、福江の港と「天皇さん」を結ぶ「勅使道」が通る地域が繋がり、育くまれてきたことが分かります。