まとめ(崇徳上皇讃岐配流地)


以上の検証結果から、次のような歴史が事実に近いと考えられる。

1.「雲井御所」碑が建っている所は、上皇配流当時は干潟地付近と推定され、鎌倉時代中頃までに開発された土地だと見られる。
2.「長命寺」は後の時代に摩尼珠院末寺として実在したが、上皇配流当時ではなく、方四町の規模でもなかった。
3.勅命により「海士庄」に造営された「内裏」は、平山(坂出御供所)浦の「真光寺」敷地内に建てられた。
4.「國府甲知郷鼓岳」(『白峯寺縁起』)とは、当寺は国府と同じ甲知郷で、現白峰宮の崇徳天皇社の場所であり、衛士により長年監視された上皇最後のお住いの場所である。
5.「鼓岡」は上皇ゆかりの地ではあるがお住いの場所ではなく、女房兵衛佐局との繋がりが推測される。
6.上皇暗殺説は事実であり、崩御地の小字名が、国府庁との位置関係とともに京に伝えられたが、その小字の発音は「しで」から「しど」へと変化した


[古書における上皇お住まいの記載](* 筆者解説)

古書名 年代等 お住まいを表す表現
清輔朝臣集 一次資料 内裏   (「造内裏の公事あたりける」)*内裏造営の命令を記した資料であり、仮住いは示さず。「鼓岳」への御遷幸は想定せず。
保元物語 鎌倉時代 一宇の堂 (「高遠ト云者ノ造リタル一宇ノ堂」)             御所   (「国司未御所ヲ被造出サレバ」)
白峯寺縁起 室町時代 庁野大夫高遠が御堂 (「三ヵ年を送り給ふ」)
鼓岳の御堂=国府の御所(「六年を経て崩御ならせ」)
*仮住いの高遠屋敷と朝廷が造営を命じた「内裏」(真光寺屋敷)を合せた期間住まわれたのが「高遠が御堂」。「鼓岳の御堂」はその後の事情により遷された国府と同じ甲知郷内にある幽閉場所(「明の宮」天皇社の地)。

[配流地の変遷]
歴史の事実認定と古書とを合わせ検証し、事実と事実の間の不足するものを補って推論した結果、崇徳上皇配流の経過は次のようになると考えられる。

1.本州から離れた最初の到着地は備前国直島。そこで一行は、風待ち・潮待ちのために数日間滞在した。
2.直島から讃岐の本地内、綾高遠の屋敷に近い松山の津に到着した。
3.急遽の配流のため上皇お住まいはまだ造られていなかったので、当時、林田田令であった綾高遠の屋敷(脚注56)(一宇の堂)に内裏完成までの数か月間住まわれた。
4.国司は、朝廷の指示を伝えた藤原清輔の書簡に従って、海士庄(平山浦:後の御供所)の真光寺敷地内に内裏を新たに建て、上皇と女房がお住まいになった。このときは、遠流であるため御身をそれほど厳しく監視する必要はなかった。また、京で仕えた侍人達も次第にこの地に来て上皇をお護りするようになった。
5.配流から3年が経過する頃、上皇の御身を厳しく監視するよう厳命が発せられ、急ぎ質素な住まい「鼓岳の御堂」を野澤井の奥の山林の中(後の崇徳天皇社の場所)に建て上皇を幽閉し、衛士が交代で監視した。女房は国府庁横の、後に「鼓岡」と呼ばれる小山の屋敷に遷されたが、目代の配慮により交流は許された。この時、配流から3年半ほど経過していた。また、上皇は仏門に帰依し静かなお心で過ごされた(脚注57)。
                
[上皇御遷幸先の各説(筆者分析による)]
  各説における「一宇の堂」(『保元物語』)と「内裏」(『清輔朝臣集』)にあたる場所

(1)高松藩説(江戸期末までの通説)
    (高松入城(1642年)以降) 「一宇の堂」高遠の屋敷(場所不明) ⇒ 「内裏」 八十場天皇社の地
    (雲井御所碑建立以降)「一宇の堂」 高遠の屋敷(雲井御所碑の地) ⇒ 「内裏」 八十場天皇社の地
(2)現在の通説(明治~)  高遠の屋敷 ⇒ 「一宇の堂」 長命寺(雲井御所)
                     ⇒ 「内裏」 鼓岡
(3)本書再検証の結果   「一宇の堂」 林田の高遠の屋敷 
            ⇒ 「内裏」御供所の真光寺屋敷
             ⇒ 事情変更の事態により八十場の天皇社の地へ


崇徳上皇に係る配流地の考察を経てみると、崇徳上皇配流場所探索は、京で書かれた物語古書の「鼓岡」「松山」や『全讃史』等の「長命寺」の文字に頼るのか、地元に積み重ねられた歴史事実、地理状況と古書を互いに検証し合うのかという問題のように思えた。
数百年言い伝わった地元伝承が現在の通説に反映されていない原因は、第一に、真光寺の丸亀移転とその後の支配藩の変遷によって「海士庄」に於ける「内裏」の歴史を高松藩は引き継がなかったこと。第二に、軍記物語に記す最後の配流先「鼓岡」が国府庁横の「鼓岡」を指していたため、本来の幽閉地「鼓岳」との混乱を招いたことであり、その背景には、崩御場所から推測した歴史事実の裏付けのない、「鼓岡」を浸透させた軍記読み物の影響力の強さがあったと考えられる。真光寺は丸亀に移って数百年が経つが、「明の宮」崇徳天皇社は同じ場所で歴史事実を積み重ねていたのに行在所の事実が忘れられつつある。京で作られた物語の中の地名も「白峯」以外は混乱した記載だったことや地元で積み重ねた歴史事実の検証が避けられたことがこうした状況に拍車をかけたと思われる。こうして、歴史事実から導ける理解と、明治・大正期の時代背景の中で生まれた通説が異なるという状況が長年続いてしまったのである。

そして、これらと併せて考えられるのは上皇への敬愛の思いから、例えば、少しでも住む環境の良い所で住まわれたことにしたい思いが、広大な長命寺や僻地ではない国府庁横に住まわれたという転換を後押ししたのかも知れない。一方、暗殺事実は非情で許し難いという思いから暗殺説と「柳田」碑に繋がる暗殺場所が伝えられてきた。

上皇御自身の本当の歴史に「怨霊」や「大魔王」ではなかったのに「恐れる側」や「話を広めたい側」に利用されてきたが、讃岐での本当の足跡に近づくことは上皇への敬愛の思いに沿うことであって、結果として歴史の事実に近づくことになるのではないかと考える。

八百五十年以上も前の出来事に不明な事が多いのは当然だし、明治~大正の時代潮流の激しい時期に軍記物語などから取り入れて作られた通説はその時代が作ったものであるから、明治が始まって150年を過ぎた今ならば、こうした経緯から離れて改めて検証できる時期になっているのではないかと思える。

最後に、この問題を最初に提起した研究先駆者である故三木豊樹氏に敬意を表して終わりにしたい。

(江戸時代の讃岐の藩名のうち、江戸初期の生駒家を「生駒藩」と、後の松平家を「高松藩」と記載した。)                         
以上

          補足説明 について

本サイト中のブログ欄(PCでは画面右、スマートフォンでは最下段の青色表示内)の

 「神仏判然令」と行在所伝説
 崇徳上皇配流地名の不確かさ
 崇徳院御製から解く配流場所
 「鼓岡」配流説の不思議

を補足(追加)説明としました。

以上