崇徳上皇配流地名の不確かさ
讃岐における配流地名が不確かな状況について
保元物語諸本に記された上皇配流先地名を見ていくと、讃岐の配流先についてはその不確かな地理知識や情報に基づいて京で作られていることが分かります。讃岐の地理について不案内なまま伝聞に基づいて書かれた地名が、軍記読み物の流行とともに讃岐に逆輸入され、江戸時代には讃岐で書かれた書物にまで影響を与えました。
現代から見ると三百年前に書かれた江戸時代の「古い」書物であっても上皇配流からは六百年程も経って書かれた讃岐の書物は、保元物語の影響を受けているために地名の信頼性が高いとは言えません。不確かな地名が書かれた保元物語からいくつもの書物が地名を取り入れて書いているからと言っても、それが正しいだろうということにはならないのです。
保元物語に書かれている讃岐の地名には、
ⅰ 動かし難い事実が継続しているため誤ることなく伝えられた地名(荼毘に付され墓所のある「白峯」)、
ⅱ 事実の継続が既に終了していたことから、数十年以上後の京で不確かな伝聞に依ったため地名への信頼性が低かったと言えるもの、
に分けられると考えられます。
また、地名が表す範囲についても、現代では限られた範囲を指す「松山」「国府」について、軍記物語の記載では、綾川左右岸の湾内を囲む山を含めた範囲を「松山」として、また「西行法師・・国府ノ御前ニ参テ」や「国府ニテ御隠アリヌ」「御所ハ痛セ給シカバ国府ニアリケリ」に共通する「国府」は、国府庁やその直近場所に限定されず当時の甲知、松山、山本郷をはじめ阿野郡内という広い概念が反映されていると理解されます。
配流先とされた「志度」「四度郡直島」「直島」については、上皇配流先とは全く関係のない「志度」や実在しない「四度郡」が書かれ」、当時備前国であった「直島」を讃岐国司が勅命に従って受け入れた上皇配流先としているなど、物語が作られたときには既にその配流事実が終わっていたことから不確かな情報に基づいた記述になっている点で共通していることが分かります。そうすると、同様に上皇行在所としている「鼓岡」についても、保元物語が作られたときには既に事実関係は過去のものになっていたという基準から判断すると、不正確で誤ったものである可能性が高いと考えられます。加えて、上皇の幽閉場所に関しては一定の秘密性が課せられていたことが考えられ、それが不正確な記述に繫がった一要素と言えるかも知れません。
こうしたことからも、上皇配流関係地名については、軍記物語等の記載に頼ってしまってはいけないことを示しています。
まとめ(保元物語の讃岐内地名)
保元物語に於ける讃岐内の地名は、「白峯」を除いて、誤っているか包括的な地域名で書かれています。つまり、軍記物語である保元物語にとっては遠国内の地名が事実かどうか検証することは重要ではなく、概ねそのようであれば良かったからそこには不確かな情報が入っているのです。
従って、保元諸本の記載を、これらが広く流布し影響力が大きかったことを以て讃岐の地域名が事実記載だというのは根拠のない解釈であって、これらを転載した後の時代の書物でも根拠が不明確なことを意味しています。このことから考えても、周辺の歴史事実、歴史経緯を踏まえて真偽を検討する必要があることを教えてくれるのです。
保元物語(諸本) 表現 → 正しい地名・地域名
<半井本>
①『直嶋』 → (讃岐国でない)
*勅命を受けた讃岐国司が当時備前国の直島を配流先とするはずがなく数日間汐待ち、風待ちのため留まった直島を配流地と誤っている。(その場所の様子については、後の幽閉後の様子が伝聞されて統合されたものと考えられます)
②『松山』 → (地域包括表現)
*古代に優勢であった「松山」地域の港と、8世紀から12世紀に優勢となった坂出御供所港の間(綾川両岸の坂出湾内)を、当時の都では古代からの経緯により「松山」の津と認識していたと理解できます。
:参考「綾川河口における開発史」(香川県埋蔵文化財センター紀要)
③『国府』 → (地域包括表現)
* 「御所は国府にあり」「国府にてお隠れありぬ」「国府の御前に参って」に共通する『国府』は、讃岐国阿野郡の白峰を含む綾川両岸域から国府庁りの地域までの範囲を示していて、国府庁内又はその隣接場所という限定又は特定された概念では使われていません。
④『白峯』 → 正しい
*陵墓の場所であり、物語成立時にも場所の変更はないので正しく記載されています。
<他の諸本>
⑤『四度郡道場』『四度道場』『志度郡直島』『志度の道場』 → 誤り
*阿野郡内に「しど」地名は存在しないし、香川県東部の志度と崇徳上皇とは全く関係がないことから、志戸・四度などは完全な誤りなのは明白です。上皇暗殺場所と伝わる小字名「死出(しで)」が京に伝わった後「しど」に音変化したと考えられます。
⑥『鼓岡』 → 誤りの可能性
*上皇崩御場所「しで」付近にある地名を行在場所名だと想像して採用したと考えられます。鼓岡説は、保元物語その他に書いてあってもそれを裏付ける歴史事実が見えないのです。
以上から、『白峯』を除いて讃岐内地名が誤りか包括表現である保元物語の制作水準からすると、「鼓岡」だけ歴史事実を反映しているとは考え難く、上皇行在場所を京では正確には伝えていなかったことが分かります。上皇行在所を示すその他の歴史事実や経緯が「鼓岡」には存在していないことからも根拠なく創作された「鼓岡」が保元物語流布の影響を受けて後の讃岐で書かれた書物にまで導入・転用されてしまったのではないでしょうか。