直島配流説について (「讃岐のさと」ではなかった直島)

第九章

京で編集された古書には直島を行在所とするものが多いが、地元の『白峯寺起』の上皇御遷幸の経緯は直島のことに触れていない。そこで、軍記物語には「直島」が書かれ、『白峯寺縁起』に記されていない理由を考察していきたい。

崇徳上皇御霊の京都御遷幸にあたって、直島の三宅家子孫は崇徳院の皇系にあたるとしてその旨を朝廷に申し出たが、朝廷は十分調査したうえでそれを事実とは認めなかった(脚注53)。また、「直島での崇徳院伝承地は、三宅氏が高原氏改易という事態に直面したときに、自己の由緒を主張して大庄屋として認められるために創作されたのではないか(脚注54)」と江戸初期の出来事を指摘する有意な研究がある。

             
備前国直島
『直島町史』には、「1253年の『近衛家所領目録』に、近衛家の備前国荘園に「直嶋」とある」(「近衛家領備前国直嶋」)。つまり、直島は「備前国児島郡に属していたのである」、「古代から中世にかけての直島ははじめ備前国に属していたが中世の室町時代には讃岐国との関りが濃くなってその所属が曖昧になった」、その後戦国時代を経て、1672年に「直島三カ島(直島、男木島、女木島)が幕府の領地になった。」と経緯を記している(脚注55)。近衛家の目録は保元期からは90年ほど後の、ちょうど保元の乱に関する軍記物語が書かれたと思われる時期の前後に当たる。この時期に備前と讃岐の所属変更はないから、近衛家文書のとおり直島は備前国に属していたのである。

つまり、古代から中世の「直島」は讃岐ではなく備前国児島郡に属していたから、直島は藤原清輔の日記に記す「讃岐のさとの海士庄」に行在所を造営せよという命令の対象地には含まれない。ところが『保元物語』(半井本)には、後白河天皇が「讃岐院の讃岐での御所を国司が引き受けて作るように。場所は讃岐国の陸地の中ではなくて直島という所である」と、天皇の言葉として直島が讃岐国にあると思わせるための不自然な説明を付け加えている。すなわち、「讃岐のさとの海士庄に造内裏の公事あたりける」に対して、直島が上皇配流地と誤って京の貴族社会に伝わっていたために、配流地の様子として伝わった讃岐本地の幽閉場所での様子と直島を結び付けたと思わる。このため、その両者の話を繋げるために直島を讃岐であるとして話の整合を図るための創作が行われていたのである。

『保元物語』を制作する立場なら直島の所属を正しく知っていたのではないかと思われるが、それでも直島の様子として話が伝わっていたから整合を図るためには直島を「讃岐」とせざるを得なかったか、或いは、本当に直島が備前国だと知らなかったとするなら、本州から離れて海を渡った土地だから讃岐と理解したかのいずれかになる。しかし、何れだとしても直島は備前国で、朝廷が内裏の造営を命じたのは讃岐であるから、讃岐国司が備前国直島に行在所となる御堂を建てることはあり得ない。また、『白峯寺縁起』に「讃岐國松山津に御下着有」としているのは、配流地讃岐の最初の到着地だからである。
則ち、藤原清輔の日記の内容は事実と理解され、讃岐国司が勅命に反することはしないから上皇の御所が造営されたのは讃岐本地であって、備前国だった直島に行在所となる御所が造られるはずはない。従って『保元物語』諸本や平家異本などの直島行在所説は事実ではなく、直島配流の噂と讃岐に於ける幽閉場所の様子とを繋げたものということになる。江戸初期には上皇配流説を直島支配に利用した動きがあったという研究とも併せて考えると、上皇の直島配流説は事実とは言い難い。事実で構成されていると勘違いしがちな軍記物語には、こうした事実でないことを整合させるための創作が含まれていることがよく分かる例である。「読み物」であるから、他の箇所でも必要があればこうした整合のための創作が行われていると考えられるから、軍記読み物は讃岐における事実を検証する際の出発点にはなり難いのである。

それでは、なぜ直島配流の「誤解」が生まれたのかということになる。それは、配流地ではなくとも本州から讃岐国府方面に渡る航路上の中継地であった直島には、明治改元前の上皇京都御遷幸の儀のときも京からのご一行船は潮待ちのため仮泊していることから、崇徳上皇一行においても同様に直島に停泊、仮泊され、このことが京に伝わると配流地として認識されてしまったのではないかと考えられる。則ち、本州から海を渡った直島に停泊し、数日の間風待ち、潮待ちのために滞在されたことが「上皇が直島に到着され滞在された」と伝わり直島配流説に転換したのではないかと考えられる。こうして、後に配所の様子として伝わった話が直島配流の誤解と結びついた可能性が高い。配流場所に関する詳細な情報は特別な関係者以外には明らかにはされなかった事情が背景にあったと思われる。 

上皇一行は7月23日に都を出発され、山陽沿岸の海道に沿って明石を経て直島、さらに松山の津に至る8月10日まで、片道13日かかっている。また、上皇崩御の時8月26日夜から検視後に柩が出発したとされる9月16日までは21日間である。上皇崩御後の対応が片道約10日になっていることからすると片道が約2~3日ほど短いから、諸条件の違いや崩御の知らせは急ぎであったとしても、この数日の差が上皇御一行の直島滞在を表しているのではないかと推測される。この数日間は上皇が直島に滞在されたと考えられるから、この話が大切に伝承されていたところ、江戸初期に讃岐本地の伝説を取り入れて伝説や史蹟を大々的なものにして数年間住まわれたように主張した動きがあったようである。いずれにしろ、2日前後、苦難の期間を前にした上皇が滞在されたのは事実と考えられるから御霊が祀られるべき場所であるものの、配流の地ではなかったということになろうか。