崇徳「鼓岡」説の誤り  

 このサイトでは、崇徳上皇讃岐配流の際に幽閉場所となったのは保元物語に書かれた「鼓岡」ではなく、上皇崩御直後に二条天皇宣下によって祠が建てられ、後嵯峨天皇が摩尼珠院を別当職とする崇徳天皇社として再建し、現在「白峰宮」と「天皇寺高照院」のある場所こそ上皇幽閉の地である旨を、色々な角度から分析してきました。今回は、誤認だと考える「鼓岡」説の成立とそれが強化されてきた経過を改めて考えます(従来説明の繰返し箇所含む)。

保元物語「鼓岡」の影響

歴史事実とは異なると筆者が考えている「鼓岡」幽閉説には、二つの大きな出来事が関わっていることが原因だと考えています。一つは、軍記読み物である保元物語に「鼓岡」と書かれてしまったことです。保元物語では、京における騒乱については出来事の経過などはかなり正確に書かれているようですが、讃岐配流(特に地名)に関してはこれと同じ評価は当てはまらないと考えています。讃岐の地名については一定の聞き取り取材をしていると思われるものの、包括的な地名、近隣の代表地名、周辺を含めた広い範囲を示す地名などで表されているのです。当時備前国に属していた直島に讃岐国司が御所を作ったとするなどの誤りも見られます。御陵地となった「白峯」以外の地名については、特定場所を示しているとするには大きな疑問が残るのです。現在も残っている地名と同じ記載があるからといっても事実の対象場所が正確に書かれているのではなく、文脈と地勢を照らし合わせると「おそらく○○という場所(地名)」「○○を含めた広い範囲を表す」「近隣の地名を拝借した」等というレベルで書かれていると捉える方が相応しいのです。「鼓岡」については、「国府庁近くに鼓岡という名がある」や「女房兵衛佐局が住んでいたと聞いた鼓岡に上皇も住まわれたのだろう」というのがいい線かも知れません。

高松藩の初代藩主松平頼重公はじめ歴代藩主はそのことを知っていて天皇社に対しては寄進を繰り返していますが「鼓岡」に対する顕彰行為はなく寄進も石碑の建立も行っていません。これは「雲井御所」碑建立の際に、上皇お住まいがあった場所は決して忘れ去られてはいけないという旨の強い思いが碑文に書かれているのと比較すると対照的です。江戸中期の「三代物語」に鼓岡には「今、草庵がある」と記録されていますが、上皇を「鼓岡」で祀っていた記録や証拠はありません。雲井御所の場所に対する思いの強さと「鼓岡」に対する何もない対応の違いになった理由は明らかで、藩主が「鼓岡」に関心を持たなかったのは、上皇お住まいとは関りのない場所だと知っていたからだと考えると整合します。

世間に広く流布した保元物語の「鼓岡」は、地元で書かれた「綾北問尋鈔」等にまで「鼓岡」説が書かれるという影響を与えたほか、その他の書物等にも影響を与えていったと考えられますが、一次資料「清輔朝臣集」や「衛士坊の坂」の存在、また上皇配所は「海づら近き・海洋煙波の眺望・土民の家とてなし」とされており、海岸から遠く国府庁のあった「鼓岡」の地勢とは違っていることからすると、「鼓岡」説の元となった保元物語の「鼓岡」という記述こそ、そもそも正確ではない誤ったものではないかと考えられるのです。
  

明治の神仏判然令(廃仏毀釈)の影響

「鼓岡」説を強化した二つ目の原因は明治維新の神仏判然令(廃仏毀釈)です。
「鼓岡」神社は、明治の神仏判然令を受けて、神仏習合の寺院を否定して神社を崇敬させる明治政府の強い政策を受けて、江戸時代に「草庵」があったと報告されている場所に建立されたものです。この「草庵」がもし上皇お住まいの場所ならば6年近くに亘って苦難の時を過ごされた場所に相応しい儀礼や祈りが行われることが当然だと考えられるのに、「草庵」の場所にはそうした記録がありません。草庵の場所「鼓岡」と上皇配所とは関係がないと考えられるのはこうした事実によるのです。

「鼓岡神社」は、明治政府が政策上の必要から神仏判然令を公布した後、この政令に沿うように神社としての社格(村社)申請が明治10年に行われました。社格を必要とする理由を、この場所は崇徳天皇の御霊を村民が崇拝し続けてきたからとしていますが、そうした実態の記録はないようです。他方、上皇崩御直後の二条天皇による祠建立以降続いてきた崇徳天皇社での慰霊は別当寺摩尼珠院が神仏判然令によって明治初年に廃寺となったため重大な影響を受けました。明治政府の政策の下で廃止された摩尼珠院に代わって上皇慰霊を復活するために何とかしなければいけないと考えて、保元物語の「鼓岡」を使ってそこに「神社」を建立して慰霊の社とすることを解決策として考えたのかも知れません。その後社格を得ましたが、神仏判然令はこれによる社会の動きが極めて極端で全国的にも大きな混乱を生じたため政府は行き過ぎを認めて後にこれを改めています。しかし、地元政治の思惑があったかのも知れませんが、「鼓岡」ではそれまでの動きを元に戻すような説明を今さらできなかったのでしょう、一層「鼓岡」を上皇配所として顕彰する動きを強めていき、「鼓岡」説はさらに広まって現代まで影響を引き継いでいるのが実情です。このような背景・経緯だとすると「鼓岡神社」は上皇慰霊の強い思いを再興しようとして建立されたということになるのでしょう。

さて、明治の同時期に金刀比羅宮(当時、事比羅宮)が白峰御陵の頓証寺殿を「白峯神社」という摂社にして、建物や白峯寺保管の宝物什器等の多くが事刀比羅宮に引き渡されていますが、これらの一連の動きについても神仏判然令を受けて廃寺の危機にあった寺とその遺物を救おうとして当時は行政庁として管轄していた愛媛県が事比羅宮に働きかけたのが始まりではなかったかと筆者は想像しています。ところが「鼓岡」と同様に情勢変化があっても今さら引き下がれない状況だったのではないかと想像しています。「鼓岡」と同様に、最初の働きかけは政治・行政側からだったが、それに協力したものの対外的な面子を保つために多くの努力と費用が必要だったと考えられ、その原因を作ったのは政治(神仏判然令)サイドだったということになるのでしょう。(いずれも状況から見た筆者独自の個人的見解であって、批判意図は全くありません)

また、筆者の知る範囲では「上皇国府庁内行在所説」は最近の説かと思いますが、その背景としては、讃岐国府跡が国の史跡に指定された(2020年)ことと関連した思いがあるのかもしれません。「鼓岡」と同様に保元物語の中で(正確ではないのに)特定場所表現となっている「国府にてお隠れありぬ」「御所は国府に有りけり」に頼ったのではないかと思いますが、この「国府」は国府機能のあった地域、綾川沿い綾北平野の範囲を示していると理解するのが妥当ではないかと考えており、「国府庁内」と特定するのはどうなのでしょうか。

政治的な視点を含む主張はその目的・目標に沿うような説が主張され、他方、歴史研究の立場からすれば分析検証して真実はどうだったのかに対する答えに近づきたいというのが目標だと思うので、両者の間では異なる説を採るようになるのではないかと思います。


これらのことを通した歴史研究に対する教訓は次のようなものでしょうか。
政治は時に、地域振興などの自己目的のために歴史を修正して活用することがあり、歴史事実には対して必ずしも責任を持ちません。
即ち、歴史上の出来事に関して政治的又は自己主張的な意図や目的を持つ「説」には誤りのほかにも自己正当化を目的とした創作・解釈が含まれ易いのです。政治力が使われるケースもあるのでしょう。これらを踏まえると、歴史に関するその「説」の目的や背景を考えながら、多面的視点で歴史を考察することが望まれます(歴史研究には構造構成的視点が必要)。

 

2023年10月11日