「鼓岡」説の経緯と教訓  

 このWebサイトでは、崇徳上皇讃岐配流の際に幽閉場所となったのは保元物語に書かれた「鼓岡」ではなく、上皇崩御直後に二条天皇宣下によって祠が建てられ、後嵯峨天皇が摩尼珠院を別当職とする崇徳天皇社として再建し、現在「白峰宮」と「天皇寺高照院」のある場所だと、色々な角度から分析して、何度も何度も繰り返して掲載しています。
今回は、誤認だと考える「鼓岡」説に影響を与えた経過に触れながら歴史研究の留意点が何なのかを考えてみます。

保元物語「鼓岡」の影響

保元物語では、京における騒乱については出来事の経過などがかなり正確に書かれているようですが、讃岐配流(特に地名)に関してはこれと同じ評価は当てはまらないと考えています。讃岐の地名については一定の聞き取りをしていると思われるものの、地名が包括的だったり近隣の代表地名であったり、周辺を含めた広い範囲を示す地名など、「白峯」以外の地名については正確に場所を捉えているか疑問が残る状況です。当時備前国に属していた直島に讃岐国司が御所を作ったとするなどの明らかな誤りも見過ごしています。
また、初代藩主松平頼重公はじめ歴代藩主は上皇最後の配流地がどこなのかを知っていて天皇社に対しては寄進を繰り返していた歴史や、「雲井御所」碑建立の際に、上皇お住まいがあった場所は決して忘れ去られてはいけないという旨の強い思いが碑文に書かれていることと鼓岡説との関係を見落としていることについても、軍記物語(保元金刀比羅本や平家物語異本)に対する絶対的肯定感が背景にあったのでしょう。

明治の神仏判然令(廃仏毀釈)の影響

「鼓岡」説を強化した二つ目の原因は明治維新の神仏判然令(廃仏毀釈)です。
鼓岡神社は、明治の神仏判然令を受けて、神仏習合の寺院を否定して神社を崇敬させる明治政府の強い政策を受けて、江戸時代に「草庵」があったと報告されている場所に建立されたのですが、草庵の場所「鼓岡」には上皇お住いの場所に相応しい儀礼の記録がありません。鼓岡神社は、明治政府が政策上の必要から神仏判然令を公布した後、この政令に沿うように神社としての社格(村社)申請が明治10年に行われました。社格を必要とする理由を、「この場所は崇徳天皇の御霊を村民が崇拝し続けてきた」からとしていますが、そうした実態はなかったようです。
他方、上皇崩御直後の二条天皇による祠建立以降続いてきた崇徳天皇社での慰霊は別当寺摩尼珠院が神仏判然令によって明治初年に廃寺となったため重大な影響を受けました。その後、神仏判然令はこれによる社会の動きが極めて極端で全国的にも大きな混乱を生じたため政府は行き過ぎを認めて後にこれを改めています。しかし、「鼓岡」を上皇配所として顕彰する動きは一層強くなり、鼓岡説をさらに広めたため現代まで影響を引き継いでいるのが実情です。

歴史研究の教訓

歴史の解釈等が政治的な影響を受けると、その目的や目標に沿うように解釈が修正されることがありますが、他方、歴史研究の立場からすれば分析や検証を通して真実はどうだったのだろうかという答えに近づきたいというのが目標だと思うので、両者の間では異なる説を採るようになるのだと思います。
自己目的のための歴史修正は歴史事実に対して必ずしも責任を持たないケースが出てくるのです。
従って、歴史の事実解明は、歴史に関する「説」の目的、動機や背景を考えながら多面的視点で歴史を考察することが望まれると思います。(歴史研究に構造構成的視点を導入)。

*追加
サイト内ブログ「検証(鼓岡 ・ 崇徳天皇社)」も併せてお読み頂ければ幸いです。

 

2023年10月11日