崇徳院配流と慰霊の地・坂出

讃岐における上皇「慰霊」と「怨霊」の混在
配流地における上皇の本当の御様子を伝えるものは極端に少なく、そのため、讃岐の人達は上皇の御苦難を想い、盛んに上皇慰霊を行っています。一方で、保元物語や雨月物語など讃岐においても広く流布した読み物には強い影響力があったため、江戸時代に讃岐で作られた「綾北問尋鈔」などもその影響を受けていることが分かります。

崇徳上皇が過ごされた配流地讃岐の綾北地区(綾川下流域の坂出市を中心とする地域)では崇徳上皇への「慰霊」が行われてきました。同時に雨月物語などにも影響されて、配流地であった綾北地区においても「怨霊」の考え方が入り込んできたようです。それは、現在の坂出市を中心とする地域に「慰霊」の伝承や遺跡が残る一方で「怨霊」が彷徨っているという人が今もいることに表れています。「慰霊」の話には創作されたものが含まれていることも少なくないようですが、何かしらの創作が含まれていること自体はいけないことではありません。それだけ強い思いの「慰霊」の歴史を示していると受け止められるからです。これは歴史事実がどうであったかという視点とは別の受け止め方があることになります。
そこで先ず、讃岐綾北地区で行われた上皇慰霊の事例から、創作が含まれているらしい話や遺跡を数例取り上げてみたいと思います。


慰霊のためと思われる伝承・遺跡など

① 各地への行幸伝承(金毘羅大権現、石手寺、志度寺)
明治初期の「神仏判然令」「上地令」などの影響で白峯寺と白峯寺が護持していた頓証寺も次第に衰退する中で、金刀比羅宮は明治11年に頓証寺殿を「白峯神社」として摂社にしています。金刀比羅宮(当時、事比羅宮)の説明では、崇徳天皇は崩御1年前に参籠され付近の「御所之尾」という場所を行宮にされ、また崩御翌年には相殿に崇徳天皇の神霊を奉斎したとしています。このような関係があったとする主張のもと、同年、建物や白峯寺保管の宝物什器等の多くが金刀比羅宮に引き渡されました。
(以下、慰霊の話とは若干趣きが異なりますが話を続けます)

直後に起こった頓証寺復旧運動などを経て、明治31年に香川県知事から宝物什器等を白峯寺に引き渡すべく訓令が出されましたが返還されたのは一部でした。同年、頓証寺は復興しましたが、金刀比羅宮は、所有する「白峯神社」は本宮境内に移転したとして白峯神社の宝物を、一部を除きそのまま金刀比羅宮に残しました。

しかし、頓証寺の宝物什器等は御陵の場所にある白峯寺が保管してきたものであり、上皇に関わる宝物什器等はそこで保管すべき歴史と由緒があると思います。そもそも、金刀比羅宮が上皇と関りがあったという参籠や奉斎の話は、明治の廃仏毀釈によって白峯寺が困窮し住職が環俗したことで寺や宝物の管理が困難になったために、廃仏毀釈の対象であった寺(白峯寺、頓証寺)から神社(金刀比羅宮)に宝物類を移すために行政庁からの要請もあって創作された可能性があるのではないかと思います。
はじめは上皇御遺物を守ろうとする考えがあったのかもしれませんが、そもそも、上皇の参籠が行われたとする崩御1年前には幽閉され衛士に厳しく監視されており金刀比羅宮に行けるような状況ではなく、そうした実体はなかったと考えられます。

明治初期の、「寺」を否定し「神社」を正当化した極端な見解は歴史解釈にも影響を与えましたが仏教排除に向かった神仏判然令等はその後改められたので、御陵・御仏殿の場所から離れた場所で白峯の宝物類を管理する必然性はなく、頓証寺復興の時点で全て返還することが双方にとって相応しかったと思います。

伊予の石手寺に行幸されたという伝承は、江戸時代に庶民の間で流行した四国遍路を始めた衛門三郎と関わる石手寺と結びつけた可能性が考えられます。遍路参りをした庶民が保元物語や雨月物語を通して知った上皇を偲ぶ思いを繋いだことから、行幸説が広まったのではないかと思います。上皇行幸が事実であるなら罪人とされ幽閉された上皇が遠方に行かれたことになり、それに必要な警備体制や往復期間を考えると、この話は現実的ではなく、この寺にも行幸の記録がないことから創作されたものと考えています。

讃岐の名刹志度寺に行幸されたという説に関しては、保元物語金刀本に「四度道場辺鼓岡」、鎌倉本に「志度の道場」など、「しど」と書かれているために「志度寺」に行幸されたという説が創作されたのではないでしょうか。保元物語諸本の「しど」は「道場」、すなわち上皇がひたすら仏教に帰依され過ごされたことをもって修行の場所「道場」として表したもので、その場所(「しど」)は上皇が亡くなられた(暗殺された)地名「しで」から誤って転じたものと思います。「志度寺」は古くからの名刹であって上皇が訪れたのが事実であるなら必ず記録されると考えられる名刹に記録がないのですから、この話には根拠や推測される状況は何もありません。

上皇配流期間のうち最期の5年余は幽閉されていたと考えられており、配流直後には監視が緩やかな時期もあったようですがその期間であっても遠方に行幸するほどの自由まではなかったのではないでしょうか。朝廷側から見て再び「反乱」が起きないよう遠隔地に遠ざけられたのですから、「反乱」を画策する可能性のある集団や人物と接触しないように監視することが本旨かと思われるので、「遠出」にはこうした隙を与える可能性があるとして許されることは難しいように思えます。
従って、こうした「遠出」の話は、(事比羅宮の話を除いて)お遍路の流行の中から生まれたと考えられ、苦難の上皇への慰霊の思いが背景になっていると思います。

② 上皇「国府庁内行在所」説 
上皇が讃岐配流数年後から厳しく幽閉されていたことについては一般的に理解されていますが、保元物語の「御所は国府に有りけり」「国府にてお隠れありぬ」の記述を根拠にしているのではないかと思われる上皇御所が国府庁の敷地内にあったという説があるようです。論拠の詳細は承知していませんが、おそらく保元物語中の一部の文字に拘泥する解釈から生じたのではないかと思います。保元物語の他の讃岐地名から考えれば地名表記には厳格に定義されるほどの正確性がないことが分かりますが、保元物語の讃岐地名のあやふやさからすると、「国府」という記載だけで場所を厳格に国府庁内だとする定義は難しく、国府庁内で住まわれた又は幽閉されていたことはなかったと考えられます。
しかしながら、この国府庁内行在所説についても、そうした思考に至る背景には上皇の御苦難を少しでも割り引けるように生活環境を良い方に考えたいという慰霊の気持ちが内在していると考えられます。

③ 方四町(約450m四方)にも及ぶ「巨刹・長命寺」
坂出市林田地区は、江戸時代初期に生駒氏が藩主となって以降開発が進み農地が広がっていきますが、鎌倉時代においては遠浅の海のうち「潮入荒野」と呼ばれた潮が満ちると海面になり引き潮では砂地となる干潟や堆砂地の開発が行われ、新しく開かれた耕地が京都の八坂神社に寄付された記録(「祇園社記」)が残されています。このように砂地・干潟地・遠浅の海ですから、そこに跨る450m四方にも及ぶ大寺院があったというのは創作と思われます。内陸部の別の位置(「長命寺新開」)に規模の小さい「長命寺」が存在した可能性がありますから、そのことを利用して「方四町」として創作されたように思います。地形の他にも、大寺院の礎石の痕跡・建立や庇護の記録などがないことからも大寺院が存在したというのは無理なようです。
「巨刹・長命寺」の話も、上皇がここでゆるやかに過ごされた時期があったことを願う慰霊の気持ちを抜きにしては語れないでしょう。 


「上皇がよく訪れた池」という「御遊所池」碑 の場所
そこは、平安時代当時は海中だったのではないでしょうか。
坂出市にある「崇徳院御遊所池」碑(1834年建立)の案内板(平成25年坂出市教育委員会)には、「ここにある池にも上皇が度々訪れたという言い伝えが」あると記されています。しかし、この場所は古地名「宝永元申新興」はじめ江戸時代に開発された地名に囲まれており、「林田町北部は17世紀後半以降に田畑として開発されたが、それ以前は現在の海岸線より1~1.5キロメートル南方まで干潟が広がっていた。奈良・平安時代と江戸時代では500~900年の隔たりがあるので、国府が置かれた古代では干潟はもう少し内陸まで入り込んでいたと推定される」(讃岐国府跡探索事業調査報告書平成23・24年版26ページ):香川県埋蔵文化財センター)とされています。つまり、「崇徳院御遊所池」碑のある場所は平安時代の干潟の範囲よりも北側の海中だったと考えられます。従って、そこの池を見に来るという状況にはなかったと考えられます。
想像するに、石碑が建立された江戸末期時点における埋め立て地の様子を上皇配流時代の景色として当てはめて、江戸時代に陸上にあったその池を上皇がご覧になられたという話にしたのではないでしょうか。

讃岐で苦難の時間を過ごされた上皇への強い慰霊の気持ちから、上皇が少しでも心安らかに過ごされた時間と場所があったことにしたい、その場所を顕彰したいという思いが表れていると推察されます。「御遊所池」の位置の真実性よりもそうした思いを記した石碑があることに意味があって、配流地における慰霊の思いが汲み取れる石碑だと受け止められます。遺跡等の場所の選定については、違っているようだと思われるものは他にもありそうです。

これまでに掲げたのは創作や誤解の可能性が考えられる話の一部ですが、こうした話が多いのは、それだけ上皇の実際の生活に関する正確な情報が極端に少ないからでしょう。このことは「幽閉されていた」ことを裏付けることかも知れません。
そして、仮に創作と思われるものであったとしても、話の真偽の程度が重要なのではなくて、現在の坂出市を中心とする地域の人達が上皇の御苦難に対して長い年月に亘って強い慰霊の気持ちで過ごしてきた証しであることを忘れてはいけないと思います。何代にもわたってこの地域の人達が繋げてきたこの証しは誇るべきことです。坂出市には上皇を尊敬し、畏敬し、慰霊しつづけてきた歴史があることを忘れてはいけないと思います。
そして、この地域は「怨霊」の話とは関りがないのですから「崇徳上皇慰霊の地坂出」として、今後も慰霊行事を続けていくことが、坂出で苦難の人生を過ごされた上皇を偲ぶことかと感じます。苦難があっても生きる、そのことを教えて頂いているのではないでしょうか。

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歴史事実に関すること

1.藤原清輔日記「讃岐のさとの海士庄に 造内裏の公事あたりける」は、上皇配流の直前に書かれたもので、清輔の地位や上皇との間柄からしても信ぴょう性が極めて高く、その書かれた内容は事実であり、その内容に沿うように諸般の行動が行われたと考えられること。
2.「殯」の最中に「毎夜、神光が立った」
野澤井(泉)に上皇御柩を置いた殯の間、「今の崇徳天皇社(白峰宮)の場所に「神光」が毎夜立った」というのは、実際には建物の前で焚かれた篝火・灯明のことだと思われ、上皇行在所がそこにあったことを伝えています。伝説としてお住いだった場所で魂の光が灯ったと伝えたのです。その場所には崩御された年に二条上天皇宣下により一宇が創起され、後に後嵯峨天皇により崇徳天皇社として再建されたという事実が存在しています。
3.神人(侍人)
上皇讃岐配流の折り、京で仕えていた貴族らが上皇を慕って「讃岐のさとの海士庄」に来て可能な範囲のお世話をしていたと伝わっています。この人たちは「神人」又は「侍人」と呼ばれ、現在に至るまで上皇を祀る白峰宮例大祭の神輿を担ぐのはこの「神人」の子孫の皆さんにのみ許されたことであり、こうした事実は子孫の皆さんに受け継がれています。
4.「衛士坊の坂」本編第五章第2節参照
天皇寺の東側土塀に沿う坂道は古来より「衛士坊の坂」又は「衛士坊坂」と呼ばれています。地元(八十場)には、上皇は崇徳天皇社となった場所のいずれかに住まわれ(幽閉され)、摩尼珠院(現天皇寺)の処に監視役である衛士の詰所があったと伝わっています。
5.「幽閉場所」
明治以降の通説の立場は、保元物語に書かれた「鼓岡」の行在所説を無条件に受け入れている一方で、同じ物語に書いてある幽閉場所の様子については関心を向けていません。例えば、上皇幽閉の場所には人家や田畑もないと書かれているけれども「鼓岡」は国府の中心地ですからその周辺は府庁の役人や近隣住民等で賑わっていたと思われる場所なので、同じ物語の中で話が両立していないのです。
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このようなことも踏まえると「事実」・「事実と思われること」と「慰霊」のための話を整理できるでしょう。これにより、讃岐の人が行ってきた「慰霊」の理解を深めることが出来るのではないかと思います。

さて、仏教に帰依した上皇がなぜ讃岐で「怨霊」にされなければいけないのでしょうか。「御成仏」は宗教上の判断に従うものと考えていますが、「成仏できずに怨霊として彷徨っている」などと言う意見は如何なものでしょうか。保元物語に記す、五部大乗経の件で「日本国の大魔王と成らむ」などというのは読み物への興味を引き付けるために作り上げた話というのは皆わかっているはずなのに
綾北地域において上皇慰霊の多くの伝説・伝承や関連遺跡を生むことになった背景には、上皇の生活の様子がほとんど記録されていない中で上皇の数多くの御苦難を推し量ろうとしたからでしょう。つまり、厳しく幽閉されていたと理解されているからこそ、京から来られた崇徳上皇に対する尊敬や讃岐で御苦難を経験されたことへの畏敬の念があると思います。讃岐の人はこの慰霊の思いをもって上皇のご様子に心を砕いてきたのです。

 ところが、広く流布した保元物語や雨月物語の影響を讃岐人も受けており、「怨霊」ということばが頭から離れないような様子も一部に見られます。「怨霊」は京において上皇を窮地に追いやった側からの、しかも上皇が崩御されてから十数年経ってからそういう話が始まったのですから、上皇が讃岐で御存命の間に「怨霊」などはなくて、深い悲しみや京を懐かしむ気持ちを持ちつつ仏教に帰依されていたのです。

つまり、讃岐と「怨霊」とは関係がないのですから、「上皇は大変なご苦労をされてお気の毒だった」と言いつつ「上皇の魂が怨霊になって成仏できないままでいる」とも言うなど、時に「慰霊」時に「怨霊」の立場になるのはとても残念なことだと感じます。

配流地讃岐における「慰霊」と「怨霊」の混乱を整理すると、
「崇徳上皇配流と慰霊の地・坂出となります。

追加
サイト内ブログ「京では怨霊、讃岐では慰霊」をお読み頂ければ幸いです。

2023年03月11日