「雲井御所」と「長命寺」 (通説の場所は干潟)
第三章
第1節 「一宇の堂」の場所
「雲井御所」碑は、高松藩による上皇行在所探索の結果、1835年に建立されている。1808年刊行の『山陵志』(脚注14)によって陵墓への関心が全国的に高まり、その思想と運動が「雲井御所」碑建立や1862年から始まった天皇御陵を修築し未確定の天皇御陵の探索が行われる時代(「文久の修陵」)へと続いていった。
高松藩は初代から尊皇精神が篤く、『保元物語』などに記す上皇お住まい「松山の一宇の堂」を崇敬するために、不明になっていたその場所を探し出す事業に乗り出した。「松山」郷内にはその候補地が見つからなかったが、7年前に制作された『全讃史』(脚注15)に記されている方四町(一辺450m四方)もの「巨刹・長命寺」に相当する場所を参考にして、綾高遠の屋敷「雲井御所」の跡地だとして碑を建立したようである。この石碑には上皇行在地を崇敬しなければならないという強い思いが刻まれている。
しかしながら、その場所は第二章第2節で検証したように上皇配流当時は、砂地から干潟地に当たる場所と考えられ、鎌倉時代の新田開発によって耕作地になったと推定されるから、「内裏」が完成するまでの仮住い「一宇の堂」は内陸側の別場所にあったのではないかと考えられる。
第2節 「長命寺」の位置
『全讃史』には、「父老が言うには林田村に長命寺があった。昔は巨刹で、崇徳院が遷られたときに御所として在庁野太夫の屋敷に六年過ごされたというのは実は長命寺である」と記している。また、『綾北問尋鈔』(脚注16)には、「在庁野太夫高遠請取奉りて、凡家の塵埃を憚り、先此寺の堂に移し奉る。三年を送らせ玉ふ。」「武芸を好ませ玉ひ、近郷の武士を集め、射芸を叡遊有り」とある。『綾北問尋鈔』では長命寺で3年、鼓カ岡で「六年住せ玉ひし」としているが、これと制作年の近い『三代物語』には「林田の御所(高任の堂)に・・六年」とあり、後に書かれた『全讃史』では長命寺に6年となっている。
このように、同時代の讃岐で作られた書物でも行在所や年数が相違している。これらは何れも地元に足を運んで聞き込んだとされている書物だが、現代から見るとどれも古い書物ではあるとは言え、上皇配流からは600年後の頃のことでもあり上皇行在所に関して明確ではなく混乱している。
上皇の讃岐配流期間は足掛け9年で『白峯寺縁起』には最初は「高遠が御堂に・・三ヵ年」とあるので、この後に遷られた行在所では6年というのが最も信頼できるのではないかと考えられる。
高松藩は「一宇の堂」は綾高遠の屋敷のことだと考えて石碑を建てたが、『綾北問尋鈔』や『全讃史』ではこれを長命寺としたうえで配流の際に朝廷が造営を命じた「讃岐のさとの海士庄」の内裏は(高松藩が顕彰していない)「鼓岡」にあったと考えており、明治以降に作られた「通説」はこれに沿っている。
また、「長命寺は、のちの天正年間の長宗我部の兵火に罹り焼失し、また寛永年間(1624~1644)の洪水で綾家と長命寺との間を綾川が流れて、今は全く当時の面影をしのぶことができない」(昭和38年坂出市広報掲載:伊藤峰雲氏、(三木豊樹氏前掲書44pより)、西暦付記は筆者)と説明しているものがある。『府中村史』では、万治年間(1658~1661)の洪水としているが、どちらにしろ「方四町」もの巨刹が400年以上も存在したことになる話には根拠や証拠は何もない。
一方、三木豊樹氏によれば、「長命寺は摩尼珠院の末寺として江戸初期に開基された。本寺の摩尼珠院すら、上皇の死後数十年後に開基された。」のだから、後嵯峨天皇による崇徳天皇社の再建(1244年)よりも「八十六年前に林田に長命寺が建っていたと云う事は、合理性を欠く」(脚注17)と反論している。なお、同氏は長命寺の開基時期を江戸時代初期としているが、“摩尼珠院建立以降”とするのが間違いないないと考えられるところ、いずれにしても摩尼珠院よりも巨大な方四町もの寺に関して何らの経済的、政治的援助等の関連記録のないこれほどの巨刹というのは考えられない(脚注18) という氏の見解は極めて納得性が高く、本書はこの説に沿っている。
福家惣衛氏は「長命寺跡から出土する瓦を見ると、平安時代式と見ゆるものがでるので」(脚注19)として上皇が長命寺に入られたことを肯定している。現在の綾川左(西)岸にある小字「長命寺新開」からわずかに北西辺りかと思われるその場所は推定海岸線より陸地側に入ってはいるが、大寺院にしては礎石の発見もない。瓦は同時代以降の上流から流された氾濫原近くの小規模な寺か、権力者屋敷の古瓦の可能性も残り、瓦の詳細な鑑定が示されていないなど、これをもって上皇配流時代の「巨刹長命寺」裏付けることなど考えられない。
そのうえ、『全讃史』等では1578年からの長宗我部侵攻の際に兵火で焼かれた後、上皇が歌を書いた柱が1本だけ風雨に晒されたまま立ち、そのまま80年以上残って江戸時代万治年間頃の洪水で流されとしているが、仮に1156年の干潟地に長命寺が建っていたとしても400年後に兵火を受けるまで存在する方四町の有力大寺院があった根拠はないし、炭化した柱が野ざらしで80年以上残るとは思えない。
「雲井御所」案内標識
「雲井御所」付近の土地利用
『全讃史』(1828年)自体は丹念な地元調査に基づく資料であるが、長命寺の項に関しては根拠のない伝聞形式になっており、『綾北問尋鈔』(1755年)を参考にしたものと見える。そして、『全讃史』作成の7年後に「雲井御所」碑がこの場所に建立されたことを考えると、高松藩が最終的にここを上皇お住まいの場所だとしたのは全讃史の記述に頼った可能性が高い。しかしながら、下図のように当時の推定海岸線と「雲井御所」碑の位置関係や、『全讃史』の伝聞形式の記述から考えると「雲井御所」の場所選定の根拠とするには不十分ではなかったかと思われ、確認できる拠り所はなかった状況での碑建立だったのだろうと考えられる。
「巨刹・長命寺」の存在場所について、寺の流失に関わったとする洪水前と洪水後の河道が判明しないので、現本川を洪水後の河道だと仮定して考察する。先ず、当時、綾高遠の屋敷に近接する(脚注20)長命寺の建物があったとして、江戸時代の万治年間の洪水で流されたとする説に合致するよう、現本川河道上に長命寺の位置を想定すると「雲井御所」碑の場所は、海岸線付近の干潟地と推定されるから、方四町の「巨刹・長命寺」も海や干潟地、砂地を含むことになり、この場所での存立は難しい。
(図3)は、綾高遠の屋敷とは別の長命寺(「雲井御所」)に、上皇が遷られたとする説(『綾北問尋鈔』)により描画したものである。また、『全讃史』の綾高遠の屋敷というのは長命寺のことだという考えに場合でも、高遠屋敷と長命寺はそれぞれ存在したとするなら位置関係は変わらないと考えてよい。なお、高松藩建立の「雲井御所」碑文には長命寺に関する記載はなく、上皇は高遠屋敷に住まわれてその柱に歌を書かれたので「雲井御所」と呼ばれたと記している。
次に、綾川右(東)岸について「綾川流域が何時か洪水等の為浸って、今では雲井御所碑が東岸に、長命寺跡は西岸に分かれているが・・(略)・・現在の川筋よりも東方に流れていた形跡がありと窺われ且つ此の辺に「古川」「中川」「川原」などの字地名があるので昔の地形を想像し得る」(脚注21) とする見解があるので、洪水前の本川が右岸にあって、現本川の河道へと変更された洪水によって長命寺が流失した可能性について分析する。
それぞれの想定旧河道と今の本川が繋がる流路に対して、それぞれの旧河道を避けるように長命寺の位置を仮定した。その結果、
①(赤)が旧河道である時の方四町の施設が取れる範囲は①(黒)となり、②(赤)の旧河道の河口部に掛からないように方四町の大きさを取ると、②(黒)の位置になる。
①のケースでは推定海岸線を半分程度越え、②ケースでは方四町の全範囲が推定海岸線を越えるため、何れの位置にも方四町の長命寺は成り立たない。①の旧河道は、平安期までの河道が新田開発後も延長された可能性も残るものの、新田開発後に形成されたと考えられる。②の旧河道は全て新田開発域にあるから鎌倉時代以降に形成された河道跡と考えられ上皇配流当時のものではない。
次に、綾川左岸の一部が綾川を越えて林田町の地になっていることから、林田町境が長命寺流失に関係のあった旧河道跡を表していると仮定して、方四町長命寺の存在可能性について検証する。
上皇配流時期に現在の左(西)岸に残る林田町の古地名境界の西側に綾川の河道があったとすると、その境界から東側は現河道幅を含めて林田郷に属する平地になる。
『綾北問尋鈔』では小字「長命寺新開」の辺りの小字「二天新開」「馬場」を長命寺の境内だとして、その場所で上皇が「武芸を好ませ玉ひ、近郷の武士を集め、射芸を叡遊有り」としているが、小字「長命寺新開」を含めて方四町の広さを想定すると林田古地名線西側に沿うと想定した旧河道と重なるほか、南側からこの方四町の範囲を迂回して北の河道に繋がる旧河道跡は見られない。このことから、ここに方四町の大きさを配置することはできないから、「巨刹・長命寺」が存在するのは難しいと見られる。
小字「長命寺新開」位置:(青囲み中の文字下の黄色部分) 出典 香川県埋蔵文化財センター「讃岐国府探索事業調査報告書平成23・24年度」9~10p「図4林田町の古地名」の一部、「長命寺新開」に青囲みを付けて改変
しかしながら、小字「長命寺新開」はその南北に別の複数の小字「新開」の中に存在している(脚注22)ことから「長命寺新開」の位置は長命寺があった場所を特定して示していると想定できるとともに、「長命寺新開」の広さに加えて東側の現河道の幅を含めた広さの規模の長命寺が建立されていたとすることは可能であり、洪水前の河道で分断されない林田郷内に長命寺が成立し得ることになる。ただし、それは上皇配流当時ではなく長命寺開基以降の話である。
これらの検証結果からすると、方四町の「巨刹・長命寺」が今の綾川本川上にかけて存在していたとする説は地理上の分析とは整合しないものの、『綾北問尋鈔』、『全讃史』のモデルになった可能性がある長命寺は通常規模の寺で、現在の小字「長命寺新開」とその東の現在の本川になった地を合せた場所だったと想定するなら存在可能である。この想定に依れば、林田の境界の西を流れていた河道から現本川への河道変更によって長命寺が存在を失ったということになる。
以上から、小字「長命寺新開」は摩尼珠院開基(1244年)以降に開かれた、方四町よりも小さな長命寺の存在を示したものと考えることができる。また、現本川西側の林田町境が推定海岸線以北に延びているのは、新田開発後も延長された旧本川に沿って境界設定が行われ、その後、江戸時代に長命寺を流失させた河道変更が起こったが以前の境界が引き継がれたと説明することができる。そして、その時以降の数次の洪水によって、現在の本川や右(東)岸側の河道跡になったと考えられる。
綾高遠の住居地
次に綾高遠の役職を考慮して上皇仮住いの場所とされる高遠屋敷の場所を推測してみる。綾高遠(高任、高香)の役職は、『保元物語』には「在廳散位」、『白峯寺縁起』には「在廳野大夫」、『翁嫗夜話』には「林田田令」「林田郷廳大夫」、「雲井御所」碑文には「其郷酋長」とあり、いずれにしろ林田郷を管轄する責任者の職務に就いていたと考えられる。従って、高遠の職務上、上皇が松山の津に到着された後に仮住いされた高遠屋敷は林田郷内にあったと考えられる。
古書には、「松山の一宇の堂」として「高遠が御堂」、「雲井御所」、「長命寺」と表れているが、最初のお住まい「一宇の堂」が「雲井御所」碑付近の土地でないことは本章により推定された。従って、『保元物語』等の「高遠が一宇の堂」は、「松山の津」から見渡せる湾内の綾川両岸のうちの林田郷内であり、かつ、「雲井御所」碑の場所よりも内陸側にあったと考えられる。
なお、『全讃史』の「高屋城」の項には、「高屋の雄山の下に在る高屋城に綾高遠(原本では「高任」)が居た」としているが、高屋は松山郷に属することから、南北朝期と思われる築城を高遠の時代に当てはめた記載でないかと考えられる。ところが、「林田の御所」の項では「新院左遷の時、先ず林田の在庁高任が家へ御入在りて」と高遠の屋敷を林田としている。また、他にも長命寺に6年住まわれたという説明や、上皇の歌が柱に残っていることが高遠屋敷にも長命寺の項にも書かれているなど地元で聞いたそれぞれの謂れを尊重して、整合を図らずにそのまま記していることが分かる。
高松藩は「雲井ノ御所ノ碑」建立のための「一宇の堂」の場所探索にあたって、7年前に『全讃史』が「長命寺」があったとした場所を参考にしたと見られる。ところが碑文では「長命寺」には一切触れずに高遠屋敷の場所として顕彰しており、このことは上皇配流当時に長命寺は存在していなかったと認識していたことを示していると考えられる。
上皇が住まわれたのは高遠の屋敷であって、そこが『白峯寺縁起』に「高遠が御堂」で「三年を送り給ふ」た場所だという見解を持っていたことが碑文から導かれる。つまり、『綾北問尋鈔』や『全讃史』が書く、長命寺が上皇配流当時に存在し上皇が住まわれた方四町の巨刹というのは江戸時代末までの公式見解や通説ではなく讃岐で作られた希望的「私説」であることを示している。
そして、碑の場所に確かな裏付けはなかったけれども最終的には『全讃史』が示した場所を尊重せざるを得なかった事情(藩主の厳命に関わらず場所がわからないのでは済まない中で、『全讃史』の内容を受け入れるべき作者と藩との関係性(脚注23))があったのではないかと推測される。
こうしたことからすると、雲井御所碑の場所はそこが行在所であったという根拠・証拠が探せなかったために、「ここにしよう」という選定結果だったのではないだろうか。