上皇暗殺説を検証する (暗殺説と崩御地名の分析)

第六章

第1節 暗殺説の検証

通説では、上皇崩御後、朝廷側の検視を受けるため御遺体を八十場の泉に約20日間にわたって浸したとしている。上皇の死因は軍記物語にも『白峯寺縁起』にも記されていないが、地元には暗殺説が根強く残っている。そこで、暗殺に関する言い伝えと、それを示す直接的、間接的証拠を検証する。
先ず、上皇暗殺説について地元に残る口伝の一説では、上皇は国府における「鼓の宴」に招かれ八十場の幽閉場所から向かった。その夜の帰り、暗殺者に刀で切られたというものである。暗殺の経緯は江戸中期の讃岐で制作された『三代物語』(脚注32)(『翁嫗夜話』『讃州府志』の原本とされる)が説明している。(下記は『讃州府志全 』(脚注33)(梶原竹軒増補:大正4年版)より引用。)

『讃州府志』 御崩御   院ノ御崩御ニ付テハ記スダニモ恐レ多キ事ドモナルガ、本書原本ノ記スル所二依バ長寛二年八月二十六日二條帝陰ニ讃ノ士人三木近安(保)ナル者ニ命シ戕(しょう)セシム 時ニ近安驄馬(そうば=青馬)ニ乗リ紫手綱ヲ取テ鼓ヲ襲フ 院知リ玉ヒ急ニ之ヲ避ケ路ノ傍ノ大柳樹ノ穴ニ匿レ玉フ 近安之ヲ探シ索メ執テ之ヲ害シ奉リ遂ニ崩ス 御年四十六 是ニ因テ三木姓ノ者、驄馬紫衣ノ者、白峯ヘ上ルヲ得スト云フ


そして、この暗殺説から繋がる伝説として、御遺体を白峰に運ぶ途中、高屋町阿気において雷雨激しいため柩を置き休憩したところ、柩から血が滴り、恐れおののいたとされ、柩を乗せたとする石が伝わっている。単に、暗殺説があるということだけではなく、別の場所にもそれを裏付ける伝説とそれに関わる証左とされるものがある。

この伝説の現実的分析をすると、暗殺による大量の出血が衣服に染まった状況で、柩(当時は座位で棺に入れる丸い形の木製棺)に納められたと考えられる。その柩に、豪雨があり上部の隙間から入った雨水が内部で高圧となり柩板の隙間から又は蓋から溢れて、雨水に混ざった血が滴ったという状況が推測される。従って、「驚くべき状況」の前に雷雨があったというのは証拠説明力を有している。当時すでに怨霊思想は世の中に認知されていたから、柩を運んだ兵士にとっては、腰を抜かす以上の驚きと恐れを感じたことが想像できる。
また、暗殺後に上皇御遺体を八十場の泉に浸した説からは、この泉に20日間浸された後に柩の中で衣類等に着いた大量の血液が雨水に溶けて柩から溢れたか、若しくは泉の水がかけられた柩の中で血液と水が混ざっていたところに雨水が流入して溢れたと考えられる。この伝説は崩御21日後の9月16日「血の宮」高家神社辺りの出来事と伝えられている。衣服に着いた血液はそのままだと衣類に染みて落とし難く、また、酸化により色が赤から茶色に変わり凝固するので、八十場の冷水により温度上昇を抑えられたとしても一旦染みた血液が再び溶け混ざる可能性は低いと見られる。従って、可能性が高いのは、泉に浸された時に柩の上から掛けられた水が中に入り、柩の中で血液と混合した状態だったことが考えられる。

これに対して、八十場の泉に浸された話は創作されたものという解釈(三木氏)もあるが、高家神社由緒には柩を置いた跡の石に血が「鈍染」したとあるから、暗殺当日でも、暗殺による崩御21日後の出来事という可能性のいずれもあり得る。ここでは、後に述べる理由により御遺体を約20日間八十場の泉に浸した説を事実だと捉えている。

 柩を置いたとされる石の顕彰(大正9年)

他方、「暗殺説は怨霊説を強化するために後につくられた」という見方がある。しかし、複数の地でそれぞれ暗殺を伝える伝説と、暗殺を強く示唆する「血の宮」伝説が地元で長く伝えられ、かつ、次節以降に記載する「暗殺者とされる子孫の証言」や京に伝わっていた上皇崩御の具体的な場所から考察すると、この話は事実だと言えるのではないだろうか。歴史事件は、それぞれの話が独立した別物でなく、いくつかの事実や伝説が関連して別の所でも現れるものである。従って、これらを通して矛盾なく説明できる暗殺説の真実性は高いと思われるので、証拠となる状況を見ていくことにする。

第2節 「暗殺者」子孫の重要証言

上皇暗殺者として『三代物語』等が伝える「三木近安」について、地元歴史研究家三木豊樹氏は、その子孫から暗殺に関する重要な証言を得ている。
氏の著書から引用すると、「昭和33年、宇多津町平山の旧家で、元弁護士・判事、元宇多津町長の故三木百々乃助氏宅で、未亡人喜久枝氏から『世間では、崇徳天皇さんを私の先祖が殺したと言っているが、私が祖父から聞いた話では、殺したのは京都から来た刺客であって、家の祖先は当時東平山、今の御供所にあった聖通寺の住職をしていたので、刺客が木の丸殿へ行く道が判らないので道案内を頼まれて行っただけで、崇徳さんを殺したのではない』と語った。」と記している(脚注34)。極めて具体的かつ率直で、子孫しか知り得ない内容で信ぴょう性が高い。

考えてみれば、京の暗殺指令者が田舎の寺の住職を暗殺実行者にするとは全く考えられない。秘密裏に確実に暗殺するためには京の屈強な者に密命を下すのが当然である。三木喜久枝氏自身が、先祖から伝わる暗殺に関する事実を知っていたが、『三代物語』等は真の暗殺者の姿を隠した言い伝えのまま記している。京からの暗殺実行者の素性が分かれば、その裏にいる指令者が明らかになる恐れがあるから、当然、隠蔽工作が為され、案内者である三木近安の名が暗殺者として利用されたと考えられる。(この時の暗殺者の讃岐到着地は、平山浦と推測される。)
これらの詳細で具体的な証言などから、『三代物語』は怨霊説を強めるためではなく、長く伝承されてきたことを記したものであると評価できる。

なお、「近安が驄馬(そうば=青馬)に乗り紫手綱を取って」という個所については、これは道案内者の姿ではなく、実行者についても目立たないことが重要だったはずであるから、創作が加えられているものと見られる。

淳仁天皇は、京から追放(脚注35)され淡路島で崩御されたが、朝廷に反旗を翻した翌日に突然崩御しており、古書には崩御に関する記載がないものの暗殺説が有力である。朝廷側が暗殺を認めないのは当然だが、葬儀に朝廷が全く関与していない(淳仁天皇の場合には葬儀の記録がない)のは崇徳上皇崩御のケースとよく似ているのである。

こうした事実を積み重ねてみると、崇徳上皇配流地を巡る現在の通説においては、これまで見てきた数々の地元の言い伝え(「崇徳天皇社」行在所伝説、「衛士坊の坂」伝説、御供所「真光寺」伝説、御供所における上皇侍人の居住など地元の重要な言い伝え)と向き合っていないのではないかと思えるのである。

 暗殺場所「柳田」碑(大正10年)

第3節 暗殺を隠ぺいする動き

次に、改めて暗殺と「八十場の泉に浸した」関係について検証する。上皇暗殺は事実の可能性が高いことが前記により判明したが、京の権威を守るために上皇暗殺を隠す必要があったはずである。しかし、暗殺が行われた当地では、暗殺と柩からの染血の大事件は、いくら厳しくかん口令を敷いても漏れ伝わる程の驚愕すべき事件だから、連綿と地元で伝えられた。これを公に記したのは江戸中期の『三代物語』が最初かと思われる。暗殺説に反対する怨霊強化論に対して改めて反論すれば、流布していた軍記物語の影響はあったものの、地元では崇徳上皇を京で言うような怨霊とは受け止めていなかったし、江戸後期に至るまで高松藩主は白峯陵、白峯寺に寄進し菩提を弔っており、江戸中期に地元文書が怨霊説を補強する必要性や理由はないのである。

後の葬儀に関して朝廷が何の沙汰もせず喪に服してもいない(『百鍛抄』」)ことを考慮すれば、事前に暗殺を予告されていたと思われる讃岐国司側が上皇崩御を確認すればそれで目的は達するから、速やかに葬送を行うか又は行わなくてもよかったはずである。保元の乱に参加した藤原頼長は乱当日7月11日に死亡し土葬され、信西によって墓が暴かれた7月21日に頼長その人が判別できなかったと伝えられているが、仏門に深く帰依された上皇と同様には考えられないところ、柩を八十場の泉に浸けた必要性を暗殺側の視点から考えると、御遺体の保護ではなく暗殺を隠ぺいするという次の目的のためだったのではないかと見ることが出来るのではないだろうか。

八十場の泉と暗殺との関係を巡ってはいくつかの可能性が考えられる。 
[1]暗殺を指令した側は、上皇柩を敢えて八十場の泉に浸して検視事実を作ることで別の死因を装い、暗殺を隠ぺいしようとした。
[2]暗殺当日に柩は秘密裏に白峰に向かい、八十場の泉には空の棺を浸して検視官の到着を待ってから白峰に運んだ。
[3]柩は暗殺当日に白峰に運ばれ、暗殺隠ぺいのために泉に柩を浸したという話がねつ造され た。[2][3]のケースでは「鈍染」の出来事が日を変えて伝えられたことになる。 

このうち、[2]と[3]の空の棺説については、『白峯寺縁起』の讃岐内の出来事を記した箇所に「野澤井に玉体をひやし申」とあることと、柩の白峰運行を見せることが自然死や病死を装う方策であり、白峰に二度向かう必要のない[1]が最も現実性が高いと考えられる。この結果、暗殺は京の貴族たちに秘匿されたから、京で書かれた古書がこのことに触れることはなかったのである。
当時すでに怨念・怨霊の存在は信じられていて、非業な死を遂げた上皇の御霊は、最後の行在所に留まっていると考えるから、その場所は弔わなければならないのである。そのために導き出されたのが、泉に浸した毎夜毎夜に「神光」が輝いたという話である。泉の水に浸したことで暗殺の隠ぺいを図ると同時に「神光」によって非業の崩御となった御霊を祀る理由が明確になったと考えられる。こうして、上皇が幽閉され過ごされた場所が、「崇徳天皇社(明の宮)」として長く祀られることになったと考えられる。

第4節 上皇崩御の場所

古書(保元物語諸本等)には上皇崩御の地を「四度」「志度」「志戸」などと記されているが、もとは「音」の同じ一つの地名から生じたと考えられる。『保元物語』古活字本には「志戸というところで、ご崩御なさったのを、白峯というところで煙にし申す」と、崩御と荼毘の重要な二つの場所が京に伝わっていたことを明確に示している。

「しど」は、初め崩御の地として伝わり、崩御された場所が配流地としても推測されて取り入れられたと考えられる。また、「しど」には数種類の漢字が充てられているが、これは同じ「音」を元にして字を充てたことを意味している。つまり、京に伝わったのは文字によってではなく言葉で伝わったと考えられるのである。それは、上皇崩御の場所を文字にして伝えることが憚られたからかも知れないし、急いで子細を伝えるためだったのかも知れない。「志戸」「四度」等は、崩御された地名から違う漢字に転じた結果であり、元になる崩御地の名は鼓岡近くにあった地名「死出」(しで)だと考えられるので「死出」について及びその音と文字が「しど」に転じたと考えられる経過を考察する。

「死出」の場所は、時代を遡る仁和4年(888年)讃岐大干ばつの折り、国守菅原道真公が城山明神原で降雨を祈願するにあたって、必死の覚悟を持って国庁を出発して住民に見送られたと伝わる場所である。『全讃史』などの史伝では「道真が民と別れた所が死出と呼ばれ、鼓岡辺りにあり」(下線は筆者)、「死出は道真の祈りの降雨を待つ住民が死に装束で集まった場所」だと地名の由来を記している。讃岐の民20万人の生死が掛った出来事であった。

「しで」(死出)の音が「しど」に変化する仕組みは、「しで」の音からその地名漢字が明らかでなかったために既に知っていた地名「しど」に音が転じ、その後に漢字で表されたと考えられる。その仕組みは、
不知の音 ⇒耳 ⇒脳 ⇒既知の音 ⇒漢字 へ転換する情報伝達の働きである。
仏教のサンスクリット語が日本の音声と字に用いられた経過と同様である。つまり、これは一般的に行われる音と文字の伝達作業の経路であり、「志度」で崩御されたというのは讃岐から伝わった崩御地名「しで」から音転換したものである。同様に、古書の「在庁野太夫」の名として、『保元物語』諸本に「高遠」「高香」「高李」と複数の表記があるのは、地名と同じく人名も口伝で言い伝わって漢字に転換する経過を辿ったことを示している。

そして、崇徳上皇が「しど」に転じた元の地名「死出」で崩御されたということが示す重要な意味がある。それは、上皇はお住いの場所とは違う「しで」という名のついた地で崩御されたということである。お住い以外の場所で崩御されたということは、直接的ではないが暗殺が起きたことを強く示唆し暗殺説を補強する事実を伝えている。暗殺については京の貴族社会には秘匿されたが、崩御された場所の地名と位置関係なら子細として伝えることができたのである。そして、それが伝わっても、配所移転の正確な情報はなく暗殺も隠ぺいされたから、崩御地名がお住まいとは違うことや暗殺との関係を推し測ることはできなかったのである。
藤原為経作の『今鏡』は、上皇崩御後6年後にあたる嘉応2年(1170年)時点で書かれたとされ、その中には「憂き世の悲しさのあまりか 病気も年々重くなり」と上皇の病死を推測しているような記述がある。しかし、他の貴族の日記等で触れていないのは、崩御の原因が何も伝わってなかったからではないかと考えられる。また、「病気」だから病死するとは限らず、何よりも、既に見てきたように上皇はお住まいではない場所で崩御されたのだから病死の可能性は低く、他に考えられるのは事故か暗殺なのである。

このように、京の貴族たちには暗殺とも病死とも伝わらず、女房の兵衛佐局は上皇崩御について京に帰っても何も言わなかった(脚注36)ようだから、暗殺指令者側の隠ぺい工作によって崩御の原因(暗殺)が隠され通したということになる。
 
「四手池」との場所関係
上皇崩御の地名「しで」は、現在「四手池」という池に名前が残っている。一般的な説では、この四手池は鼓岡や城山登山口の場所から離れ過ぎて(約2.3km)いるから崩御地として古書に書いている「志戸」「志度」などが「しで」から転じたとするのは誤りで崩御地は「鼓岡」とする説、「四手池」の地で崩御されたとする説、香川県大川郡の志度のことだという説も見られる。
四手池は江戸寛政年間の築造又は正保年間の干ばつを機に築造された(脚注37)池で、鼓岡から南方向2km以上離れた所にある。つまり、江戸時代にこの池が出来たときに、道真公と雨水との関係に因んで貯水の願いを込めて池の名前に採用されたか、完成後の池から水路によって国府や鼓岡辺りの道真公ゆかりの「死出」の土地まで潤したとされているから、どちらかが「四手」池と名付けられた理由ではないかと考えられる。従って、今の四手池の場所は、もともと道真公が民から見送られ城山に向かった鼓岡辺りの「死出」とは違う場所なのだから、現在地名に残る「四手」から古書に書いてある上皇崩御の場所「志戸」等に転じたというのは誤りであって、四手池は上皇崩御の場所とは関係ない。つまり、現在の四手(池)の場所と古書が記す上皇崩御の地「志戸」が繋がらないというのは正しいが、道真公と関わりのある「死出」と、軍記物語の上皇崩御の地「四度」「志度」「志戸」は音が転じて繋がっていると考えられる。
道真公の話に関わる「死出」が国府庁、鼓岡の近くにあり、その土地の名前が崩御の地として京に伝わったことに誤りはなく、音で伝えられたため「志度」等に転じたと考えるのが妥当である。

「死出」の場所
「死出」は国府庁近くの人が集まることができる所。現在では国府庁や鼓岡近くに「死出」の地名は消滅しているが、民にとって大きな恩のある場所だから、道真公が讃岐を去った後も人々はその場所を祀ったはずである。現在、城山神社境内に移転している「雨請天満宮」の由緒には、「菅公の遺徳報恩のため菅公が都に帰られた後、里人国司庁の近くに社を建て雨請天満宮として公を祭った」と記している。神社という公の施設は地元にとって由緒ある大事な場所に建てられるから、神社由緒の「国司庁の近く」と『全讃史』の「鼓岡辺り」の二つの場所は同一と考えられる。『全讃史』にはこの天満宮が「鼓岡より北二丁四十間柳田近くにある。」(距離換算約290m)とし、天満宮は文政年間(1830年頃)に城山神社境内へ移転したため、もとの地(「死出」)が「天神」と呼ばれるようになったと記している。「死出」地名が失われたのは、それに代わる地名が付いたからであった。この天神地名が残るのはJR予讃線沿いの「印やく明神」碑の北、「柳田」寄りの地である。

これらの地理分析を総合すると、道真公の降雨祈願の出発地「死出」(=「雨請天満宮」の場所=「天神」地名)は、そこから50m余り(最近地50m余、最遠地約110m)しか離れていない上皇暗殺場所として伝わる「柳田」碑近くの場所であることが判明した(柳田は、上皇が暗殺前に隠れたという柳の古木に因んで後に命名されたと考えられる)。上皇崩御地「しで」はまさしく当時のこの辺りの地名で、音と漢字が転換して京では「しど」になったが、上皇崩御の場所として道真公ゆかりの地名が伝えられていたのである。

従って、『保元物語』金刀比羅本が記す配流地「四度道場辺鼓岡」や半井本の「讃岐国府」は、崩御地(「しで」から転じた「しど」)の位置関係を理解したうえでその辺りの屋敷地名(鼓岡)又は施設名(国府)を記したものと考えられる。また、平家異本においても、上皇崩御の場所と伝えられた崩御地名「しど」に漢字を充てた「志度」や、崩御地近くの屋敷地名「鼓岡」が、崩御の時に住まわれていた配流場所として想像されて書かれているようである。つまり、軍記物語に書かれた最後の配流場所を見ると、いずれも崩御の地を参考にして書かれたに過ぎなかったことが分かる。

軍記物語における上皇最後のお住まいの場所は、いずれも崩御地が国府庁の少し北だったと伝わっていたことから推測されたものであって、歴史事実に基づく根拠はなかったと言うことができる。そして、それらの中から屋敷場所の名前「鼓岡」が配所として、讃岐で作られた江戸中期の書物にも採用される経過を辿ったことが伺われる。

出典:「府中町本村周辺の地名分布図」(香川県埋蔵文化財センター年報平成21年度36P)の一部を切取り縮小

「しど」に音転換した「しで」の分析からすると、それぞれ別の時代から伝わっている道真公の降雨祈願に繋がる話とその二百数十年後の崇徳上皇崩御の場所は極めて近接していた。つまり、「柳田」碑は、上皇崩御場所を正確に捉えていると言える。なお、「死出の山」「死天の山」は娑婆と冥途との境にある山 (脚注38)であるという宗教的な表現であるが、道真公説話では具体地名として採用している。
いずれにしろ、上皇崩御の地は、讃岐東部の「志度」地名や志度寺とは何ら関係ないことは断言できるのである。