御製などから解く配流場所
(1)西行との贈答歌のやり取りから伺えること
上皇配流中に京にいた西行は、上皇にお供した女房兵衛佐局を相手に歌のやり取りをしていますが、歌の表現などから本当は上皇とのやり取りであることを「証明」している研究があります(「讃岐贈答歌群の「女房」について(それが崇徳院であることの証明)」桐原徳重 編)。女房の歌を装った可能性は高いと思われ、西行との間の歌を女房が読んだようにした背景には、そうすることで上皇の御身を護る目的や置かれた状況があったからで、この偽装は①上皇が幽閉されていた中で、②政権への反抗行動に結び付くのではないかと疑われないようにするため、女房の歌を装う必要を感じていたことがその動機であると考えられます。
上皇と西行の直接の通信を隠す必要があったと捉えると、このやり取りの経路は西行の使者が警備の緩やかな兵衛佐局のもとを訪れて歌を託した後、兵衛佐局がそれを携えて、国府庁の許しを得て上皇のもとを訪れて密かに伝え、上皇からの歌はその逆のルートを辿ったと考えられるでしょう。つまり、この歌のやり取りが行われた時期には上皇は幽閉され、女房とは離れた場所にお一人で住まわれていた状況にあったと推測でき、歌のやり取りを秘匿するための偽装と経路が考えられたのでしょう。上皇と極めて近い間柄の西行が、上皇配流中に讃岐を訪れなかった理由もこれと同じで、上皇の安全を図るための配慮からだったと考えられます。
(2)御製から伺える幽閉の場所
女房兵衛佐局が上皇崩御後京に持ち帰った御宸筆の、藤原俊成宛の長歌には「あま(海人)のなはたぎ いさりせむ(漁師の網で魚を獲ることになろうとは)という和歌があることは知っていたが私も同じ境遇になるとは」という意味が書かれています。
讃岐で上皇が最初に仮住まいされた綾高遠の屋敷から、勅命に従って造営された「讃岐のさとの海士庄」の御所に遷り住まわれていた時期のご経験を歌われたのかも知れません。綾の屋敷では世話を受けて上皇自ら漁をすることはなかったでしょうし、幽閉中は衛士によって食事の準備・提供がされたと考えられるので、この2カ所での生活ではなく海士庄の御所での様子と思われます。上皇は自分も漁に関わるような境遇になったと詠んだのです。
また、「十訓抄」には、かつて上皇に仕えた蓮妙(蓮如)が上皇配所を密かに訪れたとき、その場所に立ち入ろうとして武士共に遮られて叶わなかったが、中から汚れた狩衣を着た人が出てきたとき、歌を書いた板を上皇にお見せするように願ったところ、しばらくして持ち帰った先ほどの板に上皇の歌が書いてあった。蓮妙はそれを背負いに入れて持ち帰ったと書かれています。蓮妙は京の知人にこの時の様子を報告したのでしょう。この説話から分かることは、上皇は厳しく幽閉され、その場所を複数の武士が警固していた、つまり監視役の「衛士」がいて近づく者を制御していた環境だったことが分かります。
この説話は、
①幽閉の具体的・写実的な様子であること、
②上皇返歌の「ねをのみぞなく」(声を出して泣くばかりである)の主語としての「釣りする海士」を自分自身のこととして言い、上皇崩御後に俊成に伝わった長歌では、和歌で知っていた「漁師の網で漁をする」のと同じ境遇になったことを詠んで、どちらも海士・海人のようになったという認識、表現が共通していること、
③武士が監視していたことを示す「衛士坊」「衛士坊の坂」の名が、天皇寺高照院周辺に伝わっていること
これらから、
説話の内容は現天皇寺と白峰宮になっている場所に幽閉されていた時に実際に起きたことが伝えられたものと考えられます。
このときのやり取りは、
蓮妙
「朝くらや 木の丸どのにいりながら 君に知られでかへる悲しさ」
上皇返歌
「朝くらや たゞいたづらに帰すにも 釣りする海士のねをのみぞ泣るれ」
この時の上皇お住まい(幽閉場所)は、勅命に従って御所が造営された「海士庄」(今の坂出市御供所と思われる)から遷された、同じ湾内の海浜に近い場所にあったので「海士」を掛けているという解釈もできます。幽閉場所と思われる白峰宮と天皇寺高照院の場所(崇徳天皇社)から、当時は僅か先の海岸線を見下ろせたとされることからも、この解釈には納得性があると受け止められます。
(「新撰十訓抄:詳解」(田中健三著・東林書房発行)、「天狗と天皇」(大岩岩雄著・白水社)を主に参照し、作成しました。)
(3)寂然の歌「君がすむ そなたの山」
また、寂然が配所を訪れたときの歌が残る「寂然法師集」には、「慰にみつゝもゆかむ君かすむ そなたの山を雲なへたつそ」とあります。これについて、『新修香川県史』は「上皇のおられた松山の御堂が、山の近くにあった事を歌ったもの」として「白峯山の上または麓にあったものと考えられる」としていますが、これは「松山郷」に囚われた解釈になってしまっていることと、白峰山中には配流場所の言い伝えや史蹟はないことから、白峰山ではない山の麓にあって松山の津を出た船から配所付近が見える状況だったことが分かります。すると、金山(かなやま)の麓にある、後に崇徳天皇社となる場所しか当てはまる処はないと地理的に分析できます。