崇徳上皇配流地の再検証について (諸説と重要一次資料) 

第一章

最初に、水原一氏が『崇徳院説話の考察』(脚注1)の中で軍記物語における上皇配所を整理しているので以下に引用する。(出来事を記す()書きは除く)
「 崇徳院の配所移転に関する諸本の形を比較するとおよそ次の如くである。
◇保元物語  
  [金刀本]讃岐在庁高遠の松山の堂に入り→四度郡直島に移り→四度道場辺鼓岡に移る
  [鎌倉本]在庁高李の松山の堂→志度郡直島→志度の道場という山寺
  [古活字本]在庁高李の松山の堂→直島→志戸
  [半井本]直島→在庁高遠の松山の堂→讃岐国府
◇平家異本 
 [延慶本]志度郡直島→在庁高遠の堂→鼓の岡→志度の道場
 [長門本]直島→在庁高遠の堂→鼓の岡→志度
 [盛衰記]直島→在庁高遠の堂→鼓岡→志度
 [闘諍録]志度道場→府中鼓岡                   」

これらを概観した結果からは、次のことが伺える。
① 保元諸本、平家異本にほぼ共通するのは「直島」、「志度」、「在庁高遠の堂」。② 保元諸本の一部に現れる「鼓岡」は、平家異本のいずれにも見える。

さらに、軍記物語が流布していた江戸時代の讃岐において制作された、讃岐の諸事を書き表した書物や事跡碑文に上皇配所がどう書かれているかを以下に整理した。
対象とした書籍等の書名、作成時期は以下のとおり。

『三代物語』『翁嫗夜話』  (1745年頃)
  林田の御所(高任の堂)(6年)→ 直島 → 府中郷鼓岡
『綾北問尋鈔』 (1755年)
  最初高遠に屋敷→長命寺(雲井御所)(3年)→ 鼓カ岡(6年)
『全讃史』 (1828年)
  長命寺(6年)→ 鼓岡
『雲井ノ御所ノ碑』(1835年)
  直島(泊)→ 林田の高任の家(雲井御所)(→記さず)
『讃州府志全』 1915年増補版
  原本『三代物語』にない「長命寺」が配流先になっている。
  長命寺(雲井御所) → 鼓岡(6年)
概観と背景
① 軍記物語にはない「長命寺」を行在所とするものが現れる。
② 平家異本に現れた「鼓岡」が書物全てに見られる。
③ 高松藩は、「高任なるが者の家」を雲井御所とし、長命寺は認めていない。
(白峰宮・摩尼珠院を崇敬し、鼓岡は顕彰していない。)
④直島行在所説は少数である。


上皇行在所の考え方を整理すると、
・高松藩 (碑文及び崇敬の歴史から解釈)
  綾高遠屋敷○、 長命寺×、鼓岡×、(崇徳天皇社○)
・『三代物語』綾高遠屋敷○、直島〇、長命寺×、鼓岡○ 
・『綾北問尋鈔』 一時 綾高遠屋敷△、長命寺○、鼓岡○
・『全讃史』 綾高遠屋敷×、長命寺○、鼓岡○ 

― 新しい視点を加えて通説を検証する ― 

『保元物語』等の古書では、その成立時期や作成者の立場、書の性格によっても上皇配流先が少しずつ相違している。また、現在の通説は、読者を意識して書かれた「読み物」の影響を受けている一方、地元に残る伝承や歴史事実を適切に分析、評価していないと思える状況がある。
歴史は人間や組織の心理と行動の結果創られるから、書物中の文字の解釈に止まらず人間や組織の視点に立って複数の出来事を関連付けながら分析することが事実の検証には必要だと考えられる。そこで、できるだけこうした方法を採ることによって少しでも真相に近づけるのではないかと考え、加えて、可能な範囲の科学的・現実的な視点を用いて再検証にあたることにした。
例えば、崇徳上皇に関しては「怨霊」説が流布しているが、「強く恨む怨霊がある」と受け止めるから心に恐れが生まれることを、現代人は心理学の学びなどを通じて知っている。一方で、歴史の解釈をするときにはこのことを忘れてしまって、知らない間に怨霊説に与している場面も垣間見える。これは歴史物語を面白く読めることには繋がるが、歴史解釈に宿命的に含まれていると思える誤解、思い込み、場合によってはねつ造に囚われずに、少しでも歴史の真相に近づきたい観点からすると科学的・現実的分析を取り入れる余地が多分にあるということである。

崇徳上皇をめぐる讃岐配流の話には、後の時代の価値観を使って上皇配流時代のこととして書かれたものや、ストーリー性を高めるように脚色された話が多い。また、古書ごとに内容が少しずつ違っていたり「間違い」と評価されている箇所もあるが、間違いには間違った理由がそれぞれにあるので、その間違いを一刀両断に否定するだけでなく、なぜ間違ったのかを分析する過程からさらに事実に近づけることもある。また、「こうあるべき」「こうあって欲しい」という意識から、事実とは離れた話になったケースも想定されるので、これに対する意識も必要と思われる。つまり、今の坂出の地に崇徳上皇が住まわれたことは事実に違いないが、様々な話しや「遺構」など虚実入り交ったものが加えられた形になっているのではないかと思われるから、現在の通説を検証して「思い込み」や「期待」等から造られたものを取り除いた現実的視点を用いたり、有意な研究者の分析等を参照しながら、事実に少しでも近づいていきたい。


― 参考古書の性格、成立時期 -

保元の乱を巡る話は、乱が起きるまでの出来事と乱の勃発、乱の処理、その後の関係者の死亡や京の大火など祟りによると言われた出来事、「崇徳院」の諡号が贈られ菩提が弔われていく流れがある。この中で、上皇崩御から10年以上経って「怨霊」説が京で強く意識されるが、軍記物語には讃岐配流の頃から怨霊だったと思わせる書きぶりがあり、「読み物」の性格を表している。

前掲書『崇徳院説話の考察』の配所整理から見える『保元物語』諸本と『平家物語』異本の特徴的な違いのひとつは、「鼓岡」の採用傾向である。『保元物語』は天皇、上皇と武家との関りが中心となる読み物で、貴族社会に言い伝えられていた上皇配流の断片的な話を物語に取り入れていったと考えられる。他方、平家物語異本は、平氏の栄枯盛衰の物語で、武士と人間の生き様に焦点を当てていると受け止められ、『保元物語』の情報を活用しつつ話が再構成されたと思われる。つまり、『保元物語』諸本と『平家物語』異本の「鼓岡」の現れ方の違いは、両者の制作系統の違いを表しているのではないかと思われる。なお、保元金刀比羅本に「鼓岡」を記しているのは、平家異本の影響を受けて修正されたからと考えられる。また、『保元物語』等の軍記物語には、京で直接見聞きした出来事やそこから生まれた心理や行動などを中心に、上皇讃岐配流地の出来事を遠く京で伝え聞いたと思われる話が含まれている。
これに対して『白峯寺縁起』は、軍記物語よりも少し後の時代に京で制作され、当時既に流布していた軍記読み物からも一部取り入れたと思われる箇所はあるが、京に於いて見聞きした出来事の記録や御陵守護寺である白峯寺を通じて得た寺の来歴や讃岐の出来事に関する情報から構成されていると捉えられるから、讃岐配所の記載には一定の信頼性があり、軍記物語とは制作の目的や過程に違いがある。

また、江戸時代中期以降に讃岐で作られた書物には、軍記物語が広く読まれていた状況からその影響を受けている個所があると思われる。事実記録と異なる「読み物」に相当する箇所には留意する必要がある。
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保元の乱  1156年 
『保元物語』◇諸説があるが、通説では13C前期から後期頃までに最初の話が成立し、 その後15世紀にかけて諸本が作られたのでないかとされている。保元平治物語として琵琶によって語られ、読み物になっていった。
『平家物語』◇鎌倉時代13C中頃から14Cにかけて平家物語が作られ、異本に繋がっていったと見られる。『保元物語』よりやや後から成立し始めた。
『白峯寺縁起』◇代々の記録などを基に作成(1406年成立)。 

一次資料の例> 
『清輔朝臣集』(藤原清輔(1104-1177)日記)に「讃岐のさとの海士庄に 造内裏の公 事あたりけるを 守李行朝臣は 志たしかるべき人なれば 云い遺しける」(脚注2)(讃岐の里の 海士庄に上皇の御住居を造れという朝廷からの命令を、讃岐国守李行とは親しい間柄なので 私から書簡を送った)と書いてある。これは配流地検証の観点から信頼性の高い最も重要な 資料である。
・『兵範記』保元の乱に関わった平信範の日記。1132~1171年の出来事を記載。
・『今鏡』(藤原為経(寂超)作とされる)天皇や藤原氏などの1025~1170年までの 歴史 を叙述した物語。上皇崩御後、京に帰られた女房兵衛佐局のご様子を記す。
・『山家集』西行が自選した歌を、後に増補した。           
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崇徳上皇配流地に関する現在の通説は、保元の乱後数十年を経て成立し始めた『保元物語』諸本、『平家物語』異本などと、江戸時代の讃岐において公的な性格を持って制作された『全讃史』や「雲井御所」碑、私的な立場で作られた『三代物語』『綾北問尋鈔』等から組み合わせてできている。

これに対して、地元に残る伝説やこの地で起きた歴史上の事実を踏まえて配流地を検証した三木豊樹氏著『真説 崇徳院と木の丸殿 綾北探訪記前編 』(脚注3)の説などがある。現状では前者の説が受け入れられ、後者の説は世間に流通する機会も少なく市井の人の立場でもあり、ほとんど知られていないのが現状である。しかし、同書では、讃岐の地に伝わってきた伝説に関連して、出来事の背景や当時の社会環境の発掘、地元関係者やその子孫への調査、上皇周辺に起きた出来事などを考慮しながら現在の説を検証した結果、配流地が誤って伝えられていると指摘している。

今回の配流地再検証に当たっては、可能な範囲で科学的な視点も取り入れ、一つの説に対してできるだけ複数の視点から見て歴史事実だと判定できる妥当性が構成されるかどうか、さらに人間や組織心理、死生観から見える分析、中世漢字の検証も加えた。また、数百年も前の事であるため新たな文書からの新事実発見は困難であるから事実と事実を繋ぐ合理的推論を取り入れた。これらによって、通説と三木豊樹氏説の両方について再検証することができるのではないかと考えた。
上皇配流地に関して再検証を行なった項目は、「松山(の津)」、「一宇の堂」とされる「雲井御所」と「長命寺」、「真光寺」、「崇徳天皇社」、「衛士坊の坂」、暗殺説、「鼓岡」と「鼓岳」等である。