崇徳上皇の葬列と荼毘

上皇御柩が荼毘に付されるため白峰に向かう途中、激しい雷雨のため高屋阿気の地に留まったとき柩を置いた石に血が「鈍染」し、荼毘の煙は白峰山の谷あいに漂ったという、「血の宮」と「煙の宮」の伝説。
この雷雨と煙の出来事は、初秋における寒冷前線通過による激しい雷雨と、その後暫くして晴れて風も止み、放射冷却によって冷たい空気に厚く覆われた結果、荼毘の煙は上空に上がらず谷あいに低く広がったことを明らかにしています。これらの伝説は連続する一連の気象の変化が起こした出来事として説明できることから、創作されたものではなく実際に起きたこと考えられます。
この伝説は「怨霊」や「恨み」と結びつけられることもありますが、仮にそうなら荼毘の情報がなかった京ではなく讃岐で話が作られたことになります。もしそうであるなら讃岐に「怨霊」が持ち込まれて、葬送から数十年も後になってから一夜の気象変化を前提にした話が作られたことになりますが、葬列運行中の豪雨も荼毘の煙も、その当日にしか目の当たりにすることができなかったことが衝撃となって伝えられた話なので、連続した気象変化が起こした出来事を数十年以上も後になって想像して作れることではないと思えるのです。

さて、上皇が6年近くお住いになった崇徳天皇社の場所からは、南に城山(きやま)を見上げることができます。この城山にある「不動滝」付近は御陵となった白峯と同じく古代から修験者の修業の場になっていました。御陵は白峯に置かれましたが、「上皇が崩御されたとき、城山の谷にある不動滝の横を墓所とする案もあった」ことが口伝にあるそうです。、山上に御陵を設けるのは天皇の意向が示されない限り極めて例外的なことと認識されていたので、暗殺された”魂を山上に封じ込める”狙いがあったのかも知れません。国府庁が準備していたと思われる埋葬場所は、本当のところ遺言はなくても『白峯寺縁起』では「御遺詔の故」と敬意を示しているのかも知れません。

葬列の運行・荼毘 
現代歴の9月14日は、上皇が凶刃に倒れられた日に当たります。本書では、暗殺隠ぺいのため御遺体の柩は当日の夜に白峯山に向かったと理解しています(初版本から見解を訂正しました)。
従って、野澤井で行われた殯の儀式は上皇暗殺の隠ぺいを徹底するために空の棺が使われたことになります。伝説となった一連の出来事である、豪雨があったこと、柩を置いた石に血が「鈍染」したこと、荼毘の煙が谷あいに広がったこと、これらは寒冷前線通過に伴う一連の気象変化によって起きたことで、日を変えて伝えられたと考えています。

綾川。上皇崩御の後、この川の両岸の荘園は寄進され、白峯頓証寺の崇徳院御影堂領又は京都の崇徳院御影堂領となりました。
現在の綾川は洪水対策が進んで川幅も広くなりましたが、以前は大雨になると急激に水嵩が上がるくらい川幅も狭く、下流には幾度の氾濫があったことが伺える形跡や地名が残っています。

上皇は、国府庁の近く「柳田」で凶刃に倒れられました。通説は、柩に納められ野澤井で殯の儀式が行われたとしていますが、実際には暗殺当夜に密かに白峰向けて運ばれ、高屋阿気で一夜留まり、翌日白峯に到着、その夜から朝にかけて荼毘に付されたと考えられます。通説では暗殺の20日以上を経て白峰に運ばれる途中で柩から血が「鈍染」したとなっていますが、血液の容血や凝固性から考えると血の「鈍染」は暗殺当夜と考えると、科学的に整合するようです。

荼毘にあたっては朝廷の関与は何もなく(使者も参列も供物も弔意もなく)全て讃岐国庁の責任で行われました。
讃岐配流から、暗殺、荼毘、そして「崇徳院」諡号への歴史を考えると、荼毘の場所がそのまま墓となり、「御陵」へとなったのでしょう。

翌朝までかかった荼毘の煙は、稚児ヶ岳と北峰の間に低く広がって「煙の宮」伝説になりました。

上皇荼毘の煙にこの状況をもたらしたのは放射冷却現象だったと考えられます。下の写真は地上から上がった煙が僅か十数メートルほどの高さで大きく広がった様子(坂出市神谷町付近:2020年10/1午前7時頃)ですが、荼毘の煙も上空から押さえられるように谷あいに広がった様子が想像できます。

上皇崩御後に帰京した女房兵衛佐局から藤原俊成に伝えられた、上皇が配流中に詠まれた御宸筆の歌から、上皇は御苦難の中にあって、仏教に帰依されていたことが分かります(この歌は「長秋詠藻」(藤原俊成歌集)に搭載されています)。

 2024年12月15日 訂正

2020年10月01日