崇徳上皇の葬列と荼毘
上皇御柩が荼毘に付されるため白峰に向かう途中、激しい雷雨のため高屋阿気の地に留まったとき、柩を置いた石に血が「鈍染」し、荼毘の煙は白峰山の谷あいに漂ったという、「血の宮」と「煙の宮」の伝説。
この雷雨と煙の出来事は、初秋(現代歴10月初旬)における寒冷前線通過による激しい雷雨と、その後暫くして晴れて風も止み、翌朝まで放射冷却によって冷たい空気に厚く覆われた結果、朝には荼毘の煙は上空に上がらず谷あいに低く広がっていたことを明らかにしています。これらの伝説は連続する一連の気象状況の変化が起こした出来事として説明できることから、創作されたものではなく実際に起きたこと考えられます。
この伝説は「怨霊」や「恨み」と結びつけられることもありますが、仮にそうなら荼毘を行う情報がなかった京ではなく讃岐で話が作られたことになります。もしそうであるなら讃岐に「怨霊」が持ち込まれてからとなるので、数十年以降も後になって一夜の気象変化を前提にした話が作られたことになります。しかし、葬列運行中の豪雨も荼毘の煙も、その当日にしか目の当たりにすることができなかったことが衝撃を与えて伝え続けられているのですから、この連続した気象変化が起こした出来事は数十年以上も後になってから想像して作れる話ではないのです。
さて、上皇が6年近くお住いになった崇徳天皇社の場所からは、南に城山(きやま)を見上げることができます。この城山にある「不動滝」付近は御陵となった白峯と同じく古代から修験者の修業の場になっていました。御陵は白峯に置かれましたが、「上皇が崩御されたとき、城山の谷にある不動滝の横を墓所とする案もあった」ことが口伝にあるそうです。
葬列の運行
現代歴の10月3日は、上皇柩が白峰山に向かって「野澤井」(八十場の泉)を出発したとされる日、翌日は「血の宮」伝説となった出来事があった日です。
上皇御柩が東に向かって渡った綾川。現在では洪水対策が進んで川幅も広くなりました。昔は大雨になると急激に水嵩が上がるくらい川幅も狭く、下流には幾度の氾濫があったことが伺える形跡や地名が残っています。
野澤井を発った柩は白峰山方向へ向かうため、現在の鴨川駅付近で綾川を渡ったと思われますが、翌日にようやく7km程先の高屋付近に至ったことからすると、私説ながら、柩は国府庁横の女房兵衛佐局が上皇とは普段は離れて住まわれていたのではないか筆者が推測する「鼓の宮」(鼓岡)に向かい、惜別儀礼の翌日に高屋に向かったのかも知れません。(本編:配流地「鼓岡」と「鼓岳」」
柩は、「血の宮」の後ろの山を越えて、狭く険しい山中を荼毘の場所(稚児ヶ岳の上)に運ばれたと思われます。この辺りから2km程の道程ですが木々も多く急斜面でかなりの時間を要したことでしょう。荼毘にあたって、朝廷の関与は何もなく(使者も参列も供物も弔意もなく)全て讃岐国庁の責任で行われたとされます。
荼毘の場所がそのまま墓所になったのでしょう。
現代歴10月5日夜8時頃始まったとされ夜通しかかった荼毘の煙は、翌朝には稚児ヶ岳と北峰の間に低く広がって「煙の宮」伝説になったことが伺われます。
上皇荼毘の煙にこの状況をもたらしたのは放射冷却現象だったと考えられます。下の写真は地上から上がった煙が僅か十数メートルほどの高さで大きく広がった様子(坂出市神谷町付近:2020年10/1午前7時頃)ですが、荼毘の煙も上空から押さえられるように谷あいに広がった様子が想像できます。
上皇崩御後に帰京した女房兵衛佐局から藤原俊成に伝えられた、上皇が配流中に詠まれた御宸筆の歌から、上皇は御苦難の中にあって、仏教に帰依されていたことが分かります(この歌は「長秋詠藻」(藤原俊成歌集)に搭載されています)。