崇徳上皇の葬列と荼毘

上皇御柩が荼毘に付されるため白峰に向かう途中、激しい雷雨のため高屋阿気の地に留まったとき、柩を置いた石に血が「鈍染」し、荼毘の煙は白峰山の谷に漂ったという、「血の宮」と「煙の宮」の伝説。この雷雨と煙の出来事は、初秋(現代歴10月初旬)における寒冷前線通過による激しい雷雨と、その後暫くして晴れて風も止み、翌朝まで放射冷却によって冷たい空気に厚く覆われた結果、朝には荼毘の煙は上空に上がらず谷あいに低く広がっていたことを明らかにしています。これらの伝承は連続する一連の気象状況の変化によって起きる出来事として説明できることから、創作されたものではなく実際に起きたことだと考えられるのです。
また、この伝説は「怨霊」や「恨み」と結びつけられることもありますが、葬列と荼毘の日の気象状態がが起こした事実として捉えられることから、850年以上前の出来事に思いをはせることを通じて上皇を偲ぶことに繋がると思います。上皇崩御後に帰京した女房兵衛佐局から藤原俊成に伝えられた、上皇が配流中に詠まれた御宸筆の歌からも、上皇は決してこの地で「怨霊」となったのではなく、どのようなことがあっても仏教に帰依され続けたと受け止めることができます(この歌は「長秋詠藻」(藤原俊成の歌集)に搭載されています)。「怨霊」説は、「怨霊」が必要な人たちによって創作され、それ以降、いろいろな話や文書の中で繰り返されたことから次第に大きな影響力を持つようになったのであって、「怨霊」という事実はなかったのです。
 
現代歴の10月3日は、上皇柩が白峰山に向かって「野澤井」(八十場の泉)を出発したとされる日、翌日は「血の宮」伝説として伝わる日に当たります。

 

上皇御柩が東に向かって渡った綾川。現在では洪水対策の整備が進み川幅も広くなりました。昔は大雨になると急激に水嵩が上がるくらい川幅も狭く、下流には幾度の氾濫があったことが伺える形跡や地名が残っています。
野澤井を発った柩は白峰山方向へ向かうため、現在の鴨川駅付近で綾川を渡ったと思われますが、翌日にようやく7km程先の高屋付近に至ったことからすると、私説ながら、柩は国府庁横の女房兵衛佐局が幽閉された上皇とは普段は離れて住まわれていたのではないかとも思われる「鼓の宮」(鼓岡)に向かい、惜別儀礼の翌日に高屋(鼓岡~高屋:約6km)に向かったのかも知れません。(本編:配流地「鼓岡」と「鼓岳」」


柩は、「血の宮」の後ろの山を越えて、狭く険しい山中を荼毘の場所(稚児ヶ岳の上)に運ばれたと思われます。この辺りから2km程の道程ですがかなりの時間を要したことでしょう。荼毘にあたって、朝廷の関与は何もなく(使者も参列も供物も弔意もなく)全て讃岐国庁の責任で行われたとされます。荼毘の場所がそのまま墓所になったのではないかと思います。

 

現代歴の10月5日夜8時頃始まったとされ夜通しかかった荼毘の煙は、翌朝には稚児ヶ岳と北峰の間に低く広がって「煙の宮」伝説になったことが伺われます。
上皇荼毘の煙にこの状況をもたらしたのは放射冷却現象だったと考えられます。下の写真は地上から上がった煙が僅か十数メートルほどの高さで大きく広がった様子(坂出市神谷町付近:午前7時頃)ですが、荼毘の煙も上空から押さえられるように谷あいに広がった様子が想像できます。

 

2020年10月01日