検証(しど、直島、松山)
[保元物語の讃岐地名を探る]
保元物語諸本に書かれた上皇配所地名は「四度、志度、志戸、四戸、直島、讃岐国府、松山の堂、鼓岡」等がありますが配流地名・配流順は混乱しています。こうした状況からは、京における乱の出来事については概ね詳細かつ正確に把握されている一方で、讃岐における出来事や地名については事件から数十年経って物語が作られたとき遠く讃岐まで来て調べた訳ではないのでしょうから、京における出来事の詳細な記載に引きずられて讃岐内の記事を同列には評価できないことが読み取れます。
これは、配流地讃岐は京からは遠隔地であり、配流8年余の中で幽閉されていた期間が長かったことが讃岐での具体的な事実記録が極めて少ない原因と考えられます。配流地名については上皇崩御地名から転化したと思われるもの(「しど」に漢字を充てた地名)や、伝聞による地名と思えるもの(国府、鼓岡)等が見られるので、それらの信頼性を改めて確認していきたいと思います。
(1)「しど」について
先ず、上皇崩御の地名から転化したのではないかと考えられる「四度、志度、志戸、四戸」(いずれも読み方は「しど」)について分析してみます。
保元諸本にこれほど多くの「しど」が使われているのは何故でしょうか。背景には、上皇が崩御されたこととその土地名を示す「しで」が京に伝わった後、数十年のうちに京でなじみのあった「しど」の音に変化し、さらに上皇崩御のこの地名は配流先の地名としても採用されて、「志度」や「四度」等の字が充てられたと考えています。
「しで」を崩御地の情報として「讃岐院はしでの地で崩御された」ということを京に伝える必要があったのは、「しで」が歴史のある場所だったこともあるのでしょう。「しで」は、国司菅原道真公が讃岐大干ばつの折りに降雨祈願のため死装束で出発し住民に見送られた地名であると伝わっています。今は「天神」という地名になっていることが城山神社石碑に残されていますが、現在の「天神」地名はまさに上皇が暗殺されたと伝わる「柳田碑」周辺(「しで」)を指しているのです。
つまり、これほど 多様な、鼓岡の地元には存在していない「しど」が保元物語の諸本に執拗に出現しているのは、「しで」が上皇崩御の重要情報として京に伝わっ たものが音変化したと考える外には理由が見当たらないのです。香川県東部の「志度」「志度寺」はもともと崇徳上皇と繋がる歴史事実がないことからもそのように考えるほかないのです。
上皇はその日、国府庁で開かれた鼓の宴に招かれて八十場の幽閉場所から誘い出されて国府庁の隣接地で暗殺されたと地元では伝わっています。その崩御地名が京に伝わったあと「音」が転じて「しど」となり、配流先として採用されたのでしょう。この辺りには「しど」という地名が全くないことからも「四度」「志度」「志戸」「四戸」は配流先ではありません。こうして、「しで⇒しど」と「鼓岡」が近接場所にあるとは知らずにいずれも配流地名として採用されたと考えられます。
(2)「直島」について
保元物語諸本にある「直島」はどうでしょうか。端的に言えば、「直島」は当時、備前国に属していたことが証明されているのですから、保元金刀比羅本等にあるように讃岐国司が勅命と異なる他国に御所を建てて上皇が遷られることなど絶対にあり得ないのです。直島は海上移動の寄港地でしたから汐待ち、風待ちのために数日間留まったことは十分想定されるので、事実関係としては、その間の上陸・宿泊に関連した場所が後に祀られたということなのでしょう。
ただ、ここでの滞在は数日であっても、京から直島に至るまでに感じた無念や寂しさと讃岐の配流地で予想される厳しい生活への覚悟が必要な耐え難き時間であったろうと思うと、この島で上皇御一行が関わられた場所はまさに祀られるべきなのだと思います。
(3)「国府」「松山」について
保元物語の最も古い形態を留めるとされる「半井本」では、「御所は国府にありけり」「讃岐国府にて御隠ありぬ」となっています。これらの「国府」はその場所を特定した表現ではないようです。
「国府」と書かれていることを受けて、一部には上皇行在所は国府庁内にあったとする意見もあるようですが、保元物語の上皇配所は地元の歴史事実なども踏まえて評価しなければいけません。半井本には蓮如が幽閉場所の柵内に入って歌のやり取りをしたことが書かれていますが、幽閉場所を囲む門に入ったという状況から、それが国府庁内ならば約6年に及ぶ上皇行在所を示す地名が残っているはずなのに讃岐国府の発掘に伴う地名調査からは直接的にも間接的にも行在所を示す地名は見出されていません。
半井本作者においても幽閉場所の現地調査は行っていないので、誤りではないものの否定されない広めの範囲、国府近隣域内という意味で記載したと考えられます。
保元物語に出てくる讃岐の地名で確定的なものは御陵のある「白峯」だけで、それ以外は誤りや現代の地名と比較すればかなり広い範囲を指すなど不確定な記載になっています。保元物語の中では最も古い形態と言われる「半井本」の「国府の御所」は、広い意味では事実と言える一定の地域の範囲を示していますが、その範囲はやや広く、海岸線から国府庁付近までの近接範囲を指していると理解でき、決して現代地名のように特定地名の記載ではないのです。
「松山」について同様に「松山郷」を指しているのではなく、つまり「松山」を讃岐の人がどの地域だと認識していたかではなく、保元物語が書かれたのは京ですから京の人においてどのように認識されたかによって「松山」を受け止めなければいけないはずです。「松山」が松山郷を指しているというのは讃岐人の地元認識を適用した解釈なのです。
つまり、配流直後の「松山の堂」も、幽閉御所のある「松山の津と申す所」もいずれも京の人が認識する「松山」に含まれていて、国府庁からか海岸線に至る南北の範囲と、船から展望することのできる東西の範囲(現在の坂出市御供所から大屋冨)を含むぐらいが「松山」と認識されたのだろうと理解すると、古書に出てくる「松山」の範囲に整合しています。
(4)「鼓岡」か「西庄の崇徳天皇社」か
特定の地名がなかったためか、朝廷が葬儀に全く関与しなかったためか、上皇行在所探索の重要な場所でありながら軍記物語が全く関心を寄せなかった場所があります。そこは、上皇の殯儀式の跡、二条天皇が祠を建てた場所です。上皇の葬送儀式の場所は軍記物語に書かれていませんが、未開森林のため(これが幽閉場所に選定された理由と考えられる)その場所には特定の地名がなかったのです。しかし、そこは前述の「国府」や「松山」の認識に含まれる地域内にありますから、「国府」の域内に含まれていると分れば、祠の場所も上皇配流先に繋がり得る場所だと認識できたはずです。
しかし、この場所は地元に伝説が残る処であるものの、そこにあったはずの建物は移築のため解体され、この地域が開発されるまでは特定地名がなかったこともあって、現地調査を行わなかった軍記物語作者は気がつかなかったのでしょうか。
いずれにしても、その場所が軍記物語が表す地名の域内に含まれていると理解できていれば、明治以降の配流先検討の対象から外れることもなかったでしょう。
この結果、配流の3年ほど後に「海士の庄」の御所から遷って幽閉された場所は、保元物語に記載された「国府」の範囲内に所在する、
①特定地名の「鼓岡」、或いは
②二条天皇が祠を建てた特定地名のなかった場所、
いずれかということになります。
次の記事では、上皇の幽閉された御所がどこにあったのか、鼓岡か西庄の天皇社の場所か、最終的な検証を行います。