「鼓岡」配流説の虚構

*一次資料から*

崇徳上皇配流の時に書かれた信頼の置ける一次資料に記された、「讃岐のさとの海士庄」に御所を造営せよとする勅命に対して、明治以降現在までの通説では、この勅命によって国府庁横の「鼓岡」に御所が建てられたと説明しています。しかし、これについて疑問に思うところは、第一に、国庁横に御所を建てよという勅命ならば、国庁の隣接場所であることを示す文言になるはずです。第二に、国庁のある場所は、漁業や海運の地、則ち「海士庄」ではなく、当時でも海岸から4キロ以上離れた川に面した山麓です。国庁のある場所が「海士庄」であることを示す根拠は何もありません。ですから、この一次資料からわかることは、海士庄に造営された御所が「鼓岡」であると読むことは出来ず、つまり「海士庄」たる他の場所こそ御所造営地でなかったかという点です。

このように、上皇御所を造営する勅命が指示した場所は「鼓岡」ではないと考えられますから、後時代に作成された保元物語などの「読み物」に配流先が「鼓岡」と書かれているのは、憶測に基づいた事実を誤った記載であると言えるのではないでしょうか。そこには、誤認に至った事情や経緯があったと考えるのが妥当でしょう。信頼できる根拠(一次資料)は最優先に考慮される必要があり、後時代に書かれた「軍記読み物」をもって一次資料の信頼性を覆す根拠にはならないと考えられます。
つまり、「海士庄」を覆す、「鼓岡」が正しいとする他の一次資料が出現するか、「海士庄」から「鼓岡」への遷幸を示す論証がないかぎり、行在地を誤認した「読み物」が如何に広く流布していたとしても、「鼓岡」行在が事実であるということは成り立たないのではないでしょうか。
 
保元の戦いは突如として起こったことから、上皇配流が前から想定されたものではないので、配流御所が造営されるまでの仮住まいが必要であったのは間違いないと言えます。仮住まいとなった讃岐最初のお住まいの場所は京の注目も大きかったため京でも広く事実が伝わり、それが讃岐での接待役となった綾高遠の屋敷であったことについては、京から遥か遠い讃岐の情報であっても信頼性があると考えられます。

以上から、上皇は、最初に仮住まいした高遠の屋敷のあと、海士庄に新しく造営された御所に遷り住まわれたと考えるのが根拠(一次資料)に基づく経過である、という考えに異論の余地はないでしょう(長命寺行在説は、方四丁もの巨大寺院説は怪しいこと、建立が江戸初期という説があるため除外しておきます)。なお、ここまでのお住まいの間に歌に詠まれた「松山」は、視覚的地理理解から得られる、綾川両岸を真ん中にする白峰山と御供所平山で囲まれた湾内地域のことを表現しているように解されます。
勅命に従った配流当初の上皇お住まいは以上ですが、「軍記読み物」には上皇が厳しく幽閉された場所で生活され、京からその場所を訪れた者がその様子を京に持ち帰って伝えたと思われる話が書かれていますが、これについては、讃岐からの伝聞ではなく讃岐を訪れた者が京に帰って伝えた話であるために一定の信ぴょう性・信頼性があると言えます。厳しい幽閉はおのずとそうした様子をもたらすと思えますが、話が誇張されて、後に「怨霊」の姿に利用されたと考えられます。
このことから、上皇の生活には、「海士庄」に造営が命じられた御所での生活から、厳しく幽閉された生活へと大きな変化があったことが分かります。お住まいが海士庄から幽閉地に遷ってからは、そこで幽閉されたと考えられます。つまり、この御遷幸は、配流当初には予定されていなかった可能性が高いと言えるのです。

お住まいが遷された背景には、大きな動機が存在したと考えられます。それは京の政権にとって不穏な事態が現実となるのを防止する目的であると考えるのが自然です。いずれにしろ、幽閉は外部との情報を遮断することや身柄を固く閉じ込めて脱出を防止することが目的と考えられるので、この目的を達成することができる場所が幽閉場所として選定されたはずです。そして、上皇幽閉場所に僅かながら訪問者があったことは、そのことが京に持ち帰られていることから、この密かな訪問は事実と受け止めていいのではないでしょうか。

この幽閉場所が府中の国府庁横にある「鼓岡」なのかどうか、諸資料を検証してみましょう。

*諸資料、地勢などから*

現在の通説とされる「鼓岡」行在(幽閉)説では、勅命により造営されたのが「鼓岡」の「木の丸殿」だとして、最初の仮住まいである綾の屋敷又はそれに隣接するに長命寺に3年程住まわれた後に、「鼓岡」に遷られて、そこで厳しく監視されたとしています。
しかしながら、「鼓岡」が事実とは考え難い点に目を向けてみましょう。

勅命にも関わらず、「海士庄」ではない国府庁の横に御所を建てたというのなら、勅命に反した造営を行ったことになる。当時の国司は、任命地に赴任しない「遥任」とはいえ、配流を命じた京の政権方の国司であり、勅命に反することはないと考えられます。

仮に、海に近い綾の屋敷を「海士庄の御所」(この解釈はそもそも間違っていますが)としても、幽閉された建物が丸太を合わせた粗末な建物だったことは諸資料に共通し疑いがありませんが、その簡素な建物に3年もの建築期間が必要とは考えられません。勅命を受けて急ぎ建築にかかったはずなのに、3年後にようやく造営御所へ遷すのでは勅命に従った行動でないと言えますが、その説明がありません。
(以上、「鼓岡」説には、なぜ「海士庄」でない御所なのか、なぜ造営御所への御遷幸が3年後と遅いのか、説明や論証がありません。)

通説では、国庁から監視し易いので「鼓岡」が選ばれたと説明しています。しかし、国庁横の小さな丘からは国庁の動きが上からよく分かる位置関係にあり、むしろ反対に幽閉された側からすると脱出の機会を窺ったり情報御収集するのに都合の良い場所です。これでは幽閉の目的にそぐわない場所であると言えます。

幽閉場所の様子は、三方が山に囲まれ、「海洋煙波の眺望」、「海づら近き」、人の気配もない場所とされているのに、「鼓岡」のある国府庁付近は、海も遠く、多くの役人や付近の住民の声が聞こえる繁華な場所です。つまり、幽閉場所の様子と「鼓岡」の場所とは合致せずどちらかが誤りではないかと理解され、その場合、他の多くの状況とは整合しない「鼓岡」記載の方が誤っていると言わざるを得ないのです。

幽閉場所は武士によって監視されていたはずですが、「鼓岡」の場所には監視役であると考えられる「衛士」の存在を示す記録や地名、上皇行在所であったことを示唆する地名は何もありません。


江戸時代中期の記録(「三代物語」)によると、「鼓岡」には地元住民が利用する「庵」がありました(古代からこの場所には何らかの建物・屋敷が建てられていたようです)。ここが5年余に亘る上皇行在所であったならば上皇御霊は祀られ、苦難の時期を過ごされた「鼓岡」であるならばそこには崇敬の歴史を重ねた事実と記録が残っているはずですが、実際には行在所として語り継がれていなかったことが「庵」に過ぎなかったことに反映されているのではないでしょうか。

このように、「鼓岡」には行在所の実体として説明できるものが見当たらないことから、「保元物語」等に「鼓岡」と書かれたことをもって後世の図書(「全讃史」や「綾北問尋鈔」等)にも保元物語流布の影響を強く受けて「鼓岡」が転用・流布されたのではないでしょうか。従って、諸本に「鼓岡」記載があるからといっても基になった保元物語が誤っているのであれば上皇が幽閉された場所(御所)を示す根拠とするのは難しい(根拠とはなり得ない)と考えています。また、「鼓岡」説の傍証物(椀塚、内裏泉など)は、食器の時代検証記録が見当たらなかったり小さな井戸があることが直ちに行在所の証拠とは言えないなど、「鼓岡」説に合わせた創作なのではないかと考えられます
(本編と既ブログを整理してまとめました)

2021年06月30日