「神仏判然令」と行在所伝説

 写真上:白峰宮と天皇寺高照院を合わせた境内は、神仏習合の歴史を感じさせます


「明の宮」崇徳天皇社の場所が上皇行在所(幽閉場所)だったことは「明の宮」の地元で語り継がれ、江戸時代の藩主もそのように認識していた(本書分析による)のに、明治以降に突然「鼓岡行在所説」を広めようとする動きが起きたのは、慶応4年(明治元年)3月から10月までに発出された12の法令を総称する「神仏判然令」がきっかけになったと考えられます。

「神仏判然令」は王政復古の大号令を受けて「あくまで神仏の混沌を禁ずるもの、神社と寺院の区別を図るためのもの」(「明治維新と天皇・神社」(錦正社))50頁)でしたが、地域による強弱はあったものの仏教排斥、「廃仏毀釈運動」が起きたことも事実でした。崇徳天皇社においては別当寺摩尼珠院が廃寺になりました。そして、この時期、保元物語金刀本に書かれた「鼓岡」に「鼓岡神社」が建立されて、地元政治が主導して崇徳上皇行在所があったという運動が始まりました
摩尼珠院廃寺の直後から「鼓岡」を顕彰する運動が始まった理由の一つを推測すると、天皇社の別当を担っていたのに廃寺となった摩尼珠院の役割を「鼓岡神社」に移して祀り続けたいという考えも一部にはあったかも知れませんが、それよりも奉行所権限のあった摩尼珠院に対する見方と、「神仏判然令」による仏教排斥運動とが合わさったことにあるのでしょう。
そして、その運動が、軍記物語にどう書かれていようとも数百年言い伝わっていた上皇配流の場所を変更しようとする力になったと考えられます。

また、明治以降「鼓岡説」が鼓岡の地元に浸透していった背景には、上皇崩御の場所から行在所を誤って推測して「鼓岡」と書いた(本書第七章「鼓岡」と「鼓岳」に詳述)軍記読み物が讃岐においても流布していたため、上皇配流の地でありながら徐々に「鼓岡説」が浸透する素地が作られていたのではないかと考えられます。江戸中期以降になると地元で書かれた書物にまで軍記物語に書かれたことを取り入れて行在所(幽閉場所)を「鼓岡」とする「綾北問尋鈔」(1755年)や「全讃史」(1828年)等の書物が出現しています。

しかし、「鼓岡」と記した軍記物語がその同じ文中で伝える上皇幽閉場所の様子からは、「鼓岡」とは異なる場所が幽閉地であることを推測させます。
・「海づら近き処」「海洋煙波の眺望」(海辺に近く、そこから海を見渡せる)が当てはまる配流地伝説が残る場所は、当時の海岸線に近かった「明の宮」の場所しかないこと、
・「田畑もなければ土民の家とてなし」は国府庁横の鼓岡付近の様子ではないこと、

こうしたことを踏まえると、誤って「鼓岡」と記載した保元物語等の人気読み物の広がりが明治期に政治的な立場から進められた「鼓岡説」を受け入れる下地となり、「神仏判然令」による権限の変化を契機にして、「鼓岡」を通説化に向かわせようとする運動になったのでしょう。

2021年01月03日