はじめに

保元の乱により讃岐へ配流となった崇徳院(本書では以下、主に「崇徳上皇」「上皇」と記す。)の御遷幸先について、軍記物語の『保元物語』諸本や『平家物語』異本には直島、「綾高遠の松山の堂」、鼓岡、志度などと記され、『白峯寺縁起』では「高遠が御堂」から「鼓岳の御堂」に遷られたとしている。一方、明治以降に作られた「通説」では概ね、最初は綾高遠の屋敷に入り、間もなく長命寺に遷り3年を過ごされ、後に国府庁横の鼓岡に遷られたということになっている。
地元には他に、初めの頃の行在所として平山(坂出御供所)浦の「真光寺屋敷」であり、崩御されるまで幽閉されていた場所は、のちに「崇徳天皇社」(「明(あかり)の宮」)として祀られたところであるという言い伝えが残っている。
明治以降の「通説」の根拠にはいくつかの疑問点が指摘され、必ずしも事実関係が正しいと認められている訳ではない。
このため、地元伝承、歴史事実、古書等の分析を行って、配流地検証の先行研究と言える故三木豊樹氏による調査内容も参照しながら再検証に取り組んで行くことにした。
             

                             北山本新庄研究室

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